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第五章 【天然記念物につき】



只今、17時40分─。

店の裏口から出来るだけ音を立てないように、中に入る。わたしと春香専用の狭い更衣室(店長は厨房で着替える)のドアをソーッと開けて中を覗く。


良かった。いない。ロッカーもどきの棚にバッグを置き、Tシャツを脱いだ。

店でのスタイルは原則、白いシャツに黒いパンツ、そして前掛けだ。これらは全部自前で、2、3着を洗濯しながら着回している。

基本は家で仕事着に着替えてから来るが、夏場は出勤するまでに汗をかくから店で上だけ着替えるようにしている。


「ゆ〜き〜ね〜ちゃ〜〜ん」


「ギャ──!!」突然、後ろから胸を鷲掴みされる。「・・・こそっと入ってくるな!そして胸を掴むな!」


「アンタもこっそり入ってきたじゃない」


見られてたか。「別にそんなつもりはなかったけど」


「逃げても無駄よ。全部口割らせるから」 


「わたしは容疑者か」


「誰よ!あの超絶美男子!」


さっそく来たか。って──「誰のこと?」


「はあ?誰って、この前アンタを迎えに来てた男よ」


「早坂さん?」


「いやだからそれを聞いてるし!」


「・・・早坂さんって、美男子なの?」


春香は信じられないといった顔でわたしを見た。「逆に、そう見えないわけ?」


最初に会った状況が状況なだけに、そういう判断には至らなかった。「うーん、よくわかんない?」


「かあ──、これだから天然記念物は!美男子どころじゃないわよ、あの身長と脚の長さも!絶対モデルでしょ?」


「・・・わかんない」


「わかんない?」


「うん」


「なにが?」


「え、何してる人か」


春香が、ボケーッとわたしを見つめる。「どーゆう知り合いなわけ?」


「どーゆうって・・・」妖怪に襲われそうになった時に助けてくれた人。「まあいろいろあって、最近知り合ったというか」


「何処で?」


「・・・仕事帰り」


「ナンパ?したの?」


「そこは、されたのじゃない?違くて、まあちょっと、事情があるのだ!」一刻も早く、話題を変えたい。「そういえば、店長のお母さん大丈夫なのかな?ギックリって言ってたけど」


「この前はデートだったわけ?」


「無視かい。だから、違うって。そーゆうんじゃない」


「じゃあどーゆうのよ。何処に行ったの?」


本当に、容疑者の気分になってきた。こんな刑事がいたら、すぐに口を割りそうだ。


「ちょっと知り合いの所にね。2人きりじゃなかったし」


「え?他にも誰かいたの?男?」


マズイ。余計な事言ったか。シャツのボタンを留め、袖を肘まで捲る。「とにかく!知り合いで、用事があって、出掛けただけ!以上!」


「付き合う可能性はないわけ?」


続くか・・・勘弁してくれ。「だから、そんなんじゃないって。しかもあの人オネエだし。春香も聞いてたでしょ」


春香が人差し指をわたしに向けた。「そこよ。なんで、あんな喋り方なのかしら?」


「なんでって、オネエだからじゃ」


「同性愛者ってこと?」


「・・・や、わかんないけど」


「違うわよ。アレはゲイじゃない」


「えっ、そーなの?」


「絶対ノーマルよ。言ったでしょ、兄貴がゲイだからわかるって」


そういえば、そんな話してたっけ。追及出来ないし、する気もないが。「なんでわかるの?」


春香は身体から気でも放つような手振りをした。「こう、全身から滲み出るのよ。特有のモノが。上手く説明出来ないけど」


「うん、全然わかんない」


「とにかく、ゲイじゃないのは間違いないわ。だぁ〜かぁ〜らぁ〜」猫撫で声が発動し、わたしの腕に抱きつく。「紹介し・て」


「・・・この前したけど」


「もお〜、そーゆう意味じゃないでしょ?」頬をツンと突かれる。若干強めだ。


「だ─っ!離せ!知らないよそんなの!・・・彼女いるかもしれないし」


「じゃあ聞いてみて」


「誰が?」


「アンタ以外、誰がいるのよ」


「・・・無理!」


「なんでよ」


「なんでって・・・どう聞いていいか、わかんないし」


「日本語喋れる?」


「この会話は何語だ」


「ふーん・・・」


春香がわたしの顔をジーッと観察する。「なに」


「いや?その人の事、好きなのかなーって」


理解するのに、1分はかかったと思う。「はあ・・・?わたしが、早坂さんを?」


「紹介を渋るってことはそうなんじゃない?嫌そうな顔してるわよ?」


思わず、棚に置いてある鏡で自分の顔を確かめる。──うん、普通だ。



「なんでそうなるかな。だいたい、会ったばかりだし」


「それがなに?時間なんて関係ないじゃない。一目惚れだってあるのよ。人を好きになるのはね、本能なの」


──この説得力は経験値の違いか?


「本能ねえ・・・あ、いや、違うからね。それはない」


「あっそ、まあ、天然記念物に聞いても無駄よね。自覚したら応援してあげるから言いなさい」


「なんの自覚だ・・・さっきまで紹介しろって言ってたくせに」


「そりゃあ、あんな男と街中歩いたら気分最高よ?でも、あたしは付き合う男は見た目より優しさ重視なの」


「・・・早坂さん、優しいよ」というか、過保護?


「あららら〜?乙女の顔になってませんかあ〜?」


「ニヤニヤするな!事実を言っただけ!」


「まあ、悪い人じゃないと思うし。あの人なら許すわよ」


──何目線?ふと、思い出した。「そういえば、早坂さん、春香に警戒されたって言ってたけど」


春香は少し驚いた顔を見せた。「鋭いわね・・・顔には出してないはずなんだけど」ボソッと呟く。


「なんて?」


「なんでもないわ。まあ、何かあったらお母さんに言いなさい」


「誰がお母さんだ」



今になって、わかった事がある。

早坂さんが人から見られるのは、美男子だからなのか。ただ、デカいからだと思っていた。

ということは、瀬野さんも美男子?頭の中で瀬野さんの顔を思い浮かべる。───判断不能。

そもそも、美男子の基準ってなんだ?好みの問題では?


こんな事を言うと、また天然記念物だのと馬鹿にされるから、絶対口には出さないんだ。







2日ぶりの営業の影響なのか、単に週末という事でなのか、店は開店時から目が回る程の忙しさだった。4人掛けのテーブル全てが4人組

で埋まると、店内は地獄と化す。

そんな中でも、営業スマイルを一切崩さない春香には、本当に頭が下がる。


そして自覚したのは、体力の低下だ。これまで、どれだけ忙しかろうが、休む暇なく店内を歩き回ろうが、こうやって椅子にへたり込む事はなかった。


「雪音ちゃん、大丈夫?相当疲れてるね」


今日は、店長のたばこに突っ込む気力もなかった。


「わたしの肩、石とか乗ってません?」


「・・・うん、なんか見える気がする」


「アンタ、来た時から顔色悪いわよ。あたし片付けやるから、休んでて」


今日、春香が何かと率先して動いてくれたのはわたしを気遣っての事だったのか──「ありがとう・・・お母さん」


連日の疲労が、ここにきて表れたか。頭がボーッとする。今日は帰ったら、即寝だな。






── 翌日。

顔を洗いに行った洗面所の鏡を、思わず2度見した。お前はゾンビか。顔は青白く、目が血走っている。結局、あまり寝れなかったからな。


若干の頭痛と、食欲不振。風邪だろうか。

念の為、熱を測ると、37.3℃─。微妙なところだ。いつもは少々体調が悪くても、寝ればすぐに治るんだが。


しかも、よりによって今日は土曜日。忙しいのは、ほぼ確定だ。こんな時、従業員が2人しかいない厳しさを痛感する。前に、バイトを雇うかという話が出たけれど、何処かに流れた。

まあ、わたしも春香も滅多に体調なんて崩すさないから、そこまで行きつかなかったというのもあるが。実際、これまでの店の臨時休業は、すべて店長の事情によるものだ。


少しでも顔色を良く見せる為に、今日はチークでも塗るとするか。だいぶ前に買ってから、使うのは今日で2回目だ。最初にこれを塗って出勤した時、「子供の時にかかったりんご病思い出したわ」と春香に言われ、心が折れた。


行きながら栄養ドリンクを買って、今日を乗り切らねば。





「顔に発疹出てるわよ」


「チークだ!」出勤後、開口1番に受けた言葉だった。


「広範囲に塗り過ぎなのよ。前よりはいいけど」


「気合い入れる為に頬っぺ叩いてたら、見事に広がって修正不可能になった」


「なんの気合い?」


「・・・仕事に!」


「あそ。いいけど、昨日に増して顔色死人だから、余計に目立つわよ」


「若干、ちょっと、風邪気味かな?ってくらいだから大丈夫。まあフォローは任せた!」


「それはいつもの事でしょ。なんで休まないのよ」


「春香だったら休んでた?」


──わたし達は見つめ合い、言葉に出来ない想いを、秘めたる心を、互いの目を通し、語り合った。そして、すがる想いで彼を見つめるのだった。


「ん?どうしたの2人とも」


「春香よ、そなたから伝えてくれぬか」


「殿、出来れば早急に人員の確保をお願い申し上げたい」


「・・・え?殿?何言ってるの2人とも」


「我々だけでは、力不足と存じます」


「それがしも、春香に同意いたす」


「・・・え、なになに時代劇ごっこ?」


「バイトを雇ってくれませんかって事です」春香の声は、若干不機嫌だ。


「あー、その話ね。なんでまた急に?」


「急にではないです。2人で回してると、どっちかに何かあった時大変なんですよ。雪音も体調悪いのにこうやって出て来てるし」


「えっ、雪音ちゃん体調悪いの?・・・そういえば顔赤いね。熱あるんじゃ?」


「チークです」


「体調だけじゃなく、何かあった時に休める環境を作ってください。ただでさえ2人でギリギリ回してるのに。もう1人いてくれたら負担も減ります」


いつになく真剣な春香に、店長も真面目な顔になる。「うん、わかったよ。近々、張り紙でも出そうかね」


「近々?」春香とハモる。口調に違いはあるが。


「・・・早急に準備します」






オープンから3時間後 ─。

常連のお客さんを見送ったわたしは、厨房の冷蔵庫からエナジードリンクを取り出し、息をつかずに飲み干した。

"この1本があなたを動かす"パッケージの言葉に惹かれて、2本購入した。


「動かしてくれ・・・」動き回ったせいか、頭痛が悪化している。


「春香ちゃん、雪音ちゃんが缶と会話し出した」


「雪音、ピーク過ぎたし、ちょっと座って休んでて」


「いや、だいじょーぶ。1回座ると立ち上がる時めまいするから、動いてたほういい」そうじゃなくても、今日は春香に助けられてばかりだ。


「アンタそれ重症じゃない」


「おーい、お姉さーん!おしぼりちょうだーい」


──そして、ここにも頭痛の種が。聞き慣れた声とセリフに、わたしと春香はうんざりと目を合わせた。


「はいはい、こぼしたのね。あたし行ってくるわ」


「ヨロシク」


毎週土曜日に現れる、セクハラじじいだ。今日は開店と同時にやって来て、いつものお友達らしき人物と、いつものようにワインのボトルを開けている。

春香が全部対応してくれているが、今日はやけに視線を感じような──。


「気のせいじゃないわよ。アンタのことずっと見てる。あたししか席に行かないから不満なんでしょ」


「ずっとって・・・」寒気がした。「今日も寝るよね、たぶん」


「寝てくれたほうが助かるわ。そしてラストオーダー過ぎたら、起こして帰らすわよ」


案の定、いつの間にかおじさんはテーブルに突っ伏していた。そしていつも通り、お友達はおじさんを置いて店を出る。

普通、寝ている友人を置いて帰るか?春香いわく、寝るのをわかっててタダ酒を飲みに来てるとか。


10時半のラストオーダーを迎えた時、店内にはおじさんしか残っていなかった。あえて時間が経過するのを待ち、春香が声をかけた。

いつものようにあと1杯だけが始まったが、もう10分前にラストオーダーは終わっていますと、今日も完璧な笑顔で神対応。


わたしは他のテーブルを片付けながらその様子を見守っていた。しぶしぶと会計を済ませ、春香がほぼ強引に出口まで連れて行く。これも毎度の事だ。



いつもと違ったのは、おじさんの行動だった。1度店を出たおじさんは、すぐに戻って来た。


「あれ、忘れ物ですか?」春香はお手洗い(わたしの為に我慢していた)に行っている。


「いや、おねーしゃんに、言いたい事があってなあ」


フラフラしているが、助けには行かない。「なんでしょう?」


「あいちゅはなあ、昔から執念深いちゅーか、しょーゆうとこがあってなあ」


プリーズ、呂律!「あいつ?なんの事ですか?」


「うーん、俺も、無理でゃから諦めろと言ってるんだ」


──この人は、さっきから何を言ってるんだ。「あの・・・」


「お客様!忘れ物ですか!」トイレから戻ってきた春香が、ドシドシと大股でおじさんに迫る。


「よし!言いてゃい事は伝えた!じゃあな〜姉しゃん」


ぜんぜん伝わってませんが。

春香の圧に押されたおじさんは、フラフラと店を出て行った。


「何あれ、何言われたの?」


「・・・よくわかんない」


「ったく、これだから酔っ払いは嫌なのよ」


春香も酔うとあんな感じだけど。と思ったが、今日は1日助けられたから、思うだけにしておく。


あいつは昔から執念深い。おじさんはそう言った。いったい、わたしに何を伝えようとしていたのか。考えても仕方ないし、ただの酔っ払いの戯言だと思っていた。

───この時は。



店を出て外の空気を吸うと、いくらか頭がスッキリした。問題は、どうやって帰るかだ。早く帰って寝たいところだが、土曜日の地下鉄を考えると、頭痛が悪化しそうだ。こういう時、人に酔う自分を恨む。

風に当たりながら、ゆっくりと帰ることにしよう。


──歩きながら、不思議な感覚に襲われた。見慣れた景色が、いつもより鮮やかに見える。

この街って、こんなに明るかったっけ。そう感じるのは、何かしらの心境の変化なのか。


早坂さんと瀬野さんに会ってから、わたしの生活は一変した。こんなに時間の流れが早いと思った事はない。それだけ、怒涛の日々だった。わたしはこの数日で、"2回も"妖怪に会っている。正確には、財前さんは半分が、だが。 


以前のわたしには考えられない事が、普通に起きている。自分でも予想外の発言や、行動をしたり、もしかしたら、わたし自身が1番、自分に戸惑っているのかもしれない。

でも、不思議なことに、早坂さん達に会う前の自分に戻りたいとは思わないんだ。



そんな事を、しみじみと思いながら歩いていたせいか、気づくのが遅れてしまった。


わたしは昔から、歩く時に後ろを振り返る癖がある。それは、わたしにしか見えない存在の有無を、無意識に確認しているからだ。


だから、気づいた。店を出てから、ずっと同じ人が後ろをついて来ている。顔はよく見えないが、白い野球帽を被っている男だ。──いや、早とちりは良くない。たまたま同じ方向なのかもしれないし。


わたしは立ち止まり、携帯をいじるふりをした。男がわたしを追い越せば、勘違いということだ。

1分くらい、待ったと思う。とっくに追い越してもいいはずだ。さりげなく振り返り、ぎょっとした。その男も、立ち止まり携帯をいじっている。──いやいや、たまたまかもしれない。同じタイミングで携帯を見る事だってある。


今度は、早歩きをしてみる。少し息が切れるくらいまで歩き、振り返った。──血の気が、引いた。さっきと、距離が変わっていない。男はまた立ち止まって携帯を見ているが、身体の動きで息が切れているのがわかる。


確実に、つけられてる。

どうしよう、このまま行けば、家まで着いて来る──?

走って逃げるか。でも、振り切れる確信はない。一瞬、警察が頭を過ったが、何かされたわけでもないし。


この先にあるのは、家の近くのコンビニだ。とりあえず、そこまで行くか。たとえ変質者だとしても、店の中で襲ってきたりはしないだろう。走る事はせず、1度も振り返らず、向かった。


コンビニの自動ドアを抜けて、とりあえず安心した。そのまま窓際の雑誌コーナーへ行き、適当に手に取る。雑誌を見るフリをして外を見ると、居た。駐車場から少し離れた所にある電柱

に隠れるようにして、こちらを見ている。

ゾワっと鳥肌が立つ。おそらく、向こうはわたしが気づいている事に気づいていない。


問題は、これからだ。中に入ってくる気配はないし、このまま朝まで待つか。その前に、わたしが不審者になり追い出される。


もうこうなったら、直接言いに行くか?

さっきからわたしをつけてますよね、何か用ですか?そして、向こうが刃物を取り出し、グサッ──。自分で自分を追い詰めてどうする・・・。


ふと、浮かんだのは──・・・携帯を取り出し、着信履歴を開く。

電話したところで、なんて言えば?誰かにつけられてるんで、助けてください?突然そんな事言われても、困るよね・・・。


やっぱやめた。携帯の画面をオフにした瞬間、鳴る着信音。驚いて手から滑り落ちそうになる。

──えっ!わたし、間違ってかけてないよね。


「も、もしもし」


「あ、雪音ちゃん?お疲れ様。今家かしら?」


早坂さんの声を聞いた途端、身体の力が抜けた気がした。


「・・・雪音ちゃん?」


「あ、すみません。今コンビニです」


「・・・1人で?」


「はい」


「この時間に?」


「仕事帰りなんで」


「あら、じゃあこれから電車とか?時間的に大丈夫?」


「いえ、歩いて帰ったので、家の近くのコンビニです」


「・・・歩いてって、あなた、今何時だと思ってるの?」


出た、過保護モード。「いつもこんな感じですよ。今日はちょっと、後悔してますが・・・」


「後悔?どーゆうこと?」


返しが早いし、自然と話す流れになってしまった。「なんか、後つけられちゃって」


「・・・どーゆうこと?」早坂さんの声が低くなる。


「いや、なんか、店出てから男の人につけられてるみたいで、今コンビニに逃げ込んだところです」


「警察には?」さらに低くなる。


「ついてくるだけで、何かされたわけでもないので、どうなのかなって」


電話の先から、重い溜め息が聞こえた。「そーゆう時はすぐに警察に連絡するのよ。その男は今何処にいるの?」口調でわかるのは、怒っているということだ。


「外の電柱の所に・・・」携帯とこちらを交互に見ている。


「警察が来たら逃げられる可能性もあるわね」呟き声だった。「その男の服装は?」


「え?あ、白いキャップに、たぶんグレーっぽいシャツです」


「その家の近くのコンビニって、最初に会った時、あなたが寄ったコンビニよね?」


「え・・・はい」そこから見られてたのか。


「待ってて。絶対、外に出ちゃダメよ。いいわね」


わたしが返事をする前に、電話が切れた。

待っててって、何を──?どっちにしろ、身動きが取れない。手に取った雑誌が60歳からの生き方という題名だろうが関係ない。迷惑な客になってやるんだ。



15分程、雑誌を読むフリをしながら外の男をの様子を伺っていた。一向に動く気配はない。

チラチラとこちらを気にしている。

何が、目的なんだろう。家まで着いて来て、部屋に入ったところで襲ってくる気か──。

早坂さんの、セキュリティ的に大丈夫?という言葉を思い出した。全然、大丈夫じゃありません。初めて、オートロックを羨ましく思った。


60歳からの生き方を棚に戻し、その隣の高血圧の食事を手に取った時、窓の外に車のライトが見えた。そして次の瞬間には、ブレーキ音を立てて、駐車場に荒く止まる。


目の前が駐車場だから、すぐにわかった。一瞬、ガラス越しに目が合う。

早坂さんはすぐに車から降り、その足で男の元へと向かった。


「えっ・・・ちょっ・・・」わたしもすぐに追いかける。


自動ドアが開いた時、早坂さんはもう男に近づいていた。男が、逃げようとする。その後ろ襟を、早坂さんが掴んだ。


「早坂さん!」


早坂さんは男を掴んだまま、わたしを見た。「・・・外に出ないでって言ったでしょ」顔は厳しいが、声は優しい。


「なんだお前は!離せ!」男は早坂さんの手を振り解こうとするが、ビクともしない。わたしと同じくらいの身長で、細身だ。


「さあて、どーゆうことか聞かせてもらおうかしらね」


「なっ、何がだ!」


「とぼけんじゃないわよ。この子の事つけてたでしょ」


「ちっ、違う!俺はっ・・・」男は帽子を深く被り、顔を伏せた。


「じゃあなんで逃げようとするのかしら」早坂さんが掴んでいた襟をグッと引き上げた。


「グッ・・・やめろっ、わかった!逃げないから・・・離してくれ!」


早坂さんが手を離すと、男はバランスを崩してよろついた。一瞬、顔がこちらを向く。


「・・・あれ?あなた・・・」


男が慌てたように帽子を下げる。


「知ってる人?」


確かめたくても、帽子のツバが邪魔で顔がよく見えない。と思ったら、早坂さんが乱暴にそれを剥がした。


「あっ!」思わず指をさした。──やっぱり、そうだ。「おじさんの友達!」


「・・・だれ?」


「今日、お店に来たお客さんです。そうですよね?」


男は目を逸らしたまま、何も言わない。

間違いない、あのセクハラジジイのお友達だ。

おじさんの印象が強すぎて存在が薄かったが、あのおじさんの連れだからこそ、ハッキリと顔を覚えている。



「答えなさいよ」男を見下ろす早坂さんの目は、恐ろしいほど冷ややかだ。

それでも黙り込む男の頭を、早坂さんが片手で掴み、こちらを向かせた。

「お耳が聞こえないのかしら?」


早坂さんが悪魔にしか見えない。「どうして、わたしの事つけてたんですか?」


「・・・俺はただ、話がしたくて・・・別に何かしようとしてたわけじゃない」


「だからって、つけていいとでも思ってるわけ?」


「話しかけられなかったんだ!だから、コンビニから出て来たら、話しかけようと・・・」


「そもそも、何の話があるわけ?」早坂さんの威圧感に、おじさんはたじたじになっている。


「わたしに何の話があるんですか?答えてください」


「5秒以内に答えないと、今すぐ警察呼ぶわよ」


「・・・ひっ、一目惚れしたんだ!」


わたしも早坂さんも、言葉を失った。「・・・えっ」


「最初飲みに行った時、一目惚れして・・・話しかけようと思ったんだ。でも、なかなか席に来ないし、周りの目もあるし、だったら店が終わった後に話しかけようと・・・」


「話しかけて、そのあとは。どうするつもりだったの」


こんなに苛立っている早坂さんは初めてだ。

男はまた黙った。


「5、4、3・・・」


「れっ、連絡先を聞くつもりだった!それだけだ!だから、警察はやめてくれ・・・頼む・・・」


早坂さんは、唸るように息を吐いた。「雪音ちゃん、どうしたい?」


やっと、わたしに発言権が回ってきた。──この人、やり方は間違ってるけど、たぶん嘘はついていない。


「おじさん、わたしはおじさんに連絡先は教えません。警察も呼びません。そのかわり、もう2度とお店には来ないでください。いいですか?」


おじさんは、すぐに頷いた。前科がつくリスクを犯すほど、わたしに執着はないだろう。


「悪かったよ・・・本当にただ、話したかっただけなんだ。怖がらせて申し訳ない」


「納得いかないわね」早坂さんの言葉は無視する。


「もう行ってください」


おじさんは申し訳なさそうに一礼すると、背中を丸めて去って行った。

これで終わったと思ったから、早坂さんが追いかけたのは想定外だった。


肩を掴み、こちらを向かせる。手に持っていた帽子を雑に被せると、おじさんの耳元に顔を寄せた。

冷静に戻ってくる早坂さんの後ろで、硬直してるおじさんが見えた。



「・・・何言ったんですか?」


「ただの挨拶よ」この笑顔が、胡散臭い。おじさんは怯えていた。ぜったい嘘だ。


「さあ、次はあなたよ、雪音ちゃん」


「え?」


「とりあえず、車に乗りましょう。送ってくわ」


「いえ、すぐそこだし、歩いて行けます」


早坂さんはジッとわたしを見据えた。そして、やや乱暴にわたしの手首を掴み、そのまま車へと連行される。

手は力強いが、歩調は穏やかだ。


「あの・・・」


助手席のドアを開け、わたしが乗るのを待っている。


「抱っこしてあげましょうか?」


「失礼しまっす!」



それから、家の前に車を停めるまで、早坂さんは無言だった。ライトとエンジンを切ると、車内がとても静かになる。

早坂さんはシートを軽く倒し、疲れたように体を預けた。


「雪音ちゃん」


「その前に!」思ったより声が響き、早坂さんも驚いている。「1つ言わせてください。・・・迷惑ばかりかけて、ごめんなさい。早坂さんが怒るのも、無理ないです。でも、来てくれて、嬉しかったです」


早坂さんは天井を見て、ふう・・・と息を吐いた。「本当に思い通りにならない子ね」

車の中じゃなければ、聞こえていなかったと思う。「本気で怒ろうと思ってたけど、もう無理だわ」


「・・・えっと・・・」


「あたしが怒ってる意味を履き違えないで。でも、何を言ったってあなたは、自己完結してしまうのよね。正直、腹が立つわ」


「・・・ええっと・・・」


「他人(ひと)の事には敏感で、自分には無頓着。危機感という概念は皆無ね。なんでかしら?」


早坂さんがシートから身体を起こし、わたしを向く。「あなたに言いたい事は山ほどあるけど、朝になりそうだからやめとくわ」


そんなにあるのか。


「1つ、お願いがあるんだけど」


「はい」


「仕事が終わった後、歩いて帰るのはやめてくれないかしら」


過保護モード突入。「・・・いや、でも・・・」


「このご時世、変な輩なんて腐るほどいるのよ。さっきの男だって、本当は何を考えていたかわからないでしょ。もっと危ない奴だったら、何処かに連れ込まれて乱暴されてたかもしれないのよ。そもそも、あなたには危機感が無さすぎる。だいたい、この時間に女の子1人で、しかもこんな人通りが少ない場所を、怖いと思わないわけ?それに、あたしが電話してなかったらどうしてたの?警察も呼ばずに、あの男がいなくなるまでずっとあそこで待つつもりだった?」


途中から火がついた早坂さんが一気に捲し立てた。──本当に、朝までかかりそうな勢いだ。ていうか、やめてないじゃん。



「どうしていいか、わからなかったんです。今回は何かされたわけじゃないし、警察呼ぶのも大袈裟かなって・・・」


「今回は?」


間髪入れず、早坂さんが食いついた。この口め、余計な事を。「・・・前に、トイレに連れ込まれそうになったことがあって。相手は酔っ払いでしたけど」


早坂さんの顔が険しくなる。「それで、どうしたの?」


「回し蹴りしました。そしたら向こうがよろついて転んで、その隙に逃げました」


「警察には?」


「言ってないです。関わりたくなかったので」


早坂さんはハンドルの上に突っ伏した。「頭痛くなってきたわ」


「でも、仕事帰りじゃないですよ。飲んでて、終電なくなって歩いて帰った時です」


「そーゆう問題じゃないわよ。益々心配になってきたわ・・・」


「そんな重く考えなくても・・・こうやって何もなかったわけだし」


「だ・か・ら、何かあってからじゃ遅いのよ。本当、首輪でも付けたいくらいだわ」


わたしは犬か。「早坂さんって、過保・・・心配性ですよね」


「・・・そお?初めて言われたわ」


「え、マジですか」意外だ。


「ええ、あたし基本的に人に興味ないもの」


「その割には・・・」


「あなたにはそうなのかもね。初めて会った時から、どうも気になるのよ。目が離せないし、面白いし」


最後のが引っかかったが、それより、── 気になるのほうが、気になるんですけど。まあ、深い意味はないのだろうけど。


「そうですか・・・」


「という事で、約束してくれるかしら?」


どーゆう事で?「心掛けますけど、電車逃した時は、歩いて帰りますよ」


「タクシーがあるじゃない」


「そんな身分ではございません」


「タクシー代あげるわよ」


「結構です」


「じゃあ、あたしが迎えに行くわ」


「・・・え」


「遅くなりそうな時はいつでも連絡して」


「・・・なんで、そこまでしてくれるんですか。会ったばかりなのに・・・」


早坂さんは、わたしに聞かれたことが意外だったようだ。いや、キョトンじゃないって。


「わからないわ」


「えええ・・・」


「ただ、あなたの事を守りたいって、強く思ってしまうのよ。迷惑かしら?」


そんなしょんぼりと言われても──・・・「いいえ」



「ふふ。じゃあこれからも心配し続けるわ」


実際、この笑顔に安心してしまう自分もいるんだよな。「あ、でも、普通の事には心配しないでくださいね」


「例えば?」


「普通の女性が普通にしてる事です」


「例えば?」


「・・・例えば、んー、夜のランニングとか?や、そんな遅くない時間ですよ」


「何時?」


「・・・7〜8時」


「うーん、微妙な時間ね。もっと早く出来ないの?」


「・・・やっぱり、聞かなかった事にしてください」余計な事を言うと、過保護ぶりが悪化しそうだ。


「もうこんな時間ね。帰りましょうか。引き止めてごめんなさいね」


──まだ、大丈夫なのに。「・・・え」


「ん?どうしたの?」


「今わたし、何か言いました?」


「何かって、何が?」


──良かった。無意識に口に出ていたのかと思った。自分の感情に、焦る。


「じゃあ、行きますね」


「部屋まで送って行こうか?」


「10秒で着くので大丈夫です。・・・早坂さんも、気をつけて帰ってください」


ドアノブを引きかけたところで──「雪音ちゃん」


振り向くと、目の前に早坂さんの顔があった。

驚くより先に固まる。

早坂さんはわたしの顎に触れ、上を向かせた。しっかりと目が見えるように。


「何かあった時は、あたしの事を思い出しなさい。あなたを迷惑だなんて、絶対に思わないから。いい?」



"その人の事、好きなのかなーって"


不意に思い出す、春香の言葉。心臓が音を立てて鳴り出した。

触れられた顎が、異様に熱い。


「あ・・・あんなとこに猿が!」


「えっ、猿!?どこ!?」


早坂さんが運転席の窓を向くのを見計らって、ドアを開けた。


「トイレ我慢してたので行きますね!ありがとうございました!お休みなさい!」早口で捲し立て、勢い良くドアを閉める。そのまま走って部屋へ向かった。


靴を脱ぎ捨て、洗面所に直行して火照った顔を水で冷ます。鏡に映る自分の顔が、こんなに情けないと思ったことはない。

今になって、頭痛がぶり返してきた。そのままベッドに向かい、ダイブする。


──春香め、余計な事を言いやがって。変に意識してしまったじゃないか。


"何かあった時は、あたしの事を思い出しなさい"


早坂さんの匂いがわかるほど、近かった。あの香りは柔軟剤だろうか。自分で洗濯してるのかな。──・・・彼女とか?そういえば、彼女がいるか聞けって、春香に言われてたっけ。


自然に溜め息が出た。早坂さん、何かなくても、あなたの事を思い出しそうです。

さっそく、ドアを閉める間際の早坂さんのポカーンとした顔を思い出し、そのまま意識が遠のいていった。

















































































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