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第19話 覚悟の家出

 気付けば、朝だった。

 ゆきちゃんと二人並んで熟睡しているところを、よりによって雨京さんから起こされた。


「朝餉ができたぞ」


 寝ぼけまなこをこすりながら布団から体を起こすと、部屋の中央には三人分の食事が用意されている。


「あれ……? みっつ?」


「今朝は私も同席する、早く布団をたたみなさい」


 色とりどりに盛られた豪華なお膳の前で、ぴしりと背筋をのばして正座する雨京さん。


 向かいには、私とゆきちゃんのぶんのお膳が並べてある。



「あさげやー!! めっちゃ豪勢やー!! 昨日のよりスゴいな!! 日々進化しよる、ここのご飯!!」


「今朝は私が作った」


 大はしゃぎするゆきちゃんに早く座れと目線で促しながら、雨京さんはこほんと咳払いをした。


 私はあわてて布団をたたみ、お膳の前にすべりこむように正座する。

 となりにゆきちゃんも座り、準備ができましたと目の前に座る雨京さんのほうへ顔を向けた。




「では、いただこう」


 雨京さんがそう言って箸をとったのを合図に、私とゆきちゃんもおいしそうな朝餉に箸をのばす。


 ごはんと焼き魚、お吸い物、そして見たこともない凝った料理の小鉢が四つ。

 煮物に和え物にお漬物、よりどりみどりだ。


 添え物の野菜ひとつをとっても色合いが綺麗で、なにやらこまやかな細工がほどこしてあったりと、食べてしまうのがもったいないほどに整った料理がずらり。


 なにより衝撃的なのはやっぱり味だ! おいしすぎる!

 一口食べるごとに感嘆の声をあげてしまう。

 ゆきちゃんなんか、さっきから「うまっ!」しか言ってない。


 とにかく、箸が止まらない。

 こんなにすごい料理なら、高いお金を払っても食べたいと思う人がいて当然だと納得させられるような味だ。



「殿って、みこちんのことめっちゃ可愛がってはりますよねぇ」


「なぜ料理を見てそんな言葉が出るのだ」


 忙しく箸を動かしながら、ゆきちゃんはにやにやと笑って雨京さんを見る。


「だってほら、このかまぼこ、ねこちゃんの形に切ってあるし。こっちのにんじんは、うさぎちゃん。完全におなごウケを意識してはる! いや、みこちんウケやね、この場合」


「わ、ほんとだー! うさぎちゃん、かわいい!」


 小鉢の中でちょこんと顔をだす可愛らしい形のにんじんを箸でつまみ上げて、ゆきちゃんと笑いあう。


 すごいなぁ雨京さん。

 こんなふうに、人それぞれに合った料理をいつも考えて出してるんだ。



「静かに食べなさい」


 きゃっきゃとはしゃぎながら小鉢をつつく私たちを一瞥して、雨京さんは顔色ひとつ変えずにもくもくと箸を動かす。


「おいしいです、雨京さん! 忙しいはずなのに、こんなに豪勢な朝餉を作ってくださって、ありがとうございますっ」


「話しておかねばならない事があるのでな、この後少し時間をもらおう」


「あ、はいっ! わかりました……」


 な、なんのことだろう。

 まさか、昨夜のことがバレた……!?


 涼しい顔で食事を続ける雨京さんの正面で、私とゆきちゃんは冷や汗をたらしながら顔を見合わせた。




「傷の具合はどうだ?」


 朝餉を食べ終えて一息ついた雨京さんが切り出した一言に、私は安堵した。


「もうすっかり元気です! 思ったより深い傷じゃなかったみたいで。ね、ゆきちゃん?」


 本当は傷口がふさがりきるまでもう少し時間がかかるそうだけど、雨京さんの前ではできる限り元気だと主張しておく。


「せやね、そろそろかるーく散歩とかして体動かしてもええんやない?」


 ゆきちゃん、いいこと言ってくれる……!


「そ、そうです雨京さん! あんまり寝てばっかりだと、かえって体が重くなる気がするので、そろそろ外に出てみようかと……」


 傷が順調に治ってきているのは本当だ。

 誰かに会ったり、体を動かしていたりする時には怪我をしていることなんてすっかり忘れてしまうくらいに回復している。



「……そんなことを考えているのではないかと思っていた。言ったはずだ、しばらく外には出さんと」


 雨京さんは、私の言葉に呆れたように目をつむる。


「でも私、心配なことだらけで……! いずみ屋周辺の、同じ組の人たちのことも気になるし!」


「火事に巻き込んだ店舗には頭を下げて再建の費用を出した。お前のことを刺した女はあれから行方不明だそうだが、夫の方は残って店を建て直すそうだ」


「え!? 行方知れず……!?」


 谷口屋のおかみさん、そんなことになっていたなんて。


「軽症で済んだとはいえ、人を刺したのだ。捕まれば何かしらの裁きを受けることになるだろう。おそらく咄嗟に逃げ出して戻るに戻れないのではないか?」


「でも、谷口屋さんは悪くないんです。もとはといえばこちらが原因を作ったことですし……」


「そうだな、そもそもかすみがしっかりしていれば防ぐことができた事態だ。だからこそ周囲に最低限の償いはする。だが、誠意を見せたあとは過剰に引きずる必要はない」


 強い口調で、雨京さんは断言する。


 それでもまだ、私は組の人たちにろくに謝ってもいないんだ。



「一度私も、頭を下げに行きたいです……」


「いずみ屋周辺の店舗は、あの事件の痕跡をぬぐいさろうと日々必死に生活をたてなおしている。そんな中お前が出て行っても、不快な思いをさせるだけだ。しばらくは近づくな、そっとしておいてやれ」


「……はい」


 炎上するいずみ屋を囲んでいた人々の、冷たく突き刺すような非難のまなざしを、ふと思い出した。


 私は隣人から刺されてしまうほど、強く憎まれている。


 雨京さんのいう通り、今のこのこ出て行ってもかえって場の空気を悪くするだけかもしれない。



「どうしてもというのであれば、かすみが帰ってからにしなさい」


 うなだれていた私は、その一言にはっとして顔を上げる。


「かすみさんと一緒に……ですか!?」


「そうだ。いずみ屋の店主として、かすみには責任がある。この騒動に決着を付けることができる人間は、かすみしかいないのだ」


「そうですね、だったら一日も早くかすみさんを探し出さなきゃいけませんね……!」


 雨京さんは私なんかよりずっと、いずみ屋のことを考えてくれていたんだな。

 かすみさんのことも、信じてくれている。必ずどこかで生きていると。


「そうだな。かすみの事に関しては人を雇って調べさせているから、心配する必要はない。お前はここで大人しく療養するのだ」


「はい……でもあの、もう少し元気になったら、かぐら屋のまわりを散歩してみてもいいですか……?」


 おうかがいをたてるように上目遣いで雨京さんを見ると、真一文字にむすんだ口の端がぴくりと動いた。


「許可できんな。最近は、かぐら屋周辺にも浪士がうろつきはじめて危険だ。昨日は屋敷にまで訪ねて来たそうじゃないか」


「それはその……悪い人じゃなくてですね、私の釣り仲間で……」


 うそだけど、半分は本当だ。


「妙な仲間を作るのはやめなさい。ためにならない人間との付き合いは、私の判断で絶たせてもらう」


「そんな……! 私が誰と付き合うかは、私が決めます!!」


 大人しく、できるだけ雨京さんの言葉には逆らわないようにしたいとは思っているけれど、これだけは譲れない。


「いくら言っても聞かないのだな、お前は。一言釘をさしておくつもりで来たが、それでも足りないか」


「雨京さんにはすごく感謝しています、でも……」


 あまりにも、がんじがらめにされすぎて窮屈だ。

 こんなによくしてもらっておいて、そんなことを言える立場じゃないのは分かっているけれど。



「お前も年頃の娘だ、不逞の輩と遊んでいる場合ではないだろう。ほとぼりがさめ次第、お前に合った良い縁談を探してくる。それまで大人しくしていなさい」


「ええっ……!?」


「縁談!!?」


 私が絶句すると、今まで隣で黙ってお茶をすすっていたゆきちゃんが、盛大に噴き出した。


「縁談なんて今は考えられません! 私はまだまだ、かすみさんと一緒にお店をやりたいんです……!」


 しばらくはかぐら屋を手伝いながら雨京さんの手腕を学んで。

 そのあとは一からでもいいから、晴之助さんから受け継いだいずみ屋を再開する――。

 あの事件が起こるまで、私たちはそうするつもりだった。


 もちろん今のかすみさんの気持ちは分からない。

 店をもつなんて、もうこりごりだって思っているかもしれない。


 でもそれは、会って気持ちを確かめなきゃ分からないことだ。

 今後のことは、かすみさんと話し合って二人で決めたい。



「笑わせるな。お前たちに再び店を任せることなど、できるわけがないだろう。今後は商売から完全に手を引かせる。かすみへの縁談は今でも数多くあるからな、美湖より先に嫁ぎ先は決まるだろう」


「かすみさんの意見は聞かないつもりですか!? そんなに、なんでもかんでも雨京さんが決めてしまって、いいわけないです!!」


 身を乗り出して声を荒げる私をにらみ付けて黙らせると、雨京さんは立ち上がって口を開いた。



「かすみへの縁談は一昨年から先延ばしにしていたのだ、こんな事になってしまった以上、もう待ってやるつもりはない」


「そんな……」


 知らなかった。

 かすみさん、何も話してくれないから。



「……そろそろ行かねば。話の続きはまたの機会にしよう。やえの言うことを聞いて、大人しくしているようにな」


「……」


 こちらを振り返ることもせずに障子を開けて出ていく雨京さんの背を、私は黙って見送った。


 雨京さんの言っていることは正しい。

 いつだって正論だ。

 だから、口ごたえする方がわがままなんだって分かってる。

 でも私はせめて、かすみさんの口から、これからの話を聞きたい。

 かすみさんがどう思っているのか、ちゃんと聞いて話し合いたいよ。



「膳をお下げします」


 雨京さんと入れ代わりに、頭を下げてやえさんが部屋へと入ってきた。

 そして釈然としない表情で顔を見合わせる私とゆきちゃんの横を通りぬけ、三人ぶんの朝餉の膳を抱えて、そのまま風のようにその場を去って行った。



「殿はみこちんやかすみさんのこと大事に思っとるからこそ、こないに束縛するんやろねぇ」


 膝をかかえて顔を伏せ、へそをまげる私の肩を優しく叩いて、ゆきちゃんがなぐさめの言葉をくれる。


「分かってるよ。でもね、かすみさん、いずみ屋のこと何より大切に思ってて……きっと、今すごく後悔してるよ。お店を守れなかったことや、たくさんの人に迷惑をかけたこと。私だってそうだもん。だから、無事で戻ってきたとして、そのまま何事もなかったみたいに、全部忘れるために、どこかに嫁いでいくなんてきっと嫌だと思う。もう一度、自分の力で何か始めたいって思うんじゃないかなって……」


 半分は、私の望みでもある。

 もしいずみ屋の再建が叶わなくても、これからのことはかすみさん自身に決めてほしいんだ。

 そして私の身の振り方も、私自身が考えて自分で決める。

 それが一番いいに決まってるんだ。


「せやねぇ……けど、殿の言うてることも分からんでもないからなぁ。かすみさんが戻ってこんと、うちらにはどうにもできんね。兄妹で腹割って話すことや」


「うん……そうだね」


 どちらにしろ、こんなところで、うだうだと悩んでいても何一つ解決しないことだ。


「みこちん! 元気だそやぁ!! うち、今日も診療所に顔出しに行かなあかんから、帰りに何かおいしいもんでも買うてきたるわ」


 沈んだ顔でため息をつく私の頬をぺちぺちと叩いて、ゆきちゃんが明るい声で元気づけてくれる。


「あ、うん。ごめんね、わざわざここから通わせちゃって……」


 診療所はむた兄と二人でやってるそうだから、きっと忙しいんだろうな。

 それなのに朝夕と私のそばについていてくれて、ゆきちゃんには本当に感謝してもし足りない。


「ええって! みこちん大変な時やし、心配やからそばにおるよ。うちら一番の友達やんか!」


「ゆきちゃん……ありがとう」


「うん! さ、出かける前に傷口消毒しよか」


 ゆきちゃんは慣れた手つきで、てきぱきと傷の手当てを始める。

 血が固まって、かさぶたにおおわれた傷痕はもう消毒をされてもほとんど痛まない。


「ほい、終わり! 順調に治ってるで。傷口、痒うなる時があるかもしれへんけど、あんましガリガリ掻いたらアカンよ! 血ィ、ドッバーいくことあるからな!」


「うん、気をつけるね。ありがとう」


 ゆきちゃんに笑顔を向け、私は脱いだ着物を羽織る。


 傷口はさらしで何重にも巻かれているから、万が一掻いてしまっても、かさぶたを破るようなことにはならないと思うけど。



「みこちん、最近よう難しい顔してるで! あんまし考えすぎんようにね」


 薬箱の中を整理して立ち上がると、ゆきちゃんは心配そうに眉を寄せて、私の額を指でつついた。


「平気平気! ごめんね、心配かけて。それじゃ、ゆきちゃん! 気をつけて行ってらっしゃい」


「行ってきます! せや、暇ならそこの御伽の本読んでみ。『馬鹿力くそ太郎』めっちゃおもろかったで~」


 ゆきちゃんはそう言って明るく笑って、こちらに手を振りながら屋敷へとのびる廊下を小走りで渡っていく。



 自由に屋敷を出入りできるのは、正直うらやましいな。

 もともと私はじっとしているのが苦手だ。

 釣竿を持って外を走り回っているのが性に合ってる。



(外に出たいなぁ……)


 ここに来てからずっと思っていたことだ。

 私には大店のお嬢さんのような、しとやかな生活は務まらない。


 さっきの縁談の話も、自分にはまだ早い気がしてまるで実感がわかないし……。

 雨京さんが期待するような女の子には、どう猫をかぶってもなれそうにない。


 こんな私が、このまま神楽木家のお世話になっていてもいいのかな。

 ……どうして雨京さんは、私なんかのことをこんなに気にかけてくれるんだろう。




 ふうと一息ついて、文机の上に並べられた絵草紙に手をのばす。

 色とりどりの、目を引く表紙絵たち。

 その中に見覚えのあるものを見つけ、私は中を開いてぱらぱらと流し読みする。


 間違いない、お父さんの挿し絵だ!

 何という本なのか気になって、あらためて表紙を確認すると――


『ばかぢからくそたろう』


 さっきゆきちゃんが言ってたやつだ……!

 思わず噴き出しそうになる。


 表紙に描かれているのは、背を向けて立つふんどし一丁の男が、ちらりとこちらを振り返りながら力こぶをつくる姿だ。

 子供向けの絵草紙に合わせた、さらりと親しみやすい筆づかいで描かれている。


 父らしい表情ゆたかな楽しい絵だ。

 挿し絵を目当てに、内容は飛ばし飛ばしで項をめくる。

 いずみ屋にのこしてあった肉筆画のほとんどが燃えてしまった今、こうして刷られた作品もとても貴重なものに思える。



(そういえば、持ってきた荷物の中に何枚か絵を入れてたっけ)


 ふと思い出して絵草紙をわきにはさみ、部屋のすみに置いてあるふろしきに手をのばしたその時……




 ――カッ


 外塀に面した縁側のほうで、何かを突き刺すような乾いた音が響いた。


(何だろう?)


 私は障子を開けて、外を見渡す。


 縁側の正面にはよく整えられた庭木の茂みがあり、その奥には塀が立つのみだ。

 昨夜降った雨のためか、草木には水滴が光っている。


 音の原因は何だろうとあたりを見回すと、縁柱に何かが突き刺さっていた。

 引き抜いてよく調べてみる。


 よく研がれた両刃の短刀のようなものだ。

 刃の下の持ち手の部分に、何やら文のようなものが結びつけてある。

 すぐさまそれをほどいて中身を確認すると、そこには三行ほどの文と、やけに精巧な地図が書いてあった。

 文章の部分は難しい字が多くてよく分からないけれど……はっきりと読み取れる部分がある。


『かすみ』


 前後の漢字は読めない。

 だけど、確かにかすみさんの名が記してある。


 かすみさんの名があって、地図が添えられていて――これってまさか。



(かすみさんの居場所!?)



 鼓動がはねあがり、額に汗が浮かぶ。

 一体誰がこんな文を……!?



 縁側から飛び降りて、庭木の茂みをかき分けながら人の気配を探す。


 小さな水溜まりを踏んで、ぱしゃりと泥水が跳ねた。

 塀の上を見上げても、何もない。

 変わったところは見つけられない。

 止んで間もない雨の雫ですべりやすくなった高塀を登るのは、至難のわざだろう。


 だけど、誰かがこれを届けにきたのは確かなんだ。

 一体誰が……。


 昨日の今日で、田中さんたちだということは考えにくい。

 だとすると、もしかして水瀬たち――?



 分からないことだらけだ。

 だけどこれが本当にかすみさんの居場所だとしたら、助けに行かなきゃ!


 まず、誰かにこの文をちゃんと読んでもらおう。

 何が書いてあるのかしっかりと解読して、それから対策を練るんだ。


 人に見せるなら、まず……


 ふっと雨京さんの顔がよぎる。

 けれど、だめだ。


 昨夜田中さんが言っていた。

 水瀬たちはオレたちの手で捕まえるんだって。

 何かあったら真っ先に知らせると、約束もした。

 この文にはかすみさんのことはもちろん、水瀬たちを見つける手がかりも書かれている気がする。



「――よし……!」


 田中さんたちに知らせに行こう。

 私は文を懐に押し込んで部屋に戻ると、ふろしきをひっくり返して荷造りをはじめた。



 ――これから、雨京さんの言いつけをやぶってここを出ていく。

 そこまでするからには、かすみさんを連れ帰るまで戻るわけにはいかない。


 どのくらいの時間がかかるか分からない。

 無事で戻れるかも分からない。

 だからまた、荷造りをしなきゃ。

 持っていくものは最小限。

 今度は、一人で出発するんだ――。



 着替えと短刀と、父の形見の絵と筆。

 あとは、これも。

 わきに挟んでいた絵草紙も一緒にふろしきにつつむ。

 雨京さんが買ってくれたものだ。大切にしなきゃ。


 ふろしきを背負い、文机の上の硯で墨を磨る。

 そして一筆、つたない字で書き残した。


『かすみさんをさがしにいってきます

 おせわになりました

 あさげ おいしかったです

 みこ』



 急いで磨ったから、墨がうすい。



 ――ごめんなさい、雨京さん。

 わがままばかり言って。

 言うことを聞かなくて。


 だけど、感謝しています。

 きっとかすみさんを連れて戻りますから、待っていてください――!




 そっと部屋から飛び出して縁側で草履をはき、庭木の茂みに身を隠しながら蔵を目指す。


 誰にも知られずに屋敷を出るには、昨夜田中さんと陸奥さんが使った足場を利用して塀を越えるしかない。


 現場に到着し、積み上げた木箱によじのぼって高塀の屋根に手をかけると、足がすくんで冷や汗が浮かんできた。

 思っていたよりも、ずっと高い。


 どうしようかと躊躇していると、離れのほうから悲鳴に近い叫び声が聞こえてきた。



「美湖様!! どこへ行かれたのですか!!」


 やえさんだ。

 一瞬で肝が縮み上がり、動転した私は、転がり落ちるように塀から飛び降りた。




 ――ドンッ!


 思いきり尻餅をつく。


「いったぁ……」


 お尻も痛いけど、脇腹の傷に思い切り響いた。


 けれど、じっと立ち止まっている場合じゃない。

 急いで立ち上がって私は走り出す。



 目指すは、酢屋。

 他に行くあてはない。

 まずは坂本さんたちに話を聞いてもらおう――!


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