私は鏡の前でくるっと一回り回転してみた。うん、どこもおかしくない。お気に入りの白いワンピースに身を包み、最後に髪の毛を後ろで一括りにする。そのままだと仕事中に邪魔になるのでポニーテールにしているのだ。根元の少し大きめのリボンがアクセント。
うん、完璧。鏡の前でもう一度くるりと回る。大丈夫だ。
身だしなみの確認をしていると部屋の扉を誰かがノックする音が聞こえた。
「はい? どなたですか?」
「私だ。サクライナ」
サクリオンお兄様だ。私はそっと部屋の扉を開けお兄様を迎え入れた。
「おお、サクライナ。今日も一段と可愛らしいな、我が妹よ!」
「ふふ、ありがとうございます。お兄様も素敵ですよ。何か御用ですか?」
お兄様が私の部屋に来るなんて珍しい。何かあったのだろうか。
「サクライナよ。お前はまだ酒場なんぞで給仕の真似事をしているのか?」
ああ、またその話か。お兄様は私が『
「酒場ではありません。バーです。それに給仕ではなくバーテンダーです。……まだ見習いですけど」
お兄様は私の言ったことに不快な顔を隠そうともしなかった。
「どちらでもよい! 貴族の娘がすることではない! いい加減に目を覚ますのだ。婚約が嫌だったのはしかたがない。私も父上もお前の気持ちを考えなかったことは反省している。しかし、わざわざ当てつけのように平民のやるような仕事をお前がしなくてもいいだろう!」
お兄様は何もわかっていない。婚約の事は確かに悲しかったけれども、もうそんなことはどうでもいいのだ。私はただ、バーテンダーという仕事の尊さに惹かれたのだ。
「……お兄様には何を言ってもご理解頂けないでしょう。そろそろ仕事の時間ですのでこれにて失礼します」
「待て! 話はまだ終わってない!」
お兄様の横をすり抜けて私は職場であるバー『
◇
「それで、ついてきてしまったというわけですか?」
バーテンダーの前には一人の貴族の青年がむっとした顔で座っていた。彼の名はサクリオン・ドーバー。ドーバー伯爵家の長兄であり、サクラ……サクライナの実兄でもあった。
「はい……。すいませんマスター……」
隣でサクラが申し訳なさそうな顔をして小さくなっていた。
「サクライナが謝る必要などないぞ! そもそも平民の店で働くなどが間違いなのだ! お前は一体何様のつもりだ! こんな酔っ払い共が集まる酒場などに我が可愛い妹を置いておけるものか!」
サクリオンは店主であるバーテンダーにあわや飛びかかるかの勢いで捲し立てた。それを聞いてさらにサクラは小さく縮こまっていた。
「ですが、お兄さん……」
「兄だと! 貴様に兄と言われる筋合いはない!」
盛大な誤解を招きながら取り付く島もないサクリオンに、バーテンダーはほとほと困っていた。
「ですからお兄様! ここはそんなお店ではありません! どうしてわかってくれないんですか!」
ついに堪えきれなくなったのかサクラが爆発した。
「しかし、このような低俗な店……」
「あーもう! 言葉で言うより形で見せた方が早いです! マスター! お兄様が納得するような、お兄様に合うカクテルを作ってください!」
いきなりの無茶振りである。さすがのバーテンダーもこれには困り顔をするしかなかった。
「そう言われましても……。おにい……サクリオンさんは普段どのようなお酒をお飲みなのですか?」
「私か? 私は普段ワインしか飲まん!」
何を偉そうに言っているのだろうかとサクラは心の中で思いながらも、バーテンダーの方を見つめ、兄をへこませてくれるような一杯を今か今かと待ちわびていた。
「でしたら……シャンパンなどいかがでしょうか? ワインは飲みなれていらっしゃるようなので、爽やかでフルーティーな香りも楽しめますし、繊細な泡立ちも見た目にも美しいですよ」
そう言うとバーテンダーは、
「どうぞ、『シャンパン』でございます」
サクリオンの前にグラスが置かれるや否や、サクリオンはそのグラスを奪い取るかのように手に取り怪しいものでも見るかのように凝視した後、少しずつ口をつけた。
「ほう……。これはうまい酒だな! 微細な泡が舌の上で軽やかに踊り、果実の風味が広がって微かに酸味も感じられる」
飲んだ後に褒め称えたことに気付いたのか、サクリオンはごほんとひとつ咳ばらいをした。
「だが、これはこの酒がうまいだけだ。ただ酒を注いだだけでお前の腕がいいわけでも、この店がいい店なわけでもない!」
なんとも強情な、とサクラはほとほと呆れていたが、バーテンダーはにこりと笑い返していた。
「シャンパンを開けましたので、折角ですからカクテルのほうもお作り致しましょう」
そう言うとバーテンダーはまた
「こちらはクレーム・ド・カシス。
グラスの中にクレーム・ド・カシスが注がれる。重みのある深紫色の液体がグラスの内側を染め上げる。そこに、先程使用したシャンパンが上から注がれた。泡立つシャンパンは、クレーム・ド・カシスと優雅に混ざり合い、グラスの中で美しいグラデーションを作り出す。
「お待たせ致しました。『キール・ロワイヤル』でございます」
差し出されたグラスは先程のシャンパンにも負けない美しさを誇っていた。宝石のような赤さに、底から絶え間なく沸き立つ泡がまるで星のように輝いていた。
サクリオンがグラスに口をつける。
まず感じたのはカシスの甘味だ。シャンパンだけでも十分にフルーティーだったが、そこにカシスが加わることでその甘味と果実味が芳醇なフルーティーさをかもし出していた。微細な泡が爽快感を奏で清々しさも感じられ、非常に飲みやすく味わい深い一杯となっていた。
「これは……美味しいな。しかも、とてもよく冷えている。氷を使っていないのに……」
「はい、『キール・ロワイヤル』は基本的に氷で冷やすことは致しません。シャンパンやクレーム・ド・カシスをよく冷やしておくことで冷たさを演出致します。水っぽくなってしまうのでグラスにも氷は入れません。特にそちらのグラスには底面に意図的に『傷』がつけられており、いつまでもシャンパンの泡が絶え間なく出続けるようになっております。そこに氷が入っては折角の泡の意匠を台無しにしてしまいますからね」
言われてからサクリオンはグラスを注視して見た。底から一本の線のように泡が立ち上って何とも不思議な光景だった。
「ほう……よい、工夫だな。美しくも楽しくもある。しかし、これはグラス職人の技術と叡智の詰まった匠の技だ。お前の功績ではない! 第一さっきの酒もただ混ぜただけではないか!」
まだ強情を張るか。いよいよサクラも兄を引っ叩いてやろうかと思案していると、バーテンダーはひとつの提案をしてきた。
「では、今度はサクリオンさんが『キール・ロワイヤル』をお作りして見ますか? 本来バーではお客様に手酌をさせることはありませんが今回は特別に」
バーテンダーはサクリオンの前に、
ふん、と鼻を鳴らしながらサクリオンはそれを手に取り、先程バーテンダーが作っていたのと同じようにカクテルを作り始める。こんなものは誰が作っても一緒だと言わんばかりに。クレーム・ド・カシスとシャンパンを入れた後軽く混ぜる。これだけだ。
出来上がったものは見た目にはバーテンダーが作ったものと差はないように見えた。
「どうだ! こんな簡単なもの赤子にもできるわ!」
「では、どうぞ。お試しになってください」
サクリオンが自分で作った『キール・ロワイヤル』をひと口飲む。
口をつけてその違いにサクリオンは目を見開いた。クレーム・ド・カシスの分量の違いのせいか果実的な味わいの濃さは違えど、それ以前に爽快感がまったくないのだ。シャンパンの持ち味であったあの繊細な泡の爽快感が皆無なのだ。
「これは……どういうことだ?」
「
サクリオンは自分の作ったものとバーテンダーの作ったものを何度も飲み比べていた。確かに味が違う。ありありと技量の差が出ているのだ。
「……確かに技術はあるようだな。ここまでになるのにどのくらい訓練したのだ?」
「そうですね……八年ぐらい……でしょうか」
八年! たかだか酒を作ることに八年の月日を費やしたのだ。その努力は紛れもなく本物なのではないだろうか。サクリオンは自分の考えを改めざるを得なかった。
「わかった。お前の腕とこの店がいい店であることは認めよう。だが、サクライナをお前にやる事は認めていないからな!」
「お兄様? って、お兄様!」
何か途中からまた盛大な勘違いはじまったような気がする兄妹を横目に、バーテンダーは残ったシャンパンをどうしようかと思案しているのであった。
たかが混ぜただけの酒。色付きの酒。ですが、その一杯にかける情熱と弛まない努力の結晶が目の前に置かれたカクテルなのです。
ここは異世界のバー『
◇
『キール・ロワイヤル』
シャンパン 120ml
クレーム・ド・カシス 10ml
グラスに冷やしたクレーム・ド・カシスとシャンパンを入れ、
軽くステアする
ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋