サクラが本格的にバー『
さすがに、新人がいきなりカウンターで酒を提供するわけにはいかない。最初は勿論掃除。グラスや必要な器具を磨くこと。そうやって形状や使い方、手入れの仕方、場所など順々に覚えていくものだ。無論。
その日も、サクラは開店前の準備として床をモップ掛けしていた。その時にちょうど重厚なバーの扉が開いた。
そこには一人の女性が立っていた。黒く腰まで届く長い髪。喪服のような黒いドレス。そして、あまりにも特徴的な大きな胸。
その女にバーテンダーは見覚えがあった。そう、この異世界へと迷い込むことになった元凶であろうあの客だ。
「いらっしゃいませ!」
元気よくサクラが女を迎え入れる。バーテンダーは一瞬逡巡してしまい、挨拶が少し出遅れた。
「……いらっしゃいませ。まだ開店前ですがこちらのお席へどうぞ」
バーテンダーに案内され女が席へと座る。その座り方は妙に色気があった。
サクラが慌ててモップを片付け、
「どうぞ、おしぼりです!」
「あら、ありがとう」
女は
「お久しぶりですわね。わたくしの事覚えているかしら?」
その目は吸い込まれそうな妖艶な目をしていた。
「ええ……覚えています。私を
非難するような視線でバーテンダーが女を睨むが、女はまったく気にも留めていない様子であった。
「あら、言わなかったかしら。あなたのお酒がとても美味しくて、もう一度飲みたいから連れてきたのですわ。それ以外に理由がありまして?」
悪びれもせず、あっけらかんと女は言い放った。
「こちらの事情はお構いなしですか? いい迷惑です」
「わたくしのやる事にあなたの同意が必要なのかしら? それとも、女のする事に一々口出して支配したい性格なのかしら?」
険悪な空気が辺りを漂う。話の内容も事情もわからないサクラはオロオロ二人の顔を交互に見るばかりであったが、妙案を思い付いたかのように口を開いた。
「あ、あの! ご、ご注文はいかがなさいますか!」
興が削がれたのか、女はちらりとサクラの方を見るとにこりと微笑んだ。
「生憎ですけど、わたくしお酒にはあまり詳しくありませんの。おまかせでお願いできるかしら?」
「は、はい! マスターおまかせで一杯ご注文頂きました!」
まだ慣れず緊張気味にサクラが注文を伝えると、深いため息と共にバーテンダーは動き出した。
「……承りました」
「お待たせ致しました。『エル・ディアブロ』でございます」
差し出されたカクテルは綺麗な赤。まるで宝石のような赤。……まるで鮮血のような赤。
「まあ、綺麗。血のようで美しいですわね。まさにわたくしのための一杯というところですわね」
女はひと口飲む。
「あら、意外と軽い。少し酸味がありますが、とってもフルーティーで爽やかですわね。香りも高くて素晴らしいですわ」
「お気に召して頂いたようで幸いです」
バーテンダーが軽く頭を下げる。先程までオロオロしていたサクラもほっと胸をなでおろした。が、女は怪しげな笑みを浮かべバーテンダーを見つめていた。
「それで、このお酒にあなたはどんな『意味』を込めたのかしら?」
「……このカクテルの名前は『エル・ディアブロ』。スペイン語で『悪魔』という意味です」
その言葉を聞いて女は何が可笑しいのか声を上げて笑い始めた。突然の事にサクラなんかは目が点になっていた。
「……なるほど。あなたにはわたくしがまるで悪魔のように見えたということですわね。神に仕えるわたくしをまさか悪魔扱いするとは。可笑しいったらありはしませんわね」
女は笑っていた。笑ってはいた。が、その目は笑ってはいなかった。しかし、バーテンダーは怯みもせず口を開き始めた。
「お客様。勘違いをなさらないでください。確かに『エル・ディアブロ』は直訳すれば『悪魔』ですが、そのカクテル言葉は『気を付けて』。新たな門出に挑まれる方を送り出す励ましのカクテルでございます。先日、お客様は一仕事終え、新たな門出に旅立たれる旨のお話をされていました。これはささやかながら私からの祝いのカクテルでございます」
今度は女が目を点にする番であった。そして、『悪魔』と形容されたカクテルにそのような意味があった事にいたく感銘を受けた。
「そう……ありがとうございますわ。早とちりをしてしまったようですわね」
「確かにお客様は私をこのような事態に引きずり込んだ元凶ではあります。しかしながら、ここはバーであり私はバーテンダーです。バーには嫌なお客というのは存在しません。どんなお客様にも心の中に思う所があり、その問題と静かに向き合うためにバーにお越しになられるのです。私共はただそのお手伝いをするだけにございます」
静かに話を聞きグラスを傾ける女はとても美しく、そして妖艶だった。
「難儀なお仕事……ですわね。お礼……と、言うわけではないのですけれども、もしあなたが希望するなら元の
「えっ! マスター
それまで大人しくしていたサクラもこれには口を出さずにいられなかった。折角、弟子入りしたのに師匠がいなくなるのは困る。
「すぐに決めなくても結構ですわ。あなたが帰りたくなった時におっしゃって頂ければ対応致しますわ。とは言え、残念ですがわたくしがここに来るのは今回で最後ですが」
少し悲しそうな目をして女はグラスを傾けた。物憂げな顔もまた美しい。
「今回の事で少し主様に叱られてしまいましたの。罰として酷く退屈なお役目に就かなくてはいけなくなりましたわ。まあ、自分のした事に責任は持つべきですし仕方のないことですわね。ああ、ご安心なさい。そのうち代わりのモノがやってきますわ。もし、帰りたくなったらそのモノに言ってくださいまし」
そう言うと女は席を立った。
「ごちそうさま。美味しかったですわ。最後にひとつだけ聞いてもよろしいかしら?」
扉へと向かう振り向きざまにバーテンダーへと女は顔を向けた。
「
女の問いかけにバーテンダーは静かに答えた。
「いいえ。おかげさまでとても楽しい日々を過ごさせて頂いております。ありがとうございました、行ってらっしゃいませ」
微笑み頭を下げるバーテンダーの姿を見ると、女は静かに扉を開け立ち去った。
ふと、サクラは驚いたように声を上げた。
「あ。マスター! お勘定頂いてません!」
どのようなお客様でもバーの重い扉をくぐればそれは大切なお客様。つらい時や悲しい時にバーを、バーテンダーを頼って頂けたお客様に嫌なお客様などは存在致しません。
ここは異世界のバー『
◇
『エル・ディアブロ』
テキーラ 30ml
クレーム・ド・カシス 15ml
ライムジュース 15ml
ジンジャー・エール 適量
カット・ライム 1個
氷を入れたタンブラーにテキーラ、
クレーム・ド・カシス、ライムジュースを注ぎステア
ジンジャー・エールでフルアップ
エッジにライムを飾る
ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋 一部改変