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9杯目『バーテンダー』

 サクライナの騒動から数日が経った。

 『Etoileエトワール』の開店時間前。サクライナはカウンターに座り、店主であるバーテンダーをまっすぐに見つめていた。


「サクライナさん、本気なのですか? バーテンダーは一時の気の迷いでできるような仕事ではありません。勤務時間は長いですし、夜遅くまで営業します。ずっと立っているので肉体的にもつらいですし、酔い潰れたお客様のお相手もしますから特に女性にはつらい仕事ですよ? それでもバーテンダーを目指したいのですか?」


 バーテンダーはサクライナの瞳をしっかりと見つめて言っていた。生半可な気持ちではできない仕事であること。貴族の道楽では務まらないこと。懇切丁寧に。


「はい。私はマスターさんのお酒カクテルを飲んで感動しました。塞いでいた心にそよ風が吹いたような晴れた気持ちになることができました。たった一杯のお酒カクテルで、こんなにも気持ちが変われたことに私は驚いたんです」


 そう言うとサクライナは身を乗り出し、ずいっと顔を突き出し言った。


「だから、今度は私が塞いだ気持ちの人たちを変えるお手伝いがしたいんです! 失敗もするかもしれませんし、怒られるかもしれません。それでも、私が救われたように誰かを救いたいんです!」


 ……あれは何年前だったであろうか。バーは病院だという人がいた。心の傷付いた人が救いを求める場所。

 酒に溺れるためではない。酒で憂さ晴らしをするためではない。静かに酒を傾け自分と向き合う場所。答えに詰まればバーテンダーに問い掛けてもいい。

 アメリカでは人生の最後に相談をする人が、牧師とバーテンダーであるとも言われている。肉体の救済ではなく、魂を救済する人。

 サクライナはそれを実体験として感じ取ったのであろう。


「……わかりました。そこまで覚悟があるのであればここで働くことを認めましょう。ただし、嫁入り前のお嬢さんを預かることになりますので、ご両親にはきちんと説明をして来てください。特に、あなたは婚約が嫌で逃げだした身です。嫌になれば逃げだすというのが癖になってしまっては今後の人生にも問題を生じます。ちゃんとお父様と話し合い和解をしてきてください。それが条件です」

「はい! きっとお父様もわかってくれると思います!」


 根拠などないが、その真っすぐな穢れのない目にバーテンダーは少しの後ろめたさを感じてはいたが、やがて観念したかのように静かに目を伏せた。


「では、本日はバーテンダーへの第一歩ということで、是非飲んで勉強してもらいたい一杯があります。いいでしょうか?」

「はい、お願いします! 勉強させて頂きます!」


 サクライナが素直に了承したのを見て、バーテンダーは五つの酒を取り出した。


「最初に主材料である三つのお酒を飲んでもらいます。ショット・グラスに少しずつ入れますので酔う心配はありませんよ」


 そう言うとバーテンダーは極々小さいグラスショット・グラスを三つ用意し、酒瓶からひと口程度注いでいった。


「最初のお酒はドライ・シェリーです。簡単に言うと、とある地方で作られる白ワインのことです。どうぞお試しください」


 グラスには琥珀色のお酒が入っていた。サクライナはグラスを持ち上げると一気に口を付けた。


「あ、これちょっと強いですけど、すごい木の実のような風味や香りがしますね。とても美味しいお酒ですね」


 バーテンダーはにこりと微笑むと次のグラスをサクライナへと向けた。


「次は、ドライ・ベルモットです。先程のシェリーと同じように白ワインをベースに、ブランデーや数種類の香草を加えてあるお酒です。フレーバードワインと呼ばれていますね」

「これも美味しいです! なんていうか味にクセがなくて爽やかですね。香りはすごい芳醇で鼻に抜ける感じがとっても気持ちいいですね」


 またもやバーテンダーはにこりと微笑むと最後のグラスをサクライナへと向けた。


「最後は、デュポネです。こちらは赤ワインですが、先程のベルモットと同じようにフレーバードワインで、数種類のスパイスを使用しているのですが、最大の特徴はキナという植物の皮を使用しているところです」


 サクライナは最後のグラスを傾けた。


「美味しい! 甘くてコクがあって、どことなくさっきのベルモットに似た感じがしますね」


 にこりと微笑んだバーテンダーは、大きめなグラスミキシング・グラスを用意し、氷を敷き詰めた。そこに、先程の三本の酒瓶から均等に計量し注ぎ、四本目の酒瓶ドライ・ジンが入れられる。五本目の酒はそのまま使用されず、先が細く下部が丸みをもった大きな底辺の入れ物ビターズ・ボトルから、一振りされたものが入れられた。

 長細いスプーンバー・スプーンが差し込まれ静かにかき混ぜステアが開始される。


シャカシャカシャカシャカ……


「サクライナさん。先程お試しいただいた三本のお酒に共通することは何だかわかりますか?」

「え、さっきのお酒ですか? ……えと、たぶん全部ワインってことでしょうか?」


 そこまで話すと、バーテンダーは先程までにこやかに微笑んでいた笑顔を急にやめた。


「そうです。すべて完成された個々の特徴が味わい深い、調です。そのまま飲んで美味しく楽しめるお酒です。つまり、私は今その完成されたお酒を混ぜています。のです」


 神妙な顔つきでバーテンダーはかき混ぜステアをやめ、逆三角形のグラスカクテル・グラスに中身を注いだ。


「時として、美味しいもの同士を混ぜ合わせると元々の絶妙なバランスが崩れ、味の協調性がバラバラになってしまい美味しくなくなります。このお酒はその余計な作業をバーテンダーに強いるカクテルとなっています。だからこそ、バーテンダーの腕が試される一杯になる」


 サクライナの前に一杯の赤みのかかったグラスが差し出される。


「お待たせ致しました。このカクテルの名前は『バーテンダー』。酒を混ぜるという禁忌を犯しながらもお客様のために最高の一杯をお出しするための教訓。余計な事をしていると。だからこそ、お前は試されている。お客様に気に入ってもらえるカクテルになっているか。基本に忠実な技術を失念していないか。初心を忘れるなという戒め。私はこのカクテルにそんな思いを抱いています。どうぞ、お試しください」


 恐る恐るサクライナはグラスを持ち上げ口をつける。


「!!! 美味しい! 軽やかで香りが高くて、とても上品な味がします。個々の特徴が生きている……これが、これが『バーテンダー』……」


 サクライナが顔を上げてバーテンダーを見ると、先程の真剣な顔はもはやなく、いつもの柔和な笑みがそこにはあった。


「決して忘れないようにしてください。確かに技術も必要ですが、一番はお客様の心に残るための一杯。明日への元気、明日への糧になるような一杯。そんな一杯を生み出すのがバーテンダーの仕事なのです」

「はい、頑張ります!」


 サクライナは手元の赤いグラスを眺めながら心の中で誓うのであった。


「バーテンダーへの道は険しいですよ。しっかりと勉強してくださいね。サクライ……少し呼びづらいですね。これからは、サクラさんとお呼びしましょう。ああ、こちらのほうが私には都合がいいですね」


 サクライナ……もとい、サクラは何故か少し頬が熱くなるのを感じていた。




 バーテンダーとは薬にも毒にもなる酒を提供するもの。だからこそ、お客様を裏切らず最高の一杯を常に追求しているので御座います。


 ここは異世界のバー『Etoileエトワール』。またのご来店をお待ち致しております。



    ◇



『バーテンダー』

ドライ・ジン 15ml

ドライ・シェリー 15ml

ドライ・ベルモット 15ml

デュポネ 15ml

グラン・マルニエ 1dash


ミキシング・グラスにすべての材料と氷を入れ、

バー・スプーンでステアした後に、

ストレーナーをかぶせてカクテル・グラスに注ぎ入れる


ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋 一部改変


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