雨が降っていた。
異世界でも雨が降ると客足が遠のくは当たり前の事。バー『
バーテンダーとトネリーがいつものように他愛のない話で談笑していると、ふいに入り口の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
条件反射のようにバーテンダーが扉の主に声を掛ける。が、そこにいたのは、雨でずぶ濡れになった白いワンピースドレスのようなものを着た、長い金髪の少女だった。
こんな時間に少女が一人歩きしているのは珍しい。見た所冒険者のような出で立ちでもない。
慌ててバーテンダーは奥からタオルを持ち出し、少女へと差し出した。
「どうぞ、こちらお使いください」
「……ありがとう」
少女はタオルを受け取ると髪の雫や服を丁寧に吹き始めた。ある程度拭き終わると周囲を観察するように見回していた。
「……ここは、どんなお店なのですか」
どうやら少女はここが酒場であることを知らないで入ってきた様子だった。
「当店は色々なお酒を提供しております、バー『
バーテンダーは敢えて当店ではと言った。異世界の法律ではもしかしたら未成年者も酒を飲める可能性があったからだ。もし、そうならばそれに合わせて未成年者にも提供してもいいのだろうが、やはりそこはバーテンダーの矜持が許さなかった。
「成人はしていますから大丈夫です」
「大変失礼致しました。よろしければこちらの席へどうぞ」
トネリーの横一つ飛ばした席へと案内をする。その様子を横目で見ていたトネリーがあっ、と何かに気付いた様子だった。
「あんた……ひょっとして、ドーバー伯爵んとこの娘さんじゃないか? たしか名前は……そう、サクライナ嬢」
トネリーの声に驚いたからであろうか。それとも、自分の事を知っている人に出会ったからであろうか、金髪の少女……サクライナは名前を呼ばれた時にぴくんと反応した。
「おっと、こいつは失礼した。ワシはこの辺でシマ張ってる商人のトネリーだ。雨の中こんなとこに一体どうしたんだい? 何かあったのかい?」
サクライナは少し目に涙を溜めながら俯いたままだった。静寂が答えと言わんばかりに何も話そうとはしなかった。
「本来はあまりお客様の事情に深入りすることはマナー違反なのですが、もしよろしければご相談に乗りますよ。バーとは元々ハイド・アウト。隠れ家のようなものです。密談や恋人同士の淡い語らいなどに用いられる場所です。そして、バーテンダーはお客様の情報や事情は決して他へと漏らしません。でないと安心してお酒が飲めませんからね」
その言葉に少し安心したのかもしれない。サクライナは静かにぽつりぽつりと話し始めた。
「実は……逃げてきました」
「逃げる? 一体どこから?」
穏やかな話ではない。びっくりしたかのようにトネリーが聞いてくる。貴族の娘が逃げるというのはかなりの一大事である。
「……家からです。その……婚約をさせられそうになって」
その言葉に察したのかトネリーはバーテンダーの顔を見た。
「意にそぐわない婚約か。いわゆる政略結婚とかだろうな。貴族にはよくある話さね」
そう言うとトネリーはグラスを呷る。氷の音だけがからんと響いた。
「……わかっています。貴族の娘として生まれた以上自由な恋愛などできません。でも、お父様だけはわかって頂けていると……思って……」
言葉にならない感情を吐露したその瞳からは大粒の涙が溢れ出していた。
「こちらお使いください」
バーテンダーはそっと温かいおしぼりを差し出す。サクライナはそれを受け取るとそっと自分の涙を拭った。それを見ていたトネリーだったが、とても複雑な表情をしていた。同情、憐憫、普段商人としては決して見せないようなそんな表情だった。
「しかし、こればかりはマスターにも解決できそうにない相談だな。貴族の縁談ともなればワシらではどうしようもないな」
平民と貴族の間には越えられない溝が存在する。ましてや、一介のバーテンダー如きがどうにかなる事情でもないのは明白だった。
「……すいません、ご面倒をお掛け致しました」
そういうとサクライナは席を立ち、そのまま出ていこうとしていた。
「お待ちくださいお客様。是非、お客様に飲んで頂きたいお酒がございます。サービスとさせて頂きますのでお試しになりませんか?」
バーテンダーがそう呼び止めると、悲しそうな表情をしていたサクライナが振り向き、ぼそっと呟いた。
「一杯……だけなら」
そういうとサクライナは元居た席にすとんと座りなおした。それを見届けると、バーテンダーは
「こちらはウイスキーで御座います。こちらのウイスキーはライ麦から作られたものと、とうもろこしから作られたウイスキーをブレンドしたものになります。そしてこちらは……」
バーテンダーは一本の酒瓶を手に取りその名前を話し始めた。
「こちらは『桜リキュール』。桜というのは薄桃色の華がとても綺麗に咲く素晴らしい植物です。ちょうどお客様のお名前にも使われていますね」
そのラベルには桜の木が描かれ華が舞い散る様が印刷されていた。日本人には見慣れたものかもしれないが、サクライナやトネリーには初めて見る華であった。
「これが……サクラ? 私と同じ名前の華?」
「はい、そうです。とても可憐で儚く美しい華になります」
サクライナは何だか自分の事を言われているようで少し恥ずかしく顔を赤らめた。
シャカシャカシャカシャカ……
冷蔵庫から
「お待たせ致しました。『C.C.さくら』でございます。お客様のお名前とお姿からお作り致しました」
コースターの上に置かれたカクテルは淡い桃色。まるで先程見た桜の花びらのような色合いと美しさだった。
サクライナがグラスを傾け口に含む。一口飲んだだけでサクライナは目を見開いた。
見た事もないはずの桜。もちろんその華の香りなど嗅いだことなどない。だが、その香りが口いっぱいに広がり鼻に抜ける。どこか懐かしいような……。まるで春の日のそよ風が吹き抜ける様な清々しさ。そして、まろやかさとほのかに感じる甘味。それらとトニック・ウォーターが爽やかに交わっていく。今はまだ遠い、春の訪れを感じる様なカクテルだった。
「……美味しい。はじめてお酒で美味しいと思った」
サクライナは酒が好きではなかった。だが、素直にこのカクテルは美味しいと感じることができた。その風味が好みだっただけではない。心の中でモヤモヤとしていた暗雲を吹き飛ばしてくれるようなさわやかさ。何かほっと安心できるような感覚。そういった、安らぎを身体の奥から感じ取っていたのだ。
「お酒ってこんなに美味しいものなのですね」
「いや、それは違うぞ。マスターだからこそだ。他の店じゃこうはいかん。お節介なこのマスターが作るからこれだけ感情豊かな美味い酒になるんだ」
トネリーが大絶賛する傍らでバーテンダーは気恥ずかしそうにグラスを磨いた。
その姿はサクライナの目には何か神々しいものに見えた。一杯の酒で人の感情を揺さぶることのできる人。人の魂を救うことのできる人。憧憬にも似た眼差しを向けるより他ならなかった。
「すごい……。これ! 私にも作れますか?」
「材料があれば比較的簡単に作れるかとは思います。ただ、美味しくとなるとやはり相当な練習が必要にはなります。一朝一夕にはさすがにできないですね」
「あ、あの!」
サクライナは椅子から立ち上がり、バーテンダーの顔を覗き込むように飛び出していた。突然の事でバーテンダーは少しびっくりしていた。
「は、はい。何でしょう?」
「私を……私を弟子にしてください!」
「え? ええぇ……?」
春になれば桜は咲き、舞い誇り、そして散りゆく。この一瞬の刹那に美しさを感じ、またそれを肴にお酒を飲むのも粋なもので御座います。
ここは異世界のバー『
◇
『C.C.さくら』
カナディアン・クラブ(ウイスキー) 30ml
桜リキュール 15ml
トニック・ウォーター 適量
氷を入れたコリンズ・グラスに注ぎ、軽くステアする
カクテルレシピサイト 「カクテルタイプ」より抜粋