ドラマやアニメなどでよくバーテンダーがグラスを拭いている姿を見た事はないだろうか。彼らは暇だから手持無沙汰にならないように掃除をしているわけではない。だが、バーテンダーの仕事の七割は掃除であると言っても過言ではない。
バーテンダーはグラスだけでなく、
『
いつものようにバーテンダーが
(ああ、ここにあったのか……)
懐かしい……と、いう表情とは縁遠い苦虫を潰したような複雑な表情を浮かべ、バーテンダーは思い出す。
思えばこのワインのせいで、こんな異世界へと来てしまったのだな……と。
◇
その日は、冬の真っ只中だというのに雨が降っていた。気温は低いのだが雪にはならず、季節外れの雨といったような天気だった。
当然、こんな日にバーへと足を向ける客は少ない。閑古鳥の鳴く店内でバーテンダーは一人せっせとグラスを拭いていた。
(もうお客さんも来ないだろうし、閉めてしまおうか……)
そんな事を考えていると、入り口の重厚なドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
間髪入れず声を掛ける。やってきたのは二人組の女性だ。
バーテンダーは思わず見とれてしまった。というのも、二人とも外国人のお客様で、とても美しい容姿をしていた。
一人は肩口までの金髪の青い目をされたお客様。フランス系の人種に見える。この真冬に半袖のTシャツとジーパンと物凄くラフで物凄く寒そうな格好をしている。
もう一人のお客様は腰まで届くほどの長い黒髪に、喪服のようなこれまた黒いドレスをお召の妖艶な女性だ。白人のようだが何処の出身の方かまではわからない。そして非常に胸が大きい。
二人とも雨の中、傘も差さずに来たのだろうか服は少し濡れ、髪から雫が滴り落ちていた。
はっ、と。我に返り、バーテンダーは急いでタオルを持ち出した。
「雨の中ご来店ありがとうございます。どうぞこちらをご使用ください」
二人はタオルを受け取ると、水滴を払い案内されるままにカウンターの席へと座った。
「こんなところにこんな場所があったなんて知らなかったよ」
「ええ、わたくしも気付きませんでしたわ。中々に雰囲気のある所ですわね」
「ありがとうございます。日本語がお上手ですね。お仕事か何かで来日されたのですか?」
そうバーテンダーが聞くと、二人は顔を見合わせて少し微笑んだ。
「ああ、そうだな。仕事で少し用事があってな……。それも今日でおしまいだ。ようやく帰路につける」
「そうなのですね。お国はフランスですか? 私も何度かフランスには滞在したことがありまして」
そう、バー『
「ああ、まあそんな感じだな。それよりここは酒を出す店なのだろ?」
「失礼致しました。ご注文はいかが致しましょう」
「申し訳ないのですけれども、わたくし達あまりお酒には詳しくありませんの。何かおすすめありまして?」
「そうですね……でしたらワインなどを使用したカクテルはいかがでしょうか。西欧の方なら飲みなれているもののほうが良いかと」
そう言うとバーテンダーは、
「ワインか……それならこれを使ってくれないか?」
金髪の女性が何処から取り出したのか一本のワインボトルをカウンターへと置いた。
「普段は持ち込みなどはお断りをしているのですが……。本日は特別に。拝見してもよろしいですか?」
金髪の女性が頷くとバーテンダーはボトルを手にした。
極々一般的な750ml入りのサイズ。形状は側面が直線で肩が高い。つまりこれもごく普通なボルドータイプと呼ばれる形状だ。色もごく普通な緑色ボトル。栓は……これも普通なコルク栓。しかし、通常では瓶の口はシールで覆われているがこれにはない。そして最大な特徴はこのラベルだ。……何が書いてあるのか読めない。規則正しく記されているので文字なのだろうが、どこの国の言葉なのかわからない。少なくとも日本語や英語、フランス語辺りではない。
さすがのバーテンダーもこれには困った。どんなワインかわからないとカクテルの材料にするには難しい。
「ラベルが読めないのでどんなワインなのかわかりませんが……こちら封を開けて試してみてもよろしいでしょうか?」
「ああ、構わないよ」
了承を得ると、バーテンダーはコルクスクリューを取り出してコルクを引き抜いた。
ポンっと小気味よい音がし、ワインの香りが漂ってくる。
手の甲にほんの一滴だけ垂らして舐めてみる。酸味と渋味が強く、とてもではないが上品にまとまってるとは言い難い赤ワインであることがわかる。なかなかに主張の強いワインのようだ。
「そんな少し舐めただけで味なんてわかりますの?」
「はい、本当は仕事中なので舐めるのもいけないことなんですけどね。味はわかりましたので、今日の日に合わせたカクテルをお作りしたいと思います」
そう言うとバーテンダーは奥から小鍋を取り出してきた。そしておもむろにワインボトルからワインを鍋へと移した。そこに、蜂蜜、クローブを入れ軽くかき混ぜる。コンロの前へと移動するとその小鍋を火にかけて温め始めた。焦げ付かないようかき混ぜながら、沸騰させないようにじっくり弱火で温める。温まるにつれ、ワインの酸味の感じられるけれども、芳醇でフルーティーな香りが辺りに漂う。火を止め、耐熱用のカップへと移し、そこにシナモンスティックとレモンスライスを浮かべて完成させる。
「お待たせ致しました。『グリューヴァイン』でございます。今日はフランスの方がご来店されましたのでこちらの呼び方を致しましょう。『ヴァン・ショー』と。今日は雨も降っていて寒いですのでホットカクテルをお作り致しました」
それぞれの前にカップが置かれる。仄かに湯気が漂い、ワインの香りだけでなくシナモンの独特な香味も漂い始めた。
二人が揃ってカップを手にひと口。最初に感じるのはやはりワインの味。深い酸味と渋味が下にまとわりつく……かと、思いきや実は微かに酸味と渋味を感じるだけで甘さの方が強く感じられた。そしてシナモン。ワインの香りに負けないシナモンの風味が鼻から抜ける。そこにレモンの柑橘系由来の爽快さ。どろっと感じるワインに清涼剤を落としたようなさっぱりさをかもし出していた。
「美味しいな!」
「ええ、とっても美味ですわね」
どうやら外国の方にも気に入ってもらえたようだ。バーテンダーは内心どきどきしていたが胸をなでおろした。
寒い日に温かい飲み物はそれだけで心が安心するというもの。雨の中やってきた二人には天上の飲み物のように感じられた。
「それにしても惜しいですわね。こんなにも美味しいお酒が飲める場所を見つけたのに」
「そうだな、もっと早くに見つけておきたかったな。まあ、今更思ったところでしかたがないが」
人生とは一期一会。折角気に入りそうなバーができても通えないというのは惜しいものでございます。良いバーとの出会いもまた人生と同じような一期一会なのかもしれn「そうですわ。
……?
「次の
「お前……何を言っている?」
黒髪の女の言っていることが理解できない様子の金髪の女は、不思議そうな顔を浮かべた後に、何かに気付き驚愕の表情を浮かべた。
「おま、待て待て! エリザベート! 貴様まさk」
金髪の女が黒髪の女を止めようと身を乗り出そうとした時、黒髪の女の手から眩いばかりの光が溢れ出したのを見た……ような気がした。バーテンダーの視界は真っ白に覆われ、実際のところ何を見たのかもよくわからなかった。
目が慣れてようやく我に返ると、カウンターに既に女たちの姿はなかった。あるのは空になったカップと残されたワインボトルのみ。
(あ……お代……)
食い逃げならぬ飲み逃げかと慌ててバー唯一の外へとつながる重厚な扉に手を掛ける。
薄暗いバーの重厚な扉を抜けるとそこは異世界であった。
ここは異世界に来てしまったバー『
◇
『ヴァン・ショー』
赤ワイン 120ml
蜂蜜 20ml
レモンスライス 1枚
シナモンスティック 1本
クローブ 適量
鍋にワインを入れて、蜂蜜、クローブを入れて弱火で温める
焦げないようにかき混ぜて、沸騰させずに湯気が出るまで温める
ホットカップに注ぎ、シナモンとレモンスライスを浮かべる
アサヒビール公式サイト 「カクテルガイド」より抜粋