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【7:名前②】

 名前について改めて詳細を。

 冗談でも比喩でもなく、私は人生において初見で正しく名前を読まれた経験は皆無です。

 ただ、「『せいこ』さんか『まさこ』さんか『きよこ』さんか」と訊かれたことは一度だけあります。高校の国語教員でした。

 当人も私と同種の難読名だったので、かなり慎重に生徒全員の名前の読み方を確認していましたね。間違って読まれる、読まれ続ける不快を身に沁みて知っていたからこそでしょう。


 今まで半世紀以上生きてきて、自分で名乗る前に一応でも「きよこ」と読まれたのはそのときだけでした。

 当然のように間違われ続けて、毎回必ず訂正しての繰り返し。

 特に学校です。

 小学校入学から高校卒業まで、「家庭から学校への提出書類はなんのためなんだ?」と疑問でなりませんでした。

 読みはいい加減なのに、漢字にはかなり細かったですけどね。

 卒業証書に関しては、改めて「名前の漢字を書いて出してくれ」というくらいに。


 小学校の入学式は記憶にないのですが、式後の教室で「西野 せいこ」さんと呼ばれたことは半世紀近く経った今も明確に記憶に刻みつけられています。

 両親が働いていたため私は保育園に通っていましたが、保育園は根本的にひらがなを使うこともあって正しく「きよこ」でした。

 入園当初のことは幼過ぎてわかりません。

 そのため私は、自分の名が読み間違われる可能性が高いのだと小学校の入学式の日に初めて知ったわけです。


 ちなみにその時は、私は当然自分だとは思わないので返事はしませんでした。「同じような名前の子がいるんだな」と感じただけで。

 まだ若かった担任の女性教員が蒼白になって狼狽えているところに、教室の後部に他の保護者とともに並んでいた母が「先生、『きよこ』です。『にしの きよこ』」と助け舟を出したのも未だに忘れられません。

 その場はそれで解決しましたが、母が訂正して初めて「あ、私のことなんだ」と気づいたのも脳裏に焼き付いたように残っています。

 記憶というのは摩訶不思議なものだな、とその一点でも感じます。「名前に纏わる『嫌なこと』」が数珠繋ぎになって数十年分積み重なってきたので、起点も忘れられないということなのでしょうか。


 中学時代は印象が薄く、入卒どころか三年間何があったのかもほぼ記憶にありませんが名前を正しく読まれたことだけはないです。

 もしあったのなら決して忘れませんから。


 高校の入学式と卒業式は見事に間違われました。

 入学式は式前に教室に入って、担任が「絶対間違えてはいけないから」と読み方を一人ずつ聞いてリハーサルまでしたのに私だけ「せいこ」でした。

 何のための「リハーサルでフリガナ」なんだよ、と返事をしながら呆れたのも忘れる日は来そうにないです。

 卒業式なんて、一年間だか二年間だか(忘れた)担任していたにもかかわらず「きよこ」と読めませんでしたからね。

 教員なんてその程度と理解はしていますが、せめてセレモニーくらい気合入れろよ、なんだから、と呆れました。


 私は高校までは学校に行きたいと思ったことはただの一度もありませんし、友人もただの一人もいません。

 ノンフィクションですので事実だけ書いています。高校までの学校には、卒業後に転居しても故意に連絡先さえ伝えていないので、同窓会の連絡も来ず快適です。


 そんな私ですが、大学だけは楽しかったです。

 バブル真っ盛りだったはずなのに、勉強が忙し過ぎてまったく好景気を享受できなかったのは少しだけ心残りです。

 学生時代にアルバイトもしたことがないので余計なんですが。

 流石に大学は入学式も卒業式もいちいち名前を呼ぶ形式ではなかったんですが、卒業式の後の講義室での学位記授与では正確に読んでいただけました。

 まあ学年の人数が少ないですからね。





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