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99.俺がなに言っても、無駄か?

 カールがフローラと付き合い始めたのは、去年のスカーレットデイがきっかけだった。

 誰とも付き合う気のなかったカールだったが、フローラの人柄に魅力を感じて付き合い始めたのだ。

 二人の交際は順調に進んでいた。

 デートを重ね、互いをいたわり、情を交わし合った。

 去年のアルバの日は日曜だったのでデートできたが、今年はそうもいかず、いつもの新聞を読む時間を削って夜のデートへと誘う。といっても、点呼があるので夜八時までに寮に戻らなくてはいけないのだが。


「新聞はよかったの? カール……毎日欠かさず読んでたのに」


 フローラが申し訳ない思いで眉を下げ、カールを目で見上げる。

 そんな彼女の頭を、カールはよしよしと慰めるように撫でた。


「いーんだって、一日くれぇ。俺だって、フローラと過ごす時間は大事だしな」

「ありがとう、嬉しい」


 心から気持ちを溢れさせるように笑うフローラを、カールは心底かわいいと思っている。

 付き合って一年と一ヶ月。

 カールはフローラの手を繋いで外に出ると、誰もいない物見櫓へと登った。

 物見櫓は古びた石造りの塔で、上に向かって急勾配の階段が続いている。隊務が終われば利用する者は皆無だ。

 カールは時折ここを利用し、フローラとの逢瀬に使うこともあった。


「寒くねぇか?」

「私は大丈夫。いっぱい着てるし……カールは相変わらず薄着だけど、大丈夫?」

「おう、かなりあったかくなってきたよな」

「まだまだ寒いって言われる季節だよ?」


 くすくすとフローラは笑い、カールも歯を見せて笑うと塔から周りを見下ろす。


 兵舎の屋根、遠くに男子寮と女子寮の灯り。

 ランタンを持って寮に戻る隊員の姿。

 見上げた空には無数の星が広がり、空気はひんやりと冷たい。

 遠くの木々が風に揺れ、囁くような音だけが聞こえる。

 心が静まるような、そんな静かな時間が流れていた。


「俺らもようやく卒隊だな。長かったぜ」


 カールは見えるはずもない王都を眺める。

 ミカヴェルの問題もあり、騎士になれるかどうか不安に思ったこともあったが、問題なく王宮での勤務が決まった。

 トラヴァスとは三年、アンナとグレイとは一年遅れでようやく追いつけると思うと、心は高揚する。


「私は……あっという間だったよ? カール……」

「フローラ」


 カールは視線を外から隣にいるフローラに移した。

 寂しそうな心の揺れは、カールの胸へと届く。


「フローラも騎士になんだから、王都に行っても一緒だろ? んな顔すんなって」

「私は採用されたのが奇跡っていうか、カールのおかげだもの」

「俺は関係ねーよ。フローラが自分で頑張ったからじゃねぇか」

「カールったら、なんにもわかってない」

「……なにがだよ」


 人の心の機微には聡いカールだ。カール自身も、その自覚はある。

 しかしフローラの心の揺れはわかっても、なにを考えているのかはまではわからない。


「カールがずっと、私のために……私の仕事がやりやすいように動いてくれてたこと、知ってるの……」

「大したことしてねぇぜ」


 カールの言葉に、フローラは首を振る。


「カールがいなかったら……カールが恋人になってくれていなかったら、私は騎士にはなれなかった。だから、すごく、感謝してる……」


 カールが騎士を目指していることは、もちろんフローラも知っていた。

 だからフローラ自身も努力してきたのだ。カールの隣に立てる女性になりたいと。胸を張って、彼の恋人だと言えるように。

 共に騎士になれるようにと、フローラなりに精一杯やってきた。

 カールはフローラを応援し、手を貸すこともあったが、大したことではないと思っている。フローラの感謝は大袈裟だと感じるくらいだ。


「そう言ってくれんのは嬉しいけどよ。フローラは優秀なんだから、騎士になんのは当然だと思うぜ」

「買い被り過ぎだよ、カール。私は引っ込み思案で、カールがいなきゃ、たくさんの人と関わる機会なんてなかった。それはね、私が〝カールの彼女〟だったからなの」

「……なにが言いてぇんだよ……」


 涙目で訴えるフローラに、カールの心臓はドクンと波打つ。


「知ってる? カールの彼女ってだけでね、人は一目置いてくれるんだよ。それだけの力を、あなたは持ってるから」

「…………」


 カールは、否定できなかった。

 フローラに危害が及ばないように、なにか不利益を被ることがないように。自分の彼女であることをアピールしてきたのは、カールだ。

 明確に脅したりはしないが、フローラにちょっかいを出しそうな者には、男女関わらず圧を掛けたこともある。


「カールはずっと気を使って、ずっと守ってくれてた。私、知ってるんだよ……」

「……悪ぃ。余計なこと、しちまったか」


 ふるふる、とフローラは首を左右に振った。溜まっていた涙が一粒、宙を舞って落ちていく。


「さっきも言ったけど、本当に感謝してるの……でもこのままじゃ、ダメだってわかってる」


 カールはなにも言わず、フローラの言葉を待った。

 彼女は悲しみで顔を歪めた後、決心するように自分の手をぎゅっと握りしめ、カールを見上げる。


「私、カールに庇護されているだけの女でいたくないの。自分の力で、ちゃんと騎士として誇れる私になりたい!」


 引っ込み思案だったフローラの決意の言葉が、カールの胸に響いていく。引っ込み思案な彼女が、強い瞳でカールを見ていた。


(かわいくてかわいくて、かわいがってたけど……守らねぇとって思ってたのは、俺のエゴだったんだな……)


 恋人として対等に見ていなかった自分に、カールはようやく気づけた。フローラの少しずつ自立していた心にも。


「わかった。もう余計なことはしねぇ。それでいいか?」


 カールの言葉に、フローラは眉を下げて笑う。


「カールって人の気持ちには敏感なのに、自分のことは全然わかってないよ」

「……あ?」


 フローラの言いたいことがわからず、カールは眉と口を曲げる。

 そんなカールへと、フローラは諭すような穏やかな声音で言葉にした。


「カールはね、なにもしないって言っても、しちゃう人なんだよ。それが当然だと思ってるから。私が彼女でいる限り、カールは私を気にしてくれる。私を守ろうとしてくれちゃうんだ」

「……そう、だけどよ。まるっきり知らねぇふりなんてできねぇよ。彼女なんだからよ」

「優しすぎるんだよ、カールは……」


 ふにゃりとフローラの顔が歪み、我慢していた涙がこぼれ落ちる。

 ふえ、ふえ、と声が漏れるフローラ。それでも必死に言葉を紡ごうとしているのがわかり、カールは彼女を抱きしめることなく、じっと堪えながら待った。


「わ、私から……っ、付き合って、って……言ったのに……こんなに、よくしてもらって……言える立場じゃ、ないのに……でも……」


 フローラの胸の痛みが、伝染するようにカールへと伝わっていく。

 カールはどこか冷静で、けれど現状が信じられないなくて。

 そんな中、フローラはその言葉を放った。


「ごめん、なさい……私と、別れて、ください……っ」


 ぼろぼろと涙を滝のように流しながらの別れの言葉。

 彼女の全身が叫んでいるのがわかる。本当は、別れたくないのだと。


「……無理して別れなくてもいいじゃねぇか……」


 絞り出したカールの言葉に、フローラは今までにない強い目をキッと向ける。


「カールは将になるんでしょう!? じゃあ、私のことなんて気にしてる場合じゃないよ!」


 しかしその瞳からはまだ、ぼたぼたと涙が流れ落ちていて。

 フローラは喉を詰まらせながら、それでも声を繋げる。


「カールが……将になるには……私はお荷物なの……っ」

「んなこと──」

「あるよっ、ある! 私は、カールの弱点にしかならないから……っ」

「……っ」


 カールは息をのんだ。フローラの瞳には確かな決意が宿っている。


「いつまでも……守られてばかりいたくない……私は……カールの力を借りることなく、一人で頑張りたい……!!」


 震えるフローラの声。しかしその言葉には強い意志が込められていた。拳を握りしめるカールにフローラは悲しみを滲ませる。


「付き合ったままだと、私はまたカールを頼っちゃう……助けてくれると期待しちゃう。そうしたら、カールは絶対、助けてくれちゃうんだよ……誰よりも優しいから……っ」


 まっすぐな想いを突きつけられ、カールは言葉を失った。優しさは時に、足枷になる。それを解き放つための、フローラの決断だった。

 なにも言えずにいるカールに、フローラは頬に涙を伝わせながら、そうっと微笑む。


「こんな気持ちになれたのは、カールのおかげだよ。カールが私に、力をくれたから……」


 その笑顔はどこか寂しげで。しかし彼女はもう、引っ込み思案な少女ではなくなっていた。


「……俺がなに言っても、無駄か?」


 ずくんずくんと痛むカールの胸が、不安の鼓動を立てる。

 彼女の決意は固く、どうにもならないだろうとわかっていても。カールは聞かずにはいられなかった。


「私、気づいちゃったんだ……カールの隣に立つには、すべてを跳ね返すような強い女の人じゃないと、ダメなんだって」


 フローラは「私じゃダメだから……」と呟くように吐き出し、嗚咽を漏らしながら俯く。

 カールは揺れるコーヒー色の彼女の髪を見て、声を絞り出した。


「……言っとっけど、フローラも十分強えかんな」

「ふえ、えぇぇえっ、そんなこと、ないぃい……っ」

「ないことねぇよ。ちゃんと告白してくれただろ。今だってこうしてしっかり別れを告げられた。フローラはすげー強ぇ女だって、知ってっからな、俺」

「カール、カールぅうう……うあぁぁあああん!!」


 目の前で叫ぶほど泣き始めたフローラを、カールはたまらず抱きしめた。

 もう、二度と抱き締めることも叶わないとわかっていたから。最後の、抱擁を。


「ごめんな……そんな決意、させちまって……不甲斐ねぇ……っ」

「カールはなにも、悪くないのぉ……っ! 私が、私が……うううぁあっ」


 泣きじゃくるフローラを強く抱きしめると。柔らかな優しい香りが、カールの鼻腔を抜けていく。

 一年と一ヶ月分の思い出が脳裏を駆け巡り、カールは唇を噛み締めた。


「ありがとうな……フローラのおかげでこの一年、すんげぇ楽しかった」

「私も……楽しかったよ……! いつか……いい女と付き合ってたんだって、カールが胸張って言えるように……私、頑張るから……カールのことも、ずっとずっと、応援してるからぁああっ!」

「フローラは十分、いい女だっての」


 カールはフローラを抱きしめたまま、彼女の額に自分の額を当てて。

 キスしそうになるのをぐっとこらえると、ゆっくり離れてフローラの涙を手で拭う。

 ひっくひっくとしゃくりあげるフローラを、カールは落ち着くまでじっと待った。


「ごめん、ね……泣かないでお別れしようって……思ってたのに……」

「いや……平気な顔して別れられても、それはそれでショックだしな」


 カールの本音に、フローラはようやく少し笑みを見せる。そして彼女は、塔の上から星空を見上げた。


「初めてのキスは、ここだったね……覚えてる?」

「当たり前だっての」


 フローラはファーストキスだとわかっていたから。カールは大切に大切に、彼女の唇を奪ったことを思い出す。


「初めての彼氏が、カールでよかった……一年と一ヶ月、本当にありがとう。思い出すべてが、私の宝物になったよ」

「俺の方こそ、ありがとな!」


 フローラが笑顔になったので、カールもニッと笑みを見せた瞬間。

 彼女は飛びつくようにして、カールの唇を奪っていく。

 一瞬ですぐに離れたフローラは、コーヒー色の長い髪を耳にかけて恥ずかしそうに笑った。


「えへへ……最後の思い出にするね!」

「……おう!」

「今日は送らなくていいよ。ここでさよならしなきゃ……やっぱりなかったことにしてって、言っちゃいそうだから……っ」

「わかった」


 カールがまっすぐの赤眼で頷くと。

 フローラは笑顔のまま、震えた声で。


「さよなら!」


 そう言った瞬間、彼女は踵を返して階段を降り去っていく。

 上から見ていると、フローラが塔を出たのが確認できた。

 涙を袖で拭う仕草をした後、もう彼女は下を向くことも後ろを振り向くこともせずに寮への道を帰っていく。


「やっぱ強ぇよ、フローラはよ」


 つい先ほどまで恋人だった女性を想い、カールは口の端を上げた。

 そして何事もなくフローラが戻ったことを確認すると。

 カールはズズズッとその場にずり落ちてゆく。


「くっそ……痛ぇ……」


 その胸の痛みを涙に変えて。

 カールはしばらくの間、空を見上げることはできなかった。

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