二月に入ると、
昨年から大々的なイベントとなっていたが、王都にいると顕著に感じることができる。
軍内でもスカーレットデイは禁止されていないので、ここぞとばかりに勇気を出す女性も、ちらほらと見られた。
アンナは去年の失敗を繰り返さないよう、前もってチョコレートの準備をしっかりしている。
「アンナ隊長、私はこれで上がらせてもらいます」
リタリーが気合の入った顔で報告にきて、アンナは首肯した。
「わかったわ、お疲れ様。リタリーも、誰かにチョコレートを渡しに行くの?」
「はい、
「そう、頑張ってね」
アンナの言葉に、リタリーは嬉しそうに笑って軍務室を出ていく。
例の彼とは、知り合ったという貴族のことだ。ローズに気をつけてあげてと言われたアンナだが、特に問題があるようにも見えず、リタリーを送り出した。
アンナもいつもより早く仕事を終えると、帰途につく。
前を歩くロディックとユーミーが腕を組んでいて、思わず笑みが漏れた。
(今日は早く帰る人が多かったわね。みんな告白してるのかしら)
そんなことを思いながら料理を作り、ちょうど作り終えたところで、ディックが二階から駆け降りてくる。
案の定、ディックはそのまま玄関へ向かって行き、扉が開くと同時にグレイに飛びついた。肩に飛び乗ったディックはグレイを頬擦りし、ふわりと温かい毛を当てられたその頬は緩んでいる。グレイは肩に差し伸べ、ディックはその指をペロリと舐めた。
「おかえりなさい、グレイ。本当にディックはグレイが大好きね」
にゃあん、とグレイの肩で返事をするディック。二人は我が子のような可愛いディックを見たあと、笑みを向け合う。
「悪かった、遅くなったな」
「ううん、大丈夫。簡単なものしか作れなかったけど、夕食にしましょ」
「ああ」
堅苦しい騎士服を脱ぎ、家着に替えるとグレイは食卓についた。
温かい豆のスープと、塩とハーブで焼いた豚肉のロースト、じゃがいもと人参の煮込みとサラダ、あとはスープに浸して食べる用のパンだ。
「足りるかしら?」
「十分だ、ありがとな」
ディックにも餌を用意して、二人と一匹での食事だ。
まだまだ寒い季節で、暖炉前がディックの特等席である。
「今日はスカーレットデイだったわね」
「そうだな」
「グレイは誰かにチョコを貰ったりはしなかった?」
「全然だ。俺にはアンナがいるってみんな知ってるしな」
それでも密かにグレイのことを好きな人がいるのではないかと、アンナは少し心配していた。恋人が好かれるのは嬉しい反面、取られはしないだろうかとドキドキしていたのだ。
グレイに限ってそんなことはないとわかっていても、人の気持ちというのは急に離れてしまうことを、アンナは知っている。
なのでグレイが誰にもチョコレートをもらわなかったと聞き、ほっと息を吐いた。
「もし渡されても受け取らないし、アンナ以外の女と付き合うわけもないんだから、心配しなくていいんだぞ」
「ええ……わかってるんだけど、ちょっと気になっちゃって」
「俺は今までの人生で、一度もスカーレットデイにチョコレートを貰ったことがないからな」
それはもちろん、アンナが去年あげなかったせいでもある。
「初めて貰う人は決めてるんだ。今年はくれるのか、楽しみにしてるんだが」
「もう。今年はちゃんと用意してるわよ」
要求とも取れる発言に、アンナは苦笑いしながら答えると、グレイはニヤリと口の端を上げた。
「また忘れられてるんじゃないかと、心配だったんだ」
「忘れないわ。あ、でも後で渡そうとしたら遅くなりそうだから、今渡すわね」
アンナは紙袋からチョコレートを取り出して、グレイへと手渡す。
「はい、グレイ。後で食べてね!」
「ああ……なんかあっさりだな……」
もっと甘々な雰囲気を期待していたグレイである。
しかしアンナは満足顔でニコニコしているので、グレイも十分だと頬を緩ませて食事を続けるのだった。
そして寝る前のゆったりした時間に、二人並んでソファーに座り、グレイはチョコレートの箱を開けてみる。
中からはハートのチョコレートがいくつも入っていて、グレイは嬉しいと思いながらも少し照れた。
「すごいな。ハートだらけだぞ、これ」
「ふふっ。だって、せっかくのスカーレットデイなんだもの。喉が渇くでしょう、ミルクでも入れましょうか」
「いや、チョコレートにはコーヒーだろう」
「ええ? チョコレートにはミルクじゃない? それにもう、寝る時間だし」
コーヒーでチョコレートを食べたかったグレイだが、寝る時間というアンナの言葉を受けて頷いた。
「そうだな。たまにはミルクでも飲むか」
アンナは燃石という道具を使って、ミルクを少し温める。
火をつける時はマッチを使わなくてはならないが、大きさによって燃え方や時間が変わる便利な石だ。火の書を習得した魔法士が、魔石という特殊な石に魔法力を込めて販売している。
それなりの値段がするのだが、働き始めてからは時短のために使用することが多くなった。
温まったミルクを、アンナは猫用皿に注いで出す。
二つのカップを持ってアンナがソファーに座ると、隣にいたグレイが小さなハート型のチョコレートをひとつ手に取り、ぱくんと口の中へと放り込んだ。
「ん? これ、コーヒー味のチョコレートか?」
「ええ、そうなの。絶対にグレイが喜ぶと思って」
「なるほど、だからミルクを勧めたのか。うん、うまい。ありがとうな、アンナ」
「ふふ、よかった」
アンナが目を細めて微笑んだ瞬間、グレイは引き寄せられるように唇を重ね合わせる。
コーヒー味のチョコレートをアンナも感じて、とろりと体をグレイに預けた。
「グレイ……愛してるの。世界で、一番よ」
「ああ……知ってる。よそ見なんか、させてたまるか」
自分だけを見ていて欲しい独占欲で、ぎゅうっと強くアンナを抱きしめるグレイ。
アンナが他の男に目を向ける可能性があるとすれば、シウリスだけだ。
絶対に手放さないと、グレイはもう一度唇を重ね合わせる。
口には出されることのないグレイの愛。それを享受したアンナは、幸せと、そして少しの悲しみが生み出された。
(グレイが私を愛してくれているのはわかってる。でも……言葉が、欲しいわ……)
いつか言ってくれるまで待とうと思っていたアンナだが、なにも言われず、自分だけが伝え続けることに寂しさを感じた。
グレイは愛の言葉を上手く表現できる人ではないとわかってはいる。
誘導して引き出した言葉など無意味だとわかっているから、アンナは絶対に〝好きと言って〟などとは言わなかった。
しかし愛されているとわかっていても、言葉で、耳で、心で、全身で愛されていることを感じたいと思うのは、無理もない話だ。
そんな気持ちをぐっと
「ミルクが冷めちゃうわ。飲みましょう?」
「ああ、そうだな」
グレイは頷くと、チョコレートをひとつアンナの口の中に入れる。
そのおいしさに顔を綻ばせたアンナに、グレイはふっと笑ってミルクを飲み干したのだった。
まだまだ寒い二月の夜、アンナとグレイはひとつのベッドの上で互いを慈しみ合い。
グレイはすぅすぅと眠る愛しいアンナをそっと包み込む。
これまで、アンナからはたくさんの愛情と言葉を、グレイは受けてきた。
そしてグレイもまた、アンナへ愛情で返してきたのだ。言葉以外で。
(あの顔……やっぱり、俺からの言葉を待ってるよな)
キスした後の、少し悲しいアンナの笑み。その理由が自分にあると、グレイはなんとなく感じ取っていた。
グレイは今まで、好きだとも愛しているとも、アンナに対して言ったことがない。
気持ちはもちろんある。溢れるくらいにはある。
しかしグレイは、どうしてもその言葉を声にできなかった。
(昔は……言ったことがあったんだがな……)
グレイの母親は、グレイが三歳の時に病で倒れて亡くなっている。
優しくグレイの頭を撫でる母親から、グレイは愛情を受けていた。
──グレイ。愛しているわ。私のかわいい子……
──おかあしゃん、ぼくもあいちてるっ
グレイはただただ撫でられるのが嬉しくて。
ずっとそんな日々が続くと思っていたある日、病状が急変し、母親は息を引き取った。
愛する母が亡くなっても乗り越えられたのは、猟師である父と、一緒に暮らす猟犬のおかげだ。
母親の分もと、父親は愛情を掛けてくれた。猟犬も、共に暮らす大事な家族だった。
──おとうさん、ガル、だいすきだからねっ!
──父さんもグレイが大好きだぞ!
──ワンワンッ!
グレイが日頃の気持ちを伝えた、その翌日。
父親と愛犬は、この世の者ではなくなってしまった。
フィデル国の過激派に、殺されてしまったのだ。
グレイはアリシアに助けられたが、その時の出来事は、現在でも脳裏に焼きついていて離れない。
そして幼きグレイに、ひとつの呪いが掛けられた瞬間でもあった。
愛していると好きだと言った相手が、不幸になるのではないか、と。
それはただの子どもの思い込みだと、大人になった今のグレイにはわかっている。
しかしわかっていても、愛の言葉を口にするのは恐ろしかった。
もしも本当に不幸を呼ぶことになったら、と思うと。
今、グレイは人生で最高に幸せだと思っている。
色々問題があったとしても、それを打ち消すほどの幸せを、グレイは手にしているのだ。
だからこそ、不幸を招くかもしれない言葉を言うのは憚られた。
(悪い、アンナ……もう少し、時間をくれ……)
いつか言葉にしたいという気持ちは、もちろんグレイにはある。
過去の出来事など、どうでもよくなるくらいに愛が溢れた時には、きっと言わずにはいられないだろうと。
「アンナ……」
グレイは誰よりも愛おしい婚約者の名を呼び、その額にそっとキスをすると。
(愛してる)
心の中でだけ愛を告げ、グレイはアンナと共に眠った。