アンナとグレイが入軍して、初めての秋の改変があった。
その改編で、アンナは小隊長から隊長へと昇進した。今までと同じく、第六軍団スウェルの元での昇進だ。
トラヴァスも第三軍団デゴラの元で、隊長への昇進を決めた。
そしてグレイは、当初アリシアが言った通り、第一軍団から放り出されていた。
手放されると同時に、戦闘隊である他の五軍団からグレイへと誘いがかかる。どの軍団も隊長職でのスカウトであった。戦闘隊のすべての将が、グレイを認めたということだ。
結局はグレイ本人の意向で、クロバースが率いる第五軍団に入ることになったのだった。
昇進が決まったその日、アンナとグレイはトラヴァスを誘って家で乾杯をした。
赤いワインがグラスで揺れる。
「三人揃って隊長に昇進できるなんて、嬉しいわ」
「俺は三年目で、これでも早い方なのだがな。一年目で隊長など、二人は異常すぎるぞ」
トラヴァスの言葉を受けて、アンナとグレイは目を見合わせて微笑んだ。
ローズも小隊長になっていたので、ぜひ一緒にと誘ったのだが、トラヴァスが仲間内だけの方が気が楽だろうと、伝えもしなかったので彼女は来ていない。
グレイとアンナは誕生日を迎えていて十九歳、トラヴァスは現在二十歳である。
「俺もアンナも二十歳での将を目指しているからな。滑り出しは良かったが、ここからだ」
お祝いにと奮発したドラゴン肉のステーキを、グレイはがぶりと頬張った。
しっかりと弾力のある肉から、じゅわりと肉汁が垂れる。
「いや実際、グレイはすでに将でもおかしくない器だと思うが。年間の行事や段取りがわかるようになれば、問題なく将になれるだろう」
「実は俺もそう思ってる」
「相変わらず自信満々だな、お前は」
謙遜せず、隠そうともしないグレイに、トラヴァスはワインを飲みながらアイスブルーを半眼にした。
「仕方ない。それだけ俺は筆頭にしごかれたし、応えられるだけの力をつけてきたからな」
「けど、グレイだけが将になっても結婚はできないのよね。むしろ私が将にならなきゃ、意味がないわ」
音を立てず一口大に切ったステーキを、アンナも口へと運んだ。
とんでもない勢いで出世していく二人を見て、トラヴァスは呆れながら声を出す。
「もう結婚しているようなものだろう。そこまで必死になる必要もあるまい」
「まぁな。けど妊娠すると将になるのは一気に難しくなるからな。アンナが隊長止まりになるのはもったいないだろ。できないように気をつけてはいるけどな」
「なるほど」
「もう、グレイったら」
納得するトラヴァスだが、あけすけに話されたアンナは少し恥じらいを見せた。意識を逸らすためにアンナはトラヴァスの方へと話を振る。
「トラヴァスとローズも付き合って長いんでしょう? 結婚の話は出ないの?」
ローズに同じ話をした時、彼女は『どうかしら……あんまりそういう話をしないのよね、彼』と言っていた。
ということは、ローズからは話をしていると判断して、興味本意で聞いてみる。
するとトラヴァスは、軽く息を吐き出した。
「このままではいけないと、思ってはいる」
「ふふ、そうなのね。喜ぶわよ、ローズ」
「……どうだろうな」
トラヴァスの言葉をポジティブに捉えたアンナは、逆の意味の可能性など考えもしなかった。
「それにしてもグレイは、クロバース様の隊を選んだのだな」
「あ、それ、私も気になってたのよね。デゴラ様の隊を希望するかと思っていたのに」
入軍前はデゴラの隊を希望していたグレイだ。トラヴァスはいいところに配属されたと羨ましがっていたというのに、グレイの希望はデゴラ隊ではなくクロバース隊であった。
二人の言葉に、グレイはニッと口の端を上げる。
「デゴラ様の隊は、隊長が一人体制だからな。俺が行くと、トラヴァスが出世できなくなるだろ?」
「っふ、言ってくれる」
煽られたトラヴァスはしかし、無表情を崩さない。
これはグレイにとって事実ではあるのだが、ただの揶揄いでもあるのだ。それをトラヴァスもわかっているので、怒ったりなどしないし、アンナも慌てたりはしなかった。
「さて、ここから誰が一番先に将になるかな? まぁ十中八九、俺だろうが」
「私も負けないわよ」
「後から来た二人には負けられんな。来年はカールも入ってくる。あいつも勲章持ちだから、班長以上からのスタートになるぞ」
もう半年もすれば、カールが入軍してくる。それを皆は、誰よりもトラヴァスは、楽しみにしていた。
「今年の剣術大会は、当然のように一位を取ってたものね。カールが来るのも楽しみだわ」
「案外女にうつつを抜かして、昇進しないかもしれないぞ、あいつは」
「もう、またそんなこと言って。カールが聞いたら怒るわよ」
グレイの揶揄いに、この場にいないカールの怒り顔を浮かべたアンナたちは笑った。
そうして三人は楽しい時間を過ごし、食事が済むとお開きになる。
玄関へと向かうトラヴァスを、アンナとグレイは見送った。
「今度はローズも一緒に食事しましょう」
「……そうだな、機会があればそうしよう」
「じゃあな、トラヴァス。気をつけて帰れよ」
トラヴァスが靴を履き替えていると、客がいなくなるのを察知したディックが、二階から降りてくる。
「ではな。猫が後ろで待っているぞ。行ってやれ」
アンナとグレイがディックに笑みを見せているのを確認して、トラヴァスは家を出た。
宿舎までの道のりは、家や店の灯りでほんのり照らされている。秋の虫がどこかで鳴いていて、トラヴァスはその声を聞きながらアンナの笑顔を思い浮かべた。
──今度はローズも一緒に食事しましょう。
トラヴァスとローズがうまくいっていると思って疑いもしていない、アンナの発言。
(アンナは女子会のあったあの日、俺とローズがホテルに向かったと思っているだろうから、無理もない。実際、それは当たっているしな)
グレイの所属する第一軍団が飲み会だと知った直後、トラヴァスはすぐに恋人であるローズの元へと向かっていた。
アンナとトラヴァスは友人ではあるが、お互いに恋人がいるのだ。二人っきりで食事にするのはさすがに憚られた。
周りに見られてはなにを言われるかもわからないし、見られないようにアンナの家で二人きりになるのは、尚さらまずい話だ。グレイはいい気がしないということもわかっていた。友人を気遣ったトラヴァスは、ローズを頼ったのである。
今までこんな頼みをしたことがなかったトラヴァスだ。ローズは驚いたが、すぐさま承諾した。ただし、ひとつの条件をつけて。
──食事を終えたら、久々にあなたとホテルに泊まりたいわ。
ローズとの付き合いは続いていたものの、忙しいと言い訳をして、夜の方は長い期間が空いている。
ヒルデと不貞した罪悪感が絡みつき、思い出したくもない行為がフラッシュバックして吐き気を催すため、敬遠していたからだ。
しかしいつまでも避けるわけにはいかず、ローズの条件をトラヴァスは呑んだ。
アンナの性格ならば、誰かを誘って食事に行くなどしない。
だから強引にでも、アンナを食事に連れ出せる女性が必要だった。
たとえそれが、
あの後、トラヴァスは約束通りローズとホテルに行き、情を交わした。
すると、思ったほどには苦しみを感じなかった。
時間が解決していくものなのかもしれないと、トラヴァスは少しほっとする。
これならば、ローズへの愛情もいつか戻るかもしれない、と。
しかしあれから数日。彼女への気持ちは大きく変化していなかった。今後変化するかもしれないが、まだなんとも言えない。
間違いなく、大事な人であるには違いないというのに。
それに気づくと同時に、トラヴァスは今まで考えもしていなかった感情に目を向けた。
今回の件は、アンナが一人で食事をするというだけの話だったのだ。
それくらいは誰にでもあり、躍起になって一人にさせまいと奮闘する必要など、ないはずである。
しかし、トラヴァスは必死になっていた。
アンナに寂しい思いをさせるまいと。
グレイに頼まれたわけでもないのに。
それに気づいた時、トラヴァスは愕然とした。
仲間として大切だからというのは当然としても、トラヴァスはここまで干渉するタイプの人間ではない。それを自分でわかっていたからこその、気付きだった。
(そうか……だから俺は、
トラヴァスは唐突に当時のことを鮮明に思い出した。
アンナがバイロンに反則されて負けた時のことを。
トラヴァスは、それまで感じたことのない感情が全身を駆け巡っていた。
その感情は怒りだと思っていたが、それだけではなかったのだと、今さらながらに気づいたのだ。
当時のトラヴァスには彼女がいたし、アンナはトラヴァスより二つ年下で、若い頃はさらに幼く感じていたこともある。
だからなにをするでもなかった。大切な仲間だと思っていた。
その後、トラヴァスが彼女と別れた時には、アンナはグレイと付き合っていたし、カールはアンナを好きなのではないかとうすうす感じていたため、どうこうなることなどなかった。
しかしもしも、お互いに〝いい人〟が誰もいない状態であったなら。
そこまで考えて、トラヴァスは首を横に振った。
(まったく……カールのことを言えんな、俺も……)
トラヴァスにしても、アンナとグレイを引き裂くつもりなど毛頭ない。
二人とも、大切な仲間なのだ。
(俺はもっと、真剣にローズと向き合わねばな……ヒルデ様とのことを少しずつでも消し去っていけば、きっと元に……)
トラヴァスはそこまで考え、いきなり込み上げた吐き気を抑えて。
空に浮かぶ美しい月など見ることもなく、蹌踉としながら宿舎への道を歩いていった。