「よっしゃ、仕事終わったぜー!!」
就業時刻を迎えた瞬間、フラッシュはそう叫んで立ち上がった。
同じく仕事を終わらせたグレイが、呆れながら目を向ける。
「どうして普段からその能力を発揮しないんだ、フラッシュは」
「あんまり深く考えるなって。眉間にシワ寄せて悩んでたら、ハゲるぜグレイ!」
「俺がハゲたらフラッシュのせいだぞ」
「わはは! とりあえず筆頭の部屋に行くか!」
足取り軽く軍団室を出たフラッシュのあとを、グレイは仏頂面で着いていく。
筆頭大将の執務室にはすでに仕事を終えたルーシエ、ジャン、マックスがいて、アリシアはニッと笑った。
「揃ったわね。じゃあ行きましょうか。ルーシエ、今日はどこを予約してくれたの?」
「本日は下町の赤熊亭を予約いたしました。少し歩きますが、雰囲気もよく、大喰らいにはちょうどいいお店です」
「おいおい、言われてるぜグレイ」
「俺よりフラッシュのが食うだろうが」
フラッシュはグレイの言葉を右から左に流して、赤熊亭の料理を思い浮かべた。じゅるりとよだれが垂れそうになりながら、フラッシュは満面の笑みになる。
「赤熊亭は酒もうまいし、肉料理が絶品なんだよなぁ」
「そうなのね、楽しみだわ!」
「筆頭、赤熊亭は初めてなんだ」
ジャンの言葉に、アリシアは扉を開けて部屋を出ながら答える。
「ええ、あまり下町まで行かないのよね。外で食べる時は、つい近場ですませちゃうわ」
近場ということは、貴族地区ということだ。グレイは皆の後ろを歩きながら、アンナの場慣れ感の理由を改めて納得した。
王宮を出ると陽はもう傾いて、王都を徐々にオレンジ色に照らし始めている。
「日が暮れるのが早くなったわねぇ」
「もう秋だね……寒くなってきた」
「なに言ってるのジャン、これくらいで。寒くなるのはまだまだこれからよ!」
寒さの苦手なジャンは、これからやってくる気候を考えて、背筋を震わせる。
「また冬が来るのかと思うと、ぞっとするんだけど」
「宿舎は寒いもんなぁ! ジャンも出ればいいんじゃねーの?」
「いいんだよ、俺は。限界になったらマックスのとこに行けばいいから」
「ホントお前、人の家を避難所にするのやめろよな……」
「災難ですねぇ〜、マックスは」
ルーシエはふわりと笑っている。彼は普段から柔和な人物だが、勤務時間を終えて仲間内だけになると、さらに柔和になるのだとグレイは初めて知った。
そんな話をしながら、一行は下町にある赤熊亭に到着する。
乾杯はビールだろとフラッシュが勝手に決めて、皆でグラスを鳴らした。
「かんぱーい! 今日は無礼講だぜー!」
「こらフラッシュ。それは私が言うものよ。もう、仕方ないわねぇ」
「わはは! さっすが俺らの大将、懐がでけえ!」
フラッシュがいつも褒め称えるので、ついつい彼の言動を受け入れるアリシアだ。
こうしていち早くムードを作るフラッシュを、皆はある意味一目置いている。
乾杯が終わると次々と食事が大皿で運ばれて来たので、皆はそれぞれ好きなものをとって口に入れた。
「しっかしグレイがいなくなったら、俺の残業が増えそうだよなぁ」
「あんたは真面目にやれば、時間内にできるだろうが。なのにいつも全部俺にやらせやがって」
「グレイ、世の中には愛の鞭って言葉があるんだぜ?」
「そんなものはいらんぞ」
隣に座った二人は、普段の仕事ぶりにケチをつけたり褒めたりしている。そんなやりとりを目の前にしたルーシエは、柔和な笑顔でグレイとフラッシュを見た。
「仲がいいですねぇ、お二人は」
「どこがだ」
「わはは!」
仏頂面のグレイと、明るく笑うフラッシュである。
つられて笑ったマックスだが、しかし直後に眉を下げた。
「けどせっかくグレイがここまで育ったっていうのに、本当に手放すんですか、筆頭」
マックスは残念な気持ちを抑えきれず、アリシアへと目を向ける。
「ええ。グレイは最初から特別扱いしていたと取られても、おかしくない状況だったもの。第一軍団から放り出して他の軍団で実力を示すことで、周りに認めさせなきゃね」
「もう十分認められてると思うんですが……」
「それでも私の下ではダメよ。アンナの婚約者だもの」
アリシアの言葉を、グレイ含め全員が理解していた。
『親子だから贔屓されていると思われては困る』とアンナが言っていたように。
アリシアもまた、娘の夫となる人物を贔屓していると周りに見られるのは困るのだ。それはグレイのためにならない。実力でのし上がっていたとしてもだ。
「けれどアリシア様。ここだけの話なら、よいのではないでしょうか」
長い銀髪の副官ルーシエが目をそっと細めると、心を読まれたアリシアは笑う。
「あはは、そうね! お酒の席の話だし、聞き流してちょうだいな」
そう言ってアリシアは残りのお酒をぐいっと流し込むと、ダンッとグラスをテーブルに置いた。
「本当はね、グレイを第一軍団の隊長に昇格させて、この五人を私の直属にさせたかったわ」
ふっと笑うアリシアに合わせて、グレイ以外の全員が口元を上げて理解を示した。
当然、グレイだけは表情を固くする。
「直属、ですか」
「そうは言っても、あなたの方が納得しないでしょう。グレイは将を目指しているんだものね」
「はい」
惑うことなく答えるグレイ。
ずっとアリシアの部下でいたいと願う、他の四人とグレイは違う。
もしもグレイがアリシアの部下でいたいと言ったなら、第一軍団から放り出すことはなかった。贔屓されていると言われたとしても。
将を目指しているからグレイだからこそ、アリシアは険しい道を行かせるしかないのだ。
「あなたが私の下で燻っているのはもったいないわ。期待しているのよ。他の軍団に行っても頑張りなさい」
「っは!」
実際、グレイは将になれるだけの力量を備えている。部下としても優秀だが、それ以上に将として手腕を発揮すべき存在だと、アリシアは理解していた。
二杯目に赤ワインを頼んだジャンが、色気を垂れ流しながら口を開く。
「秋の改編の会議は明日からか……将の入れ替えがなければ楽だけど」
「今年は将の入れ替えはないと思いますよ。まだ下が育ってきておりませんし、将の皆様も優秀な方が揃っていますので」
「改編会議って、やっぱり大変なのか?」
入軍一年目のグレイの問いに、ルーシエは長い銀髪をさらりと揺らした。
「そうですね。その年によっては、何日も会議が続くことがあります。将が入れ替わるとなると隊員の入れ替わりも激しくなりますし。一日で改編が終わることもあれば、三週間も時間が掛かることがありますよ」
「まぁ今年は大丈夫よ。グレイの取り合いになるくらいじゃないかしら。そういう時は最終的に本人の意向を聞くことになっているから、一番高く自分を評価してくれるところに入りなさいな」
元より自分を安売りするつもりのないグレイではあるが、筆頭大将の言葉に強く首肯する。
今はとにかく、いち早く将になること。それが目標だ。
それでなくとも、アンナは班長からすぐに小隊長へと昇格しているのだ。うかうかしていると、あっと言う間に抜かされてしまう。
「ところでグレイ、まだ結婚しないの? 未成年だからって気にしなくていいのよ。近親者や後見人が承諾すれば、結婚はできるんだから。私はいつでもサインを書く用意はあるわよ!」
「結婚は、お互いが将になってからと決めているんで。アンナの出世のためにも」
「まぁ、そうなるわよねぇ。じゃあさっさと将になりなさいな」
「そのつもりです」
グレイの決意の言葉に、フラッシュはヒューと口笛を吹き、周りはニヤニヤしている。
そんな部下たちに、アリシアは半眼を向けた。
「あなたたちもいつまでもフラフラしていないで、いい人がいるならさっさと結婚してしまいなさい。人生、いつなにが起こるのかわからないのよ!」
アリシアの言葉に、さーっと目を背ける部下たちである。
「まったくあなたたちは、いつまで経っても結婚しようとしないんだから」
「わはは! まぁまぁ筆頭、もう一杯!」
「いいえ、もういいわ。私はそろそろ戻るから、みんなで楽しんでらっしゃいな」
「送るよ、筆頭」
早々に切り上げようとするアリシアと、すぐさま送ろうとするジャン。フラッシュはそんな二人を見て、小鳥の嘴のように唇を突き出した。
「筆頭、もう帰っちゃうんすかぁ? まだ食べ始めたばっかじゃないですか!」
「あなたはそうかもしれないけど、私はそれなりに食べたわよ。ゆっくり食べていきなさい。ルーシエ、これで支払っておいて」
「かしこまりました。ありがとうございます」
どっしりと入った封書をルーシエが預かる。フラッシュは納得いかずにブーブーと文句を垂れ始めた。
「グレイが別軍団に行ったら、呑む機会もなくなるだろ。ジャンまで帰ることないんじゃねーの?」
「そうよ、ジャン。道もわかるし、一人で帰れるわ。あなたはみんなと一緒に過ごしなさいな」
あっさりと言い放つアリシアに、ジャンは一泊置いてから口元を小さく動かす。
「……いいんだよ、俺は」
その呟きを聞いたマックスが、隣のフラッシュの頬をぎゅうっと引っ張ってつねった。
「余計なこと言うなよな、フラッシュ」
「いでで、なんだよマックス!?」
すぐに手を放すマックスと、首を傾げながら赤くなった頬を押さえるフラッシュである。
アリシアはそんな二人を横目に、口を拭いた白布をテーブルに置く。
「とにかく私はこれで──」
そう言いかけた瞬間。
ガタンッ
音を立てるように、アリシアはすごい勢いで立ち上がった。
何事かとグレイは目を丸めるも、他の部下は冷静だ。
「来なさい、ジャン!!」
「ん」
言われる前に立ち上がっていたジャンを連れて。二人は風のように店を飛び出していった。
グレイはどうするべきかと悩んだが、呼ばれもしていないし他の三人が落ち着いたまま席に座っているので、結局は腰を上げなかった。
「あーあ。筆頭は
「そのようですね」
「いつもの?」
グレイが眉を寄せると、マックスがほとんど呑んでいないロックのウイスキーをからりと傾ける。
「異能だよ。アリシア筆頭の異能は〝救済の異能〟。不当な暴力が振るわれて人が亡くなりそうになった時、助けるのに間に合うように教えてくれる能力って話だ」
「効力は半径三キロメートルという話です。つまりアリシア様は今、一番遠くて三キロという道のりを、全力で向かわれているのですよ」
マックスとルーシエの説明を聞き、グレイはまさに自分が助けられた異能だと実感する。
アリシアがこうして駆け出すことで、幼き日のグレイも助かったのだと。
(多分、初めて遭遇したホワイトタイガーの時も、そうして助けてくれたんだよな)
そう思うと、どこか感動のようなものがグレイの心に駆け巡っていた。