アンナとグレイは筆頭大将の執務室を出ると、そのまま家に帰ろうとした。すると、ちょうど王宮の出口のところでトラヴァスが紙の束を持ち、なにやらチェックしている。アンナたちはどうしたのだろうかと話しかけた。
「なにしてるの、トラヴァス」
「仕事か?」
声を掛けられたトラヴァスは、紙の束を封書にさっと入れた。
「まぁ、そのようなものだ。二人は今帰りか?」
「ええ。ちょっと個人的な用事があって、母さん……筆頭大将のところに行ってきたの」
「アリシア筆頭はまだ仕事を?」
「一応終わらせてはいたけどな。多分、俺たちが出た後にまた仕事してるんじゃないか?」
「そうか」
トラヴァスが無表情のまま手元の封書に目をやったので、アンナは首を傾げた。
「筆頭大将に渡すもの?」
「いや、そういうわけではないのだが……少し、悩んでいてな」
「どうした、悩みがあるなら聞いてやるぞ」
「ふ。グレイ、お前は私より年下なのに、たまに兄貴風を吹かせてくるな」
トラヴァスの顔が少し緩んだので、グレイも笑う。
「はは、カールにも言われた。まぁ仲間なんだから、悩みくらいは聞いてやりたいと思ってるぞ」
背の高いグレイが兄貴風を吹かしながら年上のトラヴァスを見る。ふむ、と一瞬考えたトラヴァスは、結局首肯した。
「アリシア筆頭に聞いてもらう前に、やはりグレイとアンナに言うべきだろう」
「なにをだ?」
「カールのことだ」
「カールの?」
首を傾げるグレイとは対照的に、アンナはハッと顔を引き締める。
「もしかして、あのこと? トラヴァスも聞いたの?」
「ああ。カールには俺の判断で筆頭大将に伝えるとは言ってある。そうすれば、アリシア筆頭から隊員に通達があるだろう。しかしその前に、アンナに伝えなければいけないことがあるのだ」
「なにかしら」
「ここでは、な……」
トラヴァスは目だけで周りを見て、他の隊員の警戒をする。
人目のつく場所では話せないと察したグレイは、アンナと目を合わせて頷き合った。
「じゃあ、うちにくればいい。どっかで食事を買って、家で食べながら話すぞ。それでいいな?」
「ああ、助かる」
そう決まると三人は食事を買って、アンナとグレイの家へと向かった。
テーブルに食事を広げ、祝宴のあとの時のように一緒に食事をとる。
ディックがちらりと様子を見に来たが、トラヴァスを見てすぐにどこかに行ってしまった。
「この間も黒猫を見たな。飼っているのか」
「ああ、ディックっていうんだ」
「俺はどうやら嫌われているらしい」
「気にするな、ちょっと警戒心が強いんだ、あいつは」
「お前はよく犬猫に懐かれているな。不思議なやつだ」
グレイの後ろにはよく犬猫がいたことを思い出し、トラヴァスはふっと笑った。
「王都では犬が来ることはあまりないけどな。どの家もリードをつけて飼っているし、野良犬もほとんどいない」
「その代わり、ロードワークに行くと追いかけてくる猫がどんどん増えてるわよ?」
そのうち王都中の猫を引き連れて行くのではないかと、アンナは眉を下げながらくすりと笑う。
「朝早いし、周りに迷惑はかけてないから大丈夫だろ」
「これだけ仕事しておいて、毎朝走ってるのか? よくやるな」
トラヴァスは無表情ながらも呆れたように息を吐いて、飲み物に手を伸ばす。
そんな世間話をし、食事を終えたところで、トラヴァスはようやく本題に入った。
「すまんな、話すのが遅くなった。食事をしながらでは、少し気が散ってな」
「いいわよ。気楽に話せるようなことではないと、わかってるわ」
理解を示したアンナにトラヴァスは頷く。
「アンナ、
「いいえ。カールの許可を得ていないから、言ってないの」
「そうか。では俺の口から言おう。アリシア筆頭に知らせれば、各隊員にも通達されることだ」
そうしてトラヴァスは、部屋を照らす蝋燭の灯りの中で話し始めた。
カールの家庭教師であったミカヴェル・グランディオルのことを。
彼を連れ去った、アスとジェイ、ティナという三人の兵士のことを。
すべてを聞き終えると、グレイは顎に手を当てて眉根を寄せる。
「以前、図書室でアンナが聞いた話はそれか……」
「ええ。あの時のカールはとにかく荒れていて、苦しそうだったわ」
「よりによって、敵国の参謀軍師だったとはな。あいつの優秀さの理由がわかった気がするが……最高傑作、最終兵器……か……」
その意味を考えたグレイは、やはり渋い顔を見せた。
仲間の一人が敵になる可能性など、考えたくもない。
「どう思う、グレイ」
「今はまだ、なんともだな。愛国心の強いあいつが、国を裏切るようなことをするとは思えない。かと言って、グランディオルがなにもしていないとも思えないしな……」
大事な仲間がそんな状況に置かれていて、三人はそれぞれに気持ちを落とした。
グレイは今まで隠されていた話を聞いて、眉を歪める。
「だがトラヴァス。いきなりどうしてこのことを筆頭に言おうと思った? 言えば、カールの家族の命はないと脅されてるんだろう?」
「それについては、俺なりに調べてみた。時間はかかったが、騎士の中にアスとジェイ、ティナと見られる人物は確認できなかったのだ。兵士関しては実力者を確認しただけだが、そちらも同様だった」
トラヴァスは手元の封書をトンと叩いてみせた。その調査結果を聞いて、ふむとグレイは唸る。
「なるほど。兵士や騎士に該当する人物はいなかったとすると、極秘任務は嘘か」
「ああ。そもそもストレイアの軍人ではないということになる。ならばアリシア筆頭に報告しても、カールやカールの家族の命が脅かされることはない」
「それで急にこの話になったのね」
首肯したトラヴァスは、一番大事なことを告げるため、まっすぐに二人の顔を見た。
「二人に頼みがある」
「なぁに?」
「なんだ?」
同じ反応を見せるアンナとグレイに、トラヴァスは続けた。
「俺はこの話を筆頭に報告するが、ミカヴェルがカールに対して言った〝最高傑作〟という部分を言うつもりはないのだ。これだけは、二人の心に仕舞っておいてくれないか。頼む」
その頼みに、大きく頷いたのはアンナである。
「もちろんよ。カールはミカヴェルに毒されてなんかいないわ。ストレイア王国の騎士になるために毎日頑張ってるんだもの。それを伝えて警戒されるのはかわいそうよ。ねぇ、グレイ」
同意を求めたアンナに、しかしグレイは顔を渋くする。
「カールはまっすぐで画策ができるようなタイプじゃない。だが、俺たちには判断がつかないぞ。カールを意のままに操れるなにかを、グランディオルが握っているのだとしたら……カールが最高傑作であることを筆頭に報告しないのは、この国に対しての裏切りとなる」
壁に掛けられてある燭台の火がちらちらと揺れて、グレイの影を動かした。
アンナは言葉を噤み、トラヴァスはじっとグレイを見つめる。
「グレイ。カールはずっと、努力してきた」
「ああ、知ってるさ」
「敵国の参謀軍師のせいで、あいつの未来を閉ざしたくはないのだ」
「俺だって同じだ。だが、そのせいでこの国が窮地に陥ったらどうする」
「……っ」
グレイの問いに、トラヴァスは言葉を詰まらせた。
可能性は低くても、ゼロではない。それはトラヴァスにもわかっていた。
だがそれでもトラヴァスは、大事な友人の未来を奪うような真似はできなかったのだ。
「……アリシア筆頭に報告するつもりか、グレイ……ッ」
底冷えのする怒りの瞳がトラヴァスから放たれる。二人ならばわかってくれると思い、軽率にグレイに話してしまったことを悔いた。
自分が蒔いてしまった種は自分でどうにかしなければならないと、トラヴァスはグレイを睨む。
アンナはぞくりと背筋を凍らせ、グレイは冷静にそんなトラヴァスを見た。
「落ち着け、トラヴァス。俺はなにも、筆頭に報告するとは言ってないぞ」
グレイの言い分にトラヴァスは眉を顰めて、怒りを落ち着かせる。
しかしどういうつもりかまだわからず、トラヴァスは次のグレイの言葉を待った。
「カールを信じているのは俺も同じだ。だがな、〝信じる〟なんていう手前勝手な感情で、国を危険に晒すわけにはいかない。なら俺たちの取るべき行動は、ふたつにひとつだ」
その言葉にトラヴァスはハッとし、アンナはグレイを見上げて首を捻る。
「ひとつはありのままを母さんに話すってことよね。じゃあ、もうひとつは?」
アンナの問いに、グレイはぐっと目を瞑り。
開いた時には、瞳に覚悟が宿っていた。
「カールの裏切りがわかった時は、俺たちのうちの誰かが、あいつを討つ」
「そんな……っ」
否定の言葉を口にしようとしたアンナは、しかしぐっと
ぎゅっと口を結んで、必死にその意味を飲み下そうと試みる。
グレイは意思のこもった強い目で、トラヴァスを睨むように顔を向けた。
「筆頭にこの事実を報告しないというのは、俺たちがストレイア王国を裏切っているということでもあるんだぞ」
正論を突きつけられたトラヴァスは、奥歯を噛みながらも思いを口にする。
「わかっている……だがカールは、この国を裏切ったりはなどしない」
「ならそれでいい。だが裏切るようなことがあれば、俺たちがあいつを粛清する必要がある。その覚悟がなければ、事実を隠蔽することは許されないぞ、トラヴァス!」
普段言葉を荒げることなどしないグレイが、真剣な顔でドンッとテーブルを叩く。
その言葉を受けて、トラヴァスもまた覚悟を決めた。
「わかった。もしもカールが裏切れば、俺がこの手でカールを斬ろう」
二人の決意に、アンナの胸がずぐんと痛む。
頭ではわかっていても、こんな誓いをしなければいけないことに、心はやりきれない。
「アンナ。これは秘密を知る者同士、一蓮托生だぞ」
グレイの覚悟の視線が、アンナを刺した。
「……ええ」
筆頭大将に報告しては、騎士になれたとしても出世は難しくなるだろう。騎士として採用されない可能性だってある。
ずっと騎士になるべく剣技を磨いてきたカールを思うと、未来を奪うような選択はできなかった。
それならば。カールは裏切らないと信じているのならば。
共に将を目指し。
彼より常に強くあり。
万が一の時は、己が手で彼を斬ると、アンナは覚悟を決める。
もとより、自分だけ手を汚さないなんて選択をするつもりはない。
その決心をして、アンナはようやく口を開いた。
「カールがストレイアを裏切った時には……必ず斬る。それが事実を隠蔽する、私たちの責任よ」
グレイは頷き、もう一度トラヴァスへと顔を向ける。
「アンナにここまで覚悟をさせたのは、お前だトラヴァス。覚えておけよ」
「ああ。二人を巻き込んだのは俺だ。アリシア筆頭に黙っていてくれること……感謝する」
三人は、何事もないことを願いながら。
それでも、もしもの時にはカールを自分たちの手で粛清すると心に決めて。
それぞれが苦しい思いを抱きながら、トラヴァスは暗い夜道を一人帰っていった。
残された空気の中で、グレイとアンナはぎゅっと手を繋ぐ。
「トラヴァスの手前、ああは言ったが……アンナは手を下さなくていい。もしもの時は、俺がカールを……」
グレイがカールを弟のように大切に思っていることは、アンナもわかっている。
そんな存在に手を掛ける覚悟をすることが、どれだけ苦しいかも。
「そんなこと言わなくていいのよ、グレイ。誰が手を掛けるかなんて……その時の状況次第だもの。大丈夫、カールは私たちを裏切ったりなんかしない。きっと杞憂に終わるわ」
「……ああ。俺もそう信じてる。あいつに限って、な……」
それでもグレイの顔は晴れず。
ディックが二階から降りてきてグレイの肩に乗ると、ようやく緊張していた顔の強張りが解けたのだった。
カールは裏切らない。
三人の心は、そんな願いと祈りで満たされていた。