目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

66.今日からずっと、同じ家に

 王都ラルシアルに着くと、一緒に乗っていた仲間のほとんどが宿舎へと入っていった。

 王都は家賃も高く、借りられたとしても王宮の近辺はまず無理だ。

 だからトラヴァスも、実家は王都にあるが出勤するのに遠いからと宿舎に入っている。

 よって、基本的に独身の騎士は宿舎に入ることが多いのだが、将になると王宮に一室が与えられて、そこで暮らすことも可能となる。しかし家族で住むことはできないので、結婚している将で王宮に暮らす者はいなかった。

 現在王宮に住んでいる将は、アリシアの他には二名だけである。


「さて……今日から本当にここが〝我が家〟になるんだな」


 肩からディックを下ろしたグレイは、改めて家を見上げた。

 ディックは周囲を警戒するように低姿勢で床を這うように動き始める。耳をピンと立て、聞き慣れない音や気配を探るようにあたりを見回し、その目にはわずかな不安と興味が混じっていた。

 家具や壁の隅を慎重に嗅ぎながら、行動範囲を広げていく。


「ここが家だとわかれば、散歩に行っても戻ってくる。二、三日様子を見て、大丈夫そうなら二階の小窓はこいつの出入り口にしてやろう」

「そうね。私たちもいるし、入軍までは時間もあるからそれまでに慣れるでしょう」


 ディックはあちこちを確かめながら、二階の方へと上がっていった。

 その姿を見送ってから、アンナは誰に遠慮することもなく、グレイを後ろから抱きしめる。


「アンナ?」

「ふふ。今日からずっと、同じ家に暮らせるのね……嬉しい」


 その喜びは、グレイも同じだ。グレイはアンナは以上に寮住まいを我慢していた。色々と。


「ああ、ようやく……だな。こうなるとすぐにでも結婚したくなるが……」

「早く将になれるよう、頑張るわ」

「俺も先を越されないように頑張らないとな」


 グレイは振り向きながら言うと、アンナの額に口づけを落とした。

 二人一緒にこの家で過ごせる幸せが溢れ出るように、体は痺れていく。

 その喜びを享受して、アンナはグレイを抱きしめながら、騎士となる四月に思考を巡らせた。


「私たちはどこに入隊することになるかしらね」

「トラヴァスは第三軍団のデゴラ様のところだったか。あいつはいいところに配属してもらえたよな」


 グレイはの言葉に、アンナは確かにと頷く。


「最年長の将だものね。ストレイア王国は実力主義だから降格もよくある中で、ずっと将に君臨している方だもの。そんな将の元で働けるのは、羨ましいわよね」

「それを言えば、筆頭もそうだけどな」

「二十三歳で将になって、二十七歳からずっと筆頭大将だものね。我が母親ながら、びっくりしちゃうわ」

「まぁ俺は、筆頭を超えてみせるけどな」

「あら奇遇ね。私もよ」


 アンナがグレイの腕の中で不敵に笑うと、グレイもニヤッと口元を上げる。


「将の椅子はいくつもあれど、筆頭大将はひとつしかないからな」

「どちらかしかなれないわね。ふふ、私がいつまでも二番手に甘んじていると思ったら、大間違いよグレイ」

「はは。いつでも受けて立つぞ。俺も……超えなければいけないからな」


 超えられるのかという不安を打ち消して、グレイは言った。

 同じ年、同じ月に生まれた、あの男に。

 グレイはアリシアを超える気満々なのだと受け取ったアンナは、にっこりと笑顔を見せる。


「トラヴァスもいるし、一年後にはカールもやってくるわ。今いる将を追い抜く勢いで、頑張りましょう!」

「ああ、そうだな。でもその前に……」

「きゃっ!?」


 アンナを抱き上げたグレイは、自分の部屋へと運んでいく。


「ちょっと、グレイ!?」

「入軍まで、二週間近くもあるんだ。こんなに長い休暇は今後そうないぞ。楽しまないとな」


 グレイの言い草に、アンナは呆れて声を出す。


「その時間は、入軍までの準備期間よ?」

「俺たちはこの家があるから、引っ越しの荷解きも新生活の買い出しもほとんど必要ないだろ?」

「そうだけど……ん、もう。……元気なんだから」


 ベッドの上に下ろされ、口付けられたアンナは。

 にゃあと鳴く声にびくりとして、グレイと苦笑した。


 こうして、アンナとグレイの新生活は始まった。


 ディックはすぐに家に慣れた様子で、三日目に二階の小窓を開けると、そこから自由に出入りするようになった。

 ちゃんと戻ってくるだろうかと心配したが、問題なく家を出入りしている。

 食事をあげようとすると食べないこともあり、「多分どっかで餌を獲って食ってるんだろうな」と笑っていた。

 面倒を見ると決めているグレイだが、そういうところには寛容で自由にさせている。


「まぁ、猫はこれだから助かる。俺たちが遠征に行っても、ディックは平気だろ」

「そうね。犬じゃこうはいかないものね」


 そう言ってグレイとアンナは、ブランとノワールを思い出した。

 グレイは昔から犬が好きで、アンナも犬を飼うことに憧れを抱いている。

 犬と戯れたい、という感情がありつつも、現状ではどうしようもないことだ。


「そう言えばディックって、ブランとノワールに懐いてたわよね。他の犬にもそうなの? 王都には犬を飼ってる人も多いから、無闇に近寄ったりしないか心配だわ」


 不安を口にするアンナに、グレイは笑った。


「問題ない。ディックは、ブランとノワールに育てられたみたいなもんだからな。あいつらだけは特別なんだ」

「そうなの?」

「ああ。俺がオルト軍学校に行く少し前の話なんだが……」


 そう言って、グレイはディックとの出会いを語り始めた。



 ***



 孤児院でいる時、子猫だったディックに会ってな。親猫とはぐれたのか、誰かに捨てられたのか、一匹でみゃーみゃー鳴いてたんだ。

 ……ほっとけなくてな。

 自分で責任を取ると言って、無理言って孤児院に連れて帰った。

 けど俺は、ほどなくしてオルト軍学校の寮に入らなきゃいけなかったからな。

 院長じじいが面倒を見るから置いていけと言ってくれたんだが、ディックは俺の肩から絶対に離れようとしなかった。無理に引き離すと大泣きしてな。

 じじいにこれ以上負担を掛けるわけにもいかなかったし、どこかで隠れて飼おうと決めて、オルト軍学校に連れていったんだ。


 ああ、余分な金なんてなかったから、王都から荷物を持ってずっと歩きだぞ。

 馬車に乗る金なんてあったら、孤児院のチビたちに食い物を買ってやりたかったからな。まぁそんな金は持ち合わせてなかったんだが。猫用のミルクを買わないといけなかったしな。

 そうだな、食事休憩を含めて十時間以上掛かったか。オルトに近づくに連れて、俺の後ろを歩く犬が増えていくんだ。

 テリトリー外になると離れていく犬が大半だったが。

 オルト軍学校が見えたあたりで、ディックにミルクをやろうと腰を下ろした。隊舎や寮でこっそりやれるかわからなかったからな。

 ディックにミルクをやっていると、ブランとノワールが覗き込んできた。一応警戒はしたんだが、攻撃するそぶりはなくてな。それどころか、ぺろぺろとディックを舐め始めたんだ。

 不思議なのはここからで、ブランから母乳が出始めた。それこそ、溢れる勢いでな。

 オルト軍学校では猫用ミルクを用意できないから、離乳しなきゃいけないと思っていたんだが。試しにディックに見せてみると、飲み始めた。

 それから、ちょくちょくブランに世話になってな。そばには必ずノワールもいた。

 同室のコナーが黙ってくれたのをいいことに、朝と夜に河川敷に行ってブランに乳を飲ませてもらってた。

 ああ、しばらくは部屋で飼ってたんだ。少し大きくなると自由に散歩もできるようになってな。猫は一匹で小動物を狩って生きていける生き物だし、最初のうちは餌をやっていたが、それも必要ないくらいわんぱくに育った。

 ディックを気にかけてくれた、ブランとノワールのおかげだ。



 ***


 話が一区切りついたところで、グレイはアンナを見てふっと笑った。


「そういうわけでな。ブランたちの群れは全部で八匹いたが、ディックが懐いたのはブランとノワールだけなんだ。他の犬がいる時、ディックは警戒して出てこなかった」


 それを聞いて、アンナはほっと息を漏らす。


「そんな事情があったのね。ディックがどんな犬にも擦り寄って行くわけじゃないってわかって、ほっとしたわ」

「ディックは結構警戒心が強い方だぞ。基本的には俺にしか懐かない」

「そうね。私もようやく少し触らせてもらえるようになったけれど。あ、でもスヴェンには懐いてたんじゃない?」


 アンナは二年以上前のことを思い出してそう言った。

 まだアンナが偽装の付き合いだと思っていた時のことだ。

 帰り道にディックが現れて着いていくと、そこには美少年が行き倒れていた。

 スヴェンと名乗り、サエスエル国の奴隷だという彼に、ディックは平気で撫でられていたことを思い出す。


「確かに、あの時は不思議に思ってたんだ。あいつもそういう特性か、異能持ちだったのかもな」

「動物と仲良くなれる異能の書なんて、あるの?」

「さぁな、知らないが。俺のような特性持ちもいるんだ。書があってもなんらおかしくはないだろ?」

「そうね。そんな書があったら、習得してみたいわ」


 動物に囲まれる自分を想像したアンナはふふっと笑い、異能持ちかもしれない少年に思いを馳せた。

 結局アンナとグレイは、彼を強制送還させることなく見逃している。


「そういえば、スヴェンはヤウト村に行ったのよね。元気にやっているかしら」

「どうだろうな。あそこはよく紛争地になるから心配ではあるが……あいつが行った頃からはなにもないし、上手くやっているんじゃないのか?」

「だといいんだけれど」


 そんな話をしていると、ディックが二階から降りてきた。

 散歩は終わったようで、グレイの肩にぴょぴょんと登っていく。


「帰ったか、ディック」

「おかえりなさい。散歩は楽しかった?」


 ディックは返事をするようににゃぁんと鳴いて。

 二人と一匹は入軍までのゆったりとした、幸せな時間を過ごしたのだった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?