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60.私はもう、小さな子どもじゃないのよ

 朝、アンナはお腹が空いて目を覚ました。

 隣にはいつものようにグレイがいて、そっと頬に唇を寄せる。


「ん……朝か……」

「おはよう、グレイ。私、お腹すいちゃった」

「ああ、そうだな。俺もだ。昨日は、負けちまったからな」

「負けたって、なにに?」


 小首を傾げるアンナ。性欲に、とは言えないグレイである。


「まぁ、アンナのかわいさにだ」

「もう、グレイったらそんなこと言って」

「ん? 本当のことだぞ」


 グレイはベッドを降りて服を着替え始める。グレイの引き締まった背中をドキドキと見て、アンナもまた、ベッドの中でもぞもぞと隠れながら着替えた。

 着替え終えたグレイはアンナを目の端で捉えながら、昨日のことを思い返す。あまりにかわいすぎた、アルコールを飲んだ恋人の上目遣いを。


「酒を飲むなとは言わないが、アンナは俺のいないところでの三杯目は禁止だな」

「私、そんなに酒癖悪かった?」

「……イイから困る」

「え?」

「いいから食うぞって言ったんだ。昨日残したやつを食べてしまわないとな」


 グレイはそう言って誤魔化すと、朝から重い食事をして、二人はいつものように年末を過ごすのだった。


 年が明けるとアリシアとジャンがやってきて、四人で一緒に新年を祝う。

 グレイは残りのワインを皆で少しずつ分けて、乾杯をした。


「あなたたちももうこんな年なのね。一緒にお酒を飲める日が来るなんて、成長したわねぇ」


 そう言ってアリシアはくいっとグラスを空ける。ジャンも色っぽい仕草で微笑を浮かべながら、ワインを唇に運んだ。


「あら、いいものを買ったわね。美味しいわ」

「筆頭の口に合ったなら、よかったです」


 アリシアは空になった瓶を名残惜しそうに見て、グラスを置く。


「母さんって家じゃ呑まないけど、外では呑むんでしょう?」

「部下を労う意味でも、たまにね。でも上司がいない方が気楽に呑めるでしょうから、早々に退散しちゃうわ」


 手をひらひらと動かして退散を表現するアリシアに、部下のジャンが目を向けた。


「俺たちに遠慮する必要はないから。ただフラッシュに付き合ってると帰れなくなるから、筆頭が早目に帰るのを誰も止めないだけだ」


 その説明にアリシアは「あはは! なるほどね!」と大きな口を開けて笑う。

 母親の楽しそうな顔を見たアンナは、むうっと唇を曲げた。


「やっぱり働き始めると、呑める方がいいの?」

「人それぞれよ、呑まない人はいくらでもいるわ。でも親睦を深めるにはいい交流の手段にはなるわよ」

「私にできるかしら……」

「食事だけでもいいし、他の手段でもいいのよ。真面目に考えすぎないことね! みんなが楽しく過ごせれば、それでいいんだから」


 アリシアの言葉に、それでもアンナは「私にはなにができるかしら」と悩む。そんな娘の姿を見てアリシアは少し呆れ、グレイはアンナらしいと笑みを漏らした。

 ジャンは真面目なアンナに、兄のような視線を送る。


「あんまり今から気にしなくてもいいんじゃない。アンナにはグレイがいるし、仲間もいるだろ。悩んだ時にはその都度相談していていけばいい」

「そうね、アンナは一人で思い悩むところがあるから、仲間に頼りなさいな」

「ジャン、母さん……」


 アリシアの言葉を受けて、グレイが任せろと胸を張る。そんな頼もしい恋人の姿を見たアンナは、なにもかも頼ってしまうことを情けなく思いながらも、首を縦に振る。


「ええ、わかった。悩むことがあったら、みんなに頼ることにするわ」

「それがいいわね」


 アンナが実際にどれだけ人に頼れるようになるのかは、わからないところではあったが。それでもアリシアは、娘がそう宣言したことに少し安心することができた。


「ふふ、じゃあそんなアンナに、素敵な天使様のお話をしてあげましょう!」

「もう、母さんったら。私はもう、小さな子どもじゃないのよ」

「俺はちょっと聞いてみたいな。その天使様とやらが、どんな存在なのか」


 グレイの言葉に、目をキラキラとさせるアリシアである。

 アンナは耳にタコができるほど聞いているが、グレイはそんな話に触れることなく生きてきたのだろうと思うと、アンナは反対できなかった。


「じゃあ、話してあげるわ! そうね、どれから話そうかしら?」


 この手の話になると長くなるとわかっているアンナは、少し辟易し。それでも久々に聞く母の話に耳を傾けた。



 ***



 この世にはね、幸せの神様と、神様に仕える天使様がいらっしゃるのよ。

 幸せの神様は、なにより笑顔が大好きなの。天使様の集めた笑顔は、神様が奇跡に変えてくださるわ。

 もちろん、そんなに簡単に奇跡は起こらない。

 たくさん、たーーくさんの笑顔を集める必要があるの。

 溜め息をひとつ吐くとね、天使様は逃げていっちゃうわ。

 だから溜め息をついた時ほど、笑顔を見せて天使様に来ていただくのよ。


 天使様は笑顔をいっぱい集めて、幸せの神様の元へ届けるの。

 神様はその笑顔で奇跡をお作りになって、この世界へと還元してくれる。

 それはほんの小さな奇跡かもしれないし、信じられないくらいの素晴らしい奇跡かもしれない。


 こんな話があるわ。

 ラストア地方北部でのことよ。


 ある年の冬、例年になく厳しい雪に閉ざされた村は孤立して、人々は不安の中で日々を過ごさなければならなかった。

 でも村人はみんなで集まり励まし合って、笑顔で神様に祈りを捧げていたのよ。

 食料を分け合い、助け合って生きていると、村に一人の男がやってきたわ。

 魔物にやられたのか傷を負って、凍えていた男を、村人たちは介抱した。

 誰一人不満を言わずに、笑顔で余所者だったその男に食料を分け与えてあげたの。

 男はみるみるうちに回復して、食糧難の村人のために、雪の中へ動物を狩りに行ったわ。

 けれど男は、狼たちに囲まれてしまった。

 殺されてしまう──男がそう思った時、幸せの神様は奇跡をお与えになったわ。

 狼たちは、男に従い始めたのよ。そう、男は狼を使役できるようになっていたの。

 男が命令すれば、狼は鹿やウサギを捕ってきた。男はそれを持ち帰って、村に恩返しをしたの。

 村人たちは幸せの神様が起こした奇跡だと喜び、飢えることなく冬を越すことができた。

 神様を信じて笑顔で過ごしていれば、幸せの神様は奇跡をお与えくださるのよ。


 他にはそうね、アルバの日の話を……もういいだなんて言わないでちょうだい。

 これ、いい話なのよ。


 アルバの日は知ってるかしら?

 そう、三月十四日にある、祝日でもなんでもない日なんだけど。

 最近は〝セントスカーレットデイ〟なんてのが流行ってて、そのお返しの日にされちゃってるみたいね。


 これはね、一組の夫婦の話よ。

 その夫婦はね、妻の方が病気を抱えていたわ。だから新婚旅行どころか、町をデートすることもできなかったの。

 とっても貧しくて、食うや食わずの生活をしていたけど、腐ることもなく、日々の感謝を捧げて仲睦まじく笑顔で暮らしていたわ。

 だけど元々体の弱かった妻の病状が急変して、生死の境を彷徨うことになってしまったの。

 男は妻をなんとか助けようと、あちこちから医者を呼ぶんだけど、どの医者も余命わずかだとしか言わなかった。

 でも、男は絶望しなかったわ。わずかな可能性を信じて、伝説の薬草を探しに行くの。

 けど山は雪に覆われていて、薬草なんて見つけられない。

 何日も足が棒になるほど探し続けて、迎えた三月十四日の朝。

 一箇所だけ、雪が綺麗に溶けていたんですって。

 そこにあったのが……そう、薬草よ!! すごいでしょ!?

 必要な薬草のところだけ、雪が溶けていたのよ! すごい奇跡よね!!


 男はそれを持ち帰り、妻に煎じて飲ませるとあーら不思議!

 みるみる妻の病気が治っちゃったという話よ!

 そうして二人は、初めてデートらしいデートができるようになったんですって。

 いい話でしょう?


 〝アルバ〟っていうのは、夜明けや光、始まりを現す言葉なのよね。

 二人にとっては、薬草を見つけた日がスタートだったんだわ。

 奇跡が起こった三月十四日を、〝アルバの日〟と言われるようになったの。

 だからアルバの日は、そんな二人にちなんでデートをする日になったのよ。最近じゃ、意味が変わってきてるけどね。

 これがアルバの日に起こった、幸せの神様の奇跡の話よ。




 さぁ、まだまだあるわよ!

 もういいだなんて言わないで聞いてちょうだい! あと一つだけにするから! 本当だったら!

 ふふ、ありがとう。二人は優しいわね。

 これはとっておきよ。


 ある町に、素晴らしい歌声を持つ少女がいたの。

 とても優しい子で、その歌と人柄で、みんなを笑顔にしていたわ。

 けどある日、彼女は風邪を拗らせてしまったの。治りはしたんだけど、彼女は声を失ってしまったわ。

 彼女は毎週日曜日にある朝の祈りの儀式で、聖歌を歌う役目を担っていたんだけど、それができなくなってしまったの。

 少女は必死に声を出そうと試みるんだけど、どうしても出すことができない。

 それでも人々ために、声を出せなくても、祈りの儀式に出て笑顔を見せ続けた。いつか、声が戻ることを信じて。

 そんな少女のもとに、一羽の白い鳥が現れたの。

 鳥は彼女の肩にとまり、小さなさえずりで彼女を慰めるように歌った。

 その夜、夢の中で天使が現れ、「あなたの声は夜明けと共に戻るだろう」とお告げがされたわ。

 そして奇跡は起きた。少女の声が戻ったのよ。

 彼女は再び歌うことができるようになり、人々を笑顔にさせ続けたの。


 ふふ。この三つのお話はね、私の母さん……つまりアンナのおばあちゃんが特に好きだった話なのよ。

 よく、母さんは言ってたわ。


『絶望している人のところに、奇跡は起きないわ。希望は持ち続けるの。

 自分に恥ずかしくない生き方をしていれば、奇跡はいつか必ず起こるのよ』


 そう言ってね。

 母さんは最後まで……その死の瞬間まで、幸せの神様と天使様を信じていたと思う。

 そして、母さんも奇跡を起こしたと、私は信じているの。

 母さんは火事の中、一人で逝くところだった。そこに父さんが現れたのよ。

 最期に会いたいと思っていた人に会えて、母さんにとっては奇跡だったんじゃないかしら。


 どんな形で奇跡が起こるのかなんて、わからないわ。

 けどね、絶望している人のところに奇跡は起きない。これは間違いのない話だって、私は思ってる。

 あなたたちも、希望は持ち続けなさい。

 自分に恥ずかしくない生き方をしていれば、奇跡はいつか必ず起こるのよ。

 よーく、覚えていらっしゃいな。


 さて、長い話は終わりよ!

 面白かったでしょう?

 んもう、アンナったらそんなことばかり言って。

 さぁ、もう夜も更けてきたわ。お風呂に入って寝ちゃいましょうか。

 幸せの神様と天使様に、感謝の祈りと笑顔をお見せすることを忘れないようにね!


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