朝、アンナはお腹が空いて目を覚ました。
隣にはいつものようにグレイがいて、そっと頬に唇を寄せる。
「ん……朝か……」
「おはよう、グレイ。私、お腹すいちゃった」
「ああ、そうだな。俺もだ。昨日は、負けちまったからな」
「負けたって、なにに?」
小首を傾げるアンナ。性欲に、とは言えないグレイである。
「まぁ、アンナのかわいさにだ」
「もう、グレイったらそんなこと言って」
「ん? 本当のことだぞ」
グレイはベッドを降りて服を着替え始める。グレイの引き締まった背中をドキドキと見て、アンナもまた、ベッドの中でもぞもぞと隠れながら着替えた。
着替え終えたグレイはアンナを目の端で捉えながら、昨日のことを思い返す。あまりにかわいすぎた、アルコールを飲んだ恋人の上目遣いを。
「酒を飲むなとは言わないが、アンナは俺のいないところでの三杯目は禁止だな」
「私、そんなに酒癖悪かった?」
「……イイから困る」
「え?」
「いいから食うぞって言ったんだ。昨日残したやつを食べてしまわないとな」
グレイはそう言って誤魔化すと、朝から重い食事をして、二人はいつものように年末を過ごすのだった。
年が明けるとアリシアとジャンがやってきて、四人で一緒に新年を祝う。
グレイは残りのワインを皆で少しずつ分けて、乾杯をした。
「あなたたちももうこんな年なのね。一緒にお酒を飲める日が来るなんて、成長したわねぇ」
そう言ってアリシアはくいっとグラスを空ける。ジャンも色っぽい仕草で微笑を浮かべながら、ワインを唇に運んだ。
「あら、いいものを買ったわね。美味しいわ」
「筆頭の口に合ったなら、よかったです」
アリシアは空になった瓶を名残惜しそうに見て、グラスを置く。
「母さんって家じゃ呑まないけど、外では呑むんでしょう?」
「部下を労う意味でも、たまにね。でも上司がいない方が気楽に呑めるでしょうから、早々に退散しちゃうわ」
手をひらひらと動かして退散を表現するアリシアに、部下のジャンが目を向けた。
「俺たちに遠慮する必要はないから。ただフラッシュに付き合ってると帰れなくなるから、筆頭が早目に帰るのを誰も止めないだけだ」
その説明にアリシアは「あはは! なるほどね!」と大きな口を開けて笑う。
母親の楽しそうな顔を見たアンナは、むうっと唇を曲げた。
「やっぱり働き始めると、呑める方がいいの?」
「人それぞれよ、呑まない人はいくらでもいるわ。でも親睦を深めるにはいい交流の手段にはなるわよ」
「私にできるかしら……」
「食事だけでもいいし、他の手段でもいいのよ。真面目に考えすぎないことね! みんなが楽しく過ごせれば、それでいいんだから」
アリシアの言葉に、それでもアンナは「私にはなにができるかしら」と悩む。そんな娘の姿を見てアリシアは少し呆れ、グレイはアンナらしいと笑みを漏らした。
ジャンは真面目なアンナに、兄のような視線を送る。
「あんまり今から気にしなくてもいいんじゃない。アンナにはグレイがいるし、仲間もいるだろ。悩んだ時にはその都度相談していていけばいい」
「そうね、アンナは一人で思い悩むところがあるから、仲間に頼りなさいな」
「ジャン、母さん……」
アリシアの言葉を受けて、グレイが任せろと胸を張る。そんな頼もしい恋人の姿を見たアンナは、なにもかも頼ってしまうことを情けなく思いながらも、首を縦に振る。
「ええ、わかった。悩むことがあったら、みんなに頼ることにするわ」
「それがいいわね」
アンナが実際にどれだけ人に頼れるようになるのかは、わからないところではあったが。それでもアリシアは、娘がそう宣言したことに少し安心することができた。
「ふふ、じゃあそんなアンナに、素敵な天使様のお話をしてあげましょう!」
「もう、母さんったら。私はもう、小さな子どもじゃないのよ」
「俺はちょっと聞いてみたいな。その天使様とやらが、どんな存在なのか」
グレイの言葉に、目をキラキラとさせるアリシアである。
アンナは耳にタコができるほど聞いているが、グレイはそんな話に触れることなく生きてきたのだろうと思うと、アンナは反対できなかった。
「じゃあ、話してあげるわ! そうね、どれから話そうかしら?」
この手の話になると長くなるとわかっているアンナは、少し辟易し。それでも久々に聞く母の話に耳を傾けた。
***
この世にはね、幸せの神様と、神様に仕える天使様がいらっしゃるのよ。
幸せの神様は、なにより笑顔が大好きなの。天使様の集めた笑顔は、神様が奇跡に変えてくださるわ。
もちろん、そんなに簡単に奇跡は起こらない。
たくさん、たーーくさんの笑顔を集める必要があるの。
溜め息をひとつ吐くとね、天使様は逃げていっちゃうわ。
だから溜め息をついた時ほど、笑顔を見せて天使様に来ていただくのよ。
天使様は笑顔をいっぱい集めて、幸せの神様の元へ届けるの。
神様はその笑顔で奇跡をお作りになって、この世界へと還元してくれる。
それはほんの小さな奇跡かもしれないし、信じられないくらいの素晴らしい奇跡かもしれない。
こんな話があるわ。
ラストア地方北部でのことよ。
ある年の冬、例年になく厳しい雪に閉ざされた村は孤立して、人々は不安の中で日々を過ごさなければならなかった。
でも村人はみんなで集まり励まし合って、笑顔で神様に祈りを捧げていたのよ。
食料を分け合い、助け合って生きていると、村に一人の男がやってきたわ。
魔物にやられたのか傷を負って、凍えていた男を、村人たちは介抱した。
誰一人不満を言わずに、笑顔で余所者だったその男に食料を分け与えてあげたの。
男はみるみるうちに回復して、食糧難の村人のために、雪の中へ動物を狩りに行ったわ。
けれど男は、狼たちに囲まれてしまった。
殺されてしまう──男がそう思った時、幸せの神様は奇跡をお与えになったわ。
狼たちは、男に従い始めたのよ。そう、男は狼を使役できるようになっていたの。
男が命令すれば、狼は鹿やウサギを捕ってきた。男はそれを持ち帰って、村に恩返しをしたの。
村人たちは幸せの神様が起こした奇跡だと喜び、飢えることなく冬を越すことができた。
神様を信じて笑顔で過ごしていれば、幸せの神様は奇跡をお与えくださるのよ。
他にはそうね、アルバの日の話を……もういいだなんて言わないでちょうだい。
これ、いい話なのよ。
アルバの日は知ってるかしら?
そう、三月十四日にある、祝日でもなんでもない日なんだけど。
最近は〝
これはね、一組の夫婦の話よ。
その夫婦はね、妻の方が病気を抱えていたわ。だから新婚旅行どころか、町をデートすることもできなかったの。
とっても貧しくて、食うや食わずの生活をしていたけど、腐ることもなく、日々の感謝を捧げて仲睦まじく笑顔で暮らしていたわ。
だけど元々体の弱かった妻の病状が急変して、生死の境を彷徨うことになってしまったの。
男は妻をなんとか助けようと、あちこちから医者を呼ぶんだけど、どの医者も余命わずかだとしか言わなかった。
でも、男は絶望しなかったわ。わずかな可能性を信じて、伝説の薬草を探しに行くの。
けど山は雪に覆われていて、薬草なんて見つけられない。
何日も足が棒になるほど探し続けて、迎えた三月十四日の朝。
一箇所だけ、雪が綺麗に溶けていたんですって。
そこにあったのが……そう、薬草よ!! すごいでしょ!?
必要な薬草のところだけ、雪が溶けていたのよ! すごい奇跡よね!!
男はそれを持ち帰り、妻に煎じて飲ませるとあーら不思議!
みるみる妻の病気が治っちゃったという話よ!
そうして二人は、初めてデートらしいデートができるようになったんですって。
いい話でしょう?
〝アルバ〟っていうのは、夜明けや光、始まりを現す言葉なのよね。
二人にとっては、薬草を見つけた日がスタートだったんだわ。
奇跡が起こった三月十四日を、〝アルバの日〟と言われるようになったの。
だからアルバの日は、そんな二人にちなんでデートをする日になったのよ。最近じゃ、意味が変わってきてるけどね。
これがアルバの日に起こった、幸せの神様の奇跡の話よ。
さぁ、まだまだあるわよ!
もういいだなんて言わないで聞いてちょうだい! あと一つだけにするから! 本当だったら!
ふふ、ありがとう。二人は優しいわね。
これはとっておきよ。
ある町に、素晴らしい歌声を持つ少女がいたの。
とても優しい子で、その歌と人柄で、みんなを笑顔にしていたわ。
けどある日、彼女は風邪を拗らせてしまったの。治りはしたんだけど、彼女は声を失ってしまったわ。
彼女は毎週日曜日にある朝の祈りの儀式で、聖歌を歌う役目を担っていたんだけど、それができなくなってしまったの。
少女は必死に声を出そうと試みるんだけど、どうしても出すことができない。
それでも人々ために、声を出せなくても、祈りの儀式に出て笑顔を見せ続けた。いつか、声が戻ることを信じて。
そんな少女のもとに、一羽の白い鳥が現れたの。
鳥は彼女の肩にとまり、小さなさえずりで彼女を慰めるように歌った。
その夜、夢の中で天使が現れ、「あなたの声は夜明けと共に戻るだろう」とお告げがされたわ。
そして奇跡は起きた。少女の声が戻ったのよ。
彼女は再び歌うことができるようになり、人々を笑顔にさせ続けたの。
ふふ。この三つのお話はね、私の母さん……つまりアンナのおばあちゃんが特に好きだった話なのよ。
よく、母さんは言ってたわ。
『絶望している人のところに、奇跡は起きないわ。希望は持ち続けるの。
自分に恥ずかしくない生き方をしていれば、奇跡はいつか必ず起こるのよ』
そう言ってね。
母さんは最後まで……その死の瞬間まで、幸せの神様と天使様を信じていたと思う。
そして、母さんも奇跡を起こしたと、私は信じているの。
母さんは火事の中、一人で逝くところだった。そこに父さんが現れたのよ。
最期に会いたいと思っていた人に会えて、母さんにとっては奇跡だったんじゃないかしら。
どんな形で奇跡が起こるのかなんて、わからないわ。
けどね、絶望している人のところに奇跡は起きない。これは間違いのない話だって、私は思ってる。
あなたたちも、希望は持ち続けなさい。
自分に恥ずかしくない生き方をしていれば、奇跡はいつか必ず起こるのよ。
よーく、覚えていらっしゃいな。
さて、長い話は終わりよ!
面白かったでしょう?
んもう、アンナったらそんなことばかり言って。
さぁ、もう夜も更けてきたわ。お風呂に入って寝ちゃいましょうか。
幸せの神様と天使様に、感謝の祈りと笑顔をお見せすることを忘れないようにね!