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30.私はどうしたらいい!?

 ルナリア逝去のニュースは、オルト軍学校にも届いていた。

 朝の全体演習の前に、教官から軍学校の隊員全員に告げられたのだ。

 皆一様にショックを受けていたが、とりわけアンナのショックは大きかった。

 この軍学校でルナリアと交流があったのは、アンナ一人だけである。


(ルナリア様が……どうして……!)


 アンナが最後にルナリアに会ったのは、もう六年以上も前のことだった。

 毎週末のようにアンナは王家の森別荘であるハナイに行き、そこで五歳から六歳の間暮らしていたルナリアに懐かれていたのである。

 ルナリアが王都に戻ってからは交流はなくなってしまっていたが。それでも『アンナ、アンナ!』と舌足らずな声で駆け寄ってきて、満面の笑みを見せるルナリアを、アンナはシウリスと一緒にかわいがっていた。


(あんなことがなければ……今も交流は続いていたのかしら……)


 アンナは思い出す。

 シウリスと共に育った日々のことを。



 アンナが産まれた当時、将だったアリシアは、仕事に復帰するためにアンナをどうするか悩んでいたと聞いている。

 ちょうどアンナが生まれる一ヶ月前、第一王妃であるマーディア・リーン・バルフォアが第二王子シウリスを出産し、生家であるリーン家に戻ってきていた。

 アンナの家とリーン家は、ほど近いところにあり、面倒を見ることを買って出てくれたのだった。

 おそらくマーディアは、リーン派を増やしたいだけだったのだろうとアリシアは後に語っている。結局、アリシアはリーン派というわけでもないのだが。

 こうしてアンナは、生まれて三ヶ月もしないうちにマーディアの生家でシウリスと共に育てられることになった。

 なので、アンナは物心がついた時には、リーン家に出入りしていたのである。


 三歳になった時、アンナはアリシアに子ども用の模擬剣を渡され、遊び感覚で剣術を覚えた。

 シウリスもやりたいと言い出して共に習い、アリシアがいない時は自分たちで遊びながら剣術の腕を磨いていった。

 夜には仕事を終えたアリシアが毎日迎えに来てくれたのだが、別れ際には決まってシウリスの機嫌が悪くなる。


『もうかえるの、アンナ。どうせあしたもくるんだから、とまっていけばいいのに』


 ぷくっと頬を膨らませるシウリスの顔が可愛かったのを、アンナは今も覚えている。


『シウリスさま、またあした!』

『やくそくだからね』

『はい!』


 その約束は、毎日のように交わされる儀式のようなものだった。


 もちろんシウリスは王族のため、月に何度か王宮に行かなければならない。その間もアンナはリーン家でお世話になっていたが、シウリスのいない家はつまらなかった。


『アンナ、ぼくがいないあいだ、さみしかっただろ?』

『はい。シウリスさまがいないと、アンナはさみしいです』


 母親には絶対に言わなかった寂しいという言葉も、シウリスの前でだけなら言えた。寂しいと言うと、シウリスは満足といった顔で嬉しそうに笑うからであったが。

 けれどアンナが寂しかったのは本心で。唯一、本当の気持ちを告げられる相手でもあった。


 シウリスは四歳から王宮に住む予定だったのだが、本人の盛大なわがままにより、マーディアの生家であるリーン家を主体に暮らしていた。

 シウリス自身がアンナと一緒にいたい気持ちはあっただろうが、アンナを一人にはさせたくないという気持ちもあったに違いない。


『なにもしんぱいするひつようはないからね、アンナ。ぼくがずっとそばにいる!』

『ありがとうございます、シウリスさま。ずっとアンナのそばにいてください』


 当時のアンナにとって、あれほど頼もしい言葉はなかった。

 母であるアリシアは、仕事の日は夜寝る前に少し会うだけだ。リーン家の人々はアンナのことを厳しくも優しく接してくれていたが、家族というよりただのお世話係に過ぎなかった。

 マーディアも優しかったが、そこには思惑が見え隠れしていたし、本当の母親になり得るわけもなく、他人だ。

 そんな中で純粋にアンナを思って一緒に育ったシウリスだけが、唯一心を許せる人であった。


 アンナとシウリスが五歳になった年に、第三王女ルナリアが生まれた。

 マーディアは生家で産んだので、もちろんアンナもルナリアを生まれた時から知っている。

 ルナリアが生まれた時のシウリスを、アンナは忘れられない。

 感動で目を潤ませながら、おそるおそるルナリアに触れたシウリスの顔は、満面の笑みに変わっていた。

 その時からシウリスは、妹を溺愛しているのだ。


 六歳になると、アンナはリーン家から自分の家に戻り、幼年学校に通い始める。シウリスも時を同じくして王宮に暮らし始めた。

 しかし週末は必ずと言っていいほど、お互いにリーン家に行き、一緒に勉強をしたり剣術の稽古をしたりして交流を続けていたのである。


 実はこの頃、本当に本当にほのかにではあったが、アンナはシウリスに淡い恋心を抱いていた。

 しかしリーン家の侍女たちは、事あるごとに『あなたとシウリス様には身分差があることを忘れずに』と言っていたのだ。

 どういうことをすれば不敬になるかも、徹底的に叩き込まれていた。

 それは、不敬を働いて処罰されないようにという、侍女たちの優しさからではあった。

 しかしそのせいで、アンナはシウリスに恋心を抱くことに酷く罪悪感を覚えてしまったのである。

 絶対にこの気持ちを伝えてはならないと。誰に悟られてもいけないと。


 アンナはひたすらに剣術の稽古をしていた。

 いつか、大きくなった時。シウリスの近くにいるためには、母アリシアのように強くなっていなければいけないと。

 シウリスを護る立場になれば、恋が実ることはなくとも、そばにはいられると考えて。


 そんなシウリスには、幼い頃から恐ろしいほどの剣の才があった。

 もちろんまだまだ大人に敵うものではなかったが、同時期に習い始めたにも関わらず、アンナがシウリスに勝てたことは一度もなかった。


 アンナが風邪を引けば、移るからと周りに引き止められても構わず、シウリスはお見舞いへとやってくる。

 王宮の庭園に薔薇が咲いた時は、手を引っ張って案内してくれた。

 公務で出かけたときは、必ずお土産を買ってくれた。

 そこにはいつも、シウリスの笑顔があった。


『アンナ、ずっとぼくのそばにいるんだ。いいな!』

『はい、シウリス様』


 シウリスの威厳と強さと優しさに、アンナは急速に惹かれていく。

 叶わぬ恋だとわかっていたから、そばにいられるだけでいいと自分に言い聞かせて。


 そんなシウリスが、決定的に変わってしまう事件が起こったのは、アンナたちが十歳の時だった。


 アンナはその日のことを、よく覚えている。

 月が雲で覆われた、暗い夜だった。

 母アリシアは、その頃にはすでに筆頭大将となっていて、帰ってくるのはアンナが就寝してからということもよくあったのだ。

 この日もアリシアは中々帰って来ず、一人で眠ろうとしたが中々寝付けなかった。

 シウリスは公務で王都を離れていて、しばらく会っていない寂しさもあった。

 母はまだだろうかと外を見ると、真っ暗な闇に包まれて消えてしまうような恐怖に襲われた。アンナは体を震わせながらも、アリシアの帰りを待つしかなかった。


『ただいまぁ………まだ起きてるのかしら?』


 この日も遅かったアリシアは、鍵の掛けられた玄関を開け、そっと家に帰ってきた。

 アンナが時計を見ると、時刻は夜の十一時を回っていた。

 こんな時間まで起きていて怒られるだろうかと思いながらも、母親の顔を見たくてアンナは自室の扉を開ける。


『……お母さん、お帰りなさい』

『遅くなってごめんね。どうしたの? 眠れない?』


 起きているアンナを見て、アリシアは少し眉を下げながら言った。それをアンナは、困らせたと捉えた。


『ごめんなさい』

『どうして謝るの? 眠れない時だって、たまにはあるわよ! 今日は一緒に寝ましょう。少し待ってて、着替えてくるから』


 アリシアを困らせてしまい罪悪感を覚えながらも、一緒に寝てくれることにほっとする。

 しかしその直後、玄関の扉をノックする者が現れた。すぐにアリシアが対応に向かう。

 アリシアが誰かと話し合う声がしてそっと覗いてみると、そこにはジャンが立っていた。

 彼は苦しそうに顔を歪めながら話していて、なにか大変なことが起こっているのではないかとアンナは二人に近づいていく。


『──が殺された』

『……なっ』


 断片的に聞き取れた不穏な言葉。アリシアが顔を青ざめさせていたのを見て、思わずアンナは話しかけた。


『どうしたの、お母さん』


 振り向いたアリシアは、もう母ではなく、筆頭大将の顔をしていた。


『ごめんなさい、アンナ。今日も一人で眠ってもらえるかしら』

『……うん、わかった』


 素直に頷いたアンナを見て、待ったをかける人物がいた。ジャンである。

 彼はまだアンナに起きていてもらいたいと言うと、アリシアとまたこそこそと話している。

 そしてなにやらアリシアが指示を飛ばすと、ジャンは首肯して家を出て行った。

 アンナは、アリシアのギリッと奥歯を噛みしめた顔を見て不安を募らせる。


『お母さん……なにがあったの?』

『アンナ、よく聞いて。今からうちに、マーディア様とシウリス様がいらっしゃる。そして……おそらく、お二人は傷ついているわ』

『傷って……怪我をしたの?』

『私にもそれはまだわからない。でも、確実に心は傷ついていると思うの』


 アンナには、なにがあったのかわからなかった。

 けれど、傷ついているという言葉を聞いて、じっとしてなどいられない。


『お母さん、私はどうしたらいい!?』


 その問いにアリシアは、ここで匿うことになるが口外しないこと、いつも通り学校に行くこと、そしてそれ以外はマーディアとシウリスのそばにいて望むことをしてあげてと言い、アンナは承諾した。

 少しするとアリシアの部下であるマックスという男が、マーディアとシウリスを連れてやって来たのだ。


 二人とも憔悴していて、アンナはシウリスを支えるようにして中に上げる。

 ソファへと一緒に座り、冷たくなっている手を包むように握ると、シウリスの手は震え始めた。それと同時に、シウリスの目からは涙がボロボロとこぼれ落ちる。


『うう……ひ、ひっく。……アンナ……』

『シウリス様……』


 幼い頃は泣いている姿も見たことがあるが、ここ数年は泣くことのなかったシウリスを見て、アンナは動揺した。

 なにがあったのかはわからない。しかし恐ろしい思いをしたのだろうと、アンナは胸を痛めながらシウリスのそばにいた。

 やがてアリシアの部下であるフラッシュという男が現れて護衛につくと、アリシアはマックスに事情を聞くからと、別室に移動していった。

 まだ冬ではないが、震えているのは寒さからかもしれないと考え、アンナは紅茶を淹れて戻ってきた。

 そしてマーディアとシウリスの前に、一客ずつ差し出す。


『マーディア様、シウリス様。紅茶を飲んで温まってください』


 紅茶を勧めると、茫然自失状態で動きのなかったマーディアがティースプーンに手を伸ばした。

 アンナがほっとしたのも束の間。

 マーディアがスプーンの柄を握るように持ったのを見た瞬間、嫌な予感が駆け抜ける。


『マーディア様!!』


 マーディアがそのスプーンで自身の目を抉り出そうとする寸前、アンナはものすごい反射神経を発揮して、その手を止めた。

 すぐさま護衛のフラッシュがマーディアの手首を掴み、スプーンを離させる。

 カチャンとスプーンは床に落ちたが、マーディアは『うう』と苦しそうな表情でフラッシュの拘束から抜け出そうとしていた。


『やめろっ、王妃様!』

『マーディア様!』

『お母様……ふ、うう……』


 自身の母の異常行動を見たシウリスは、顔面蒼白となっている。

 アンナが自分の行いを後悔する間もなく、アリシアとマックスが戻ってきた。


『なにがあったの!?』

『お母さん! マーディア様が、スプーンで目を……!』

『目を突こうとしてたんすよ! アンナがそれを間一髪止めた!』


 アリシアはマーディアを宥め、ゆっくりとソファに座らせる。

 なぜマーディアがこんな行動をとるようになってしまったのか、わからなかった。

 アリシアはアンナを怒ることはなく、止めてくれてありがとうと礼すら言って、対処に追われている。

 それが済むと、アリシアは客間にあるベッドへとマーディアとシウリスを促した。


『アンナ……アンナ、一緒にいて……』


 いつもの元気溌剌としたシウリスとは違う、消え入りそうな声にアンナは愕然としながらも頷いた。

 許可を得て、同じ部屋に入り、シウリスが寝付くまで……そして寝入ってからも、アンナはずっとシウリスの手を繋いでいた。


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