ルナリアの件はすぐに公表され、翌日の新聞記事にも載った。
一緒に亡くなった護衛騎士とルナリアの体には注射痕があり、毒を直接体に流されたということだ。
自殺か他殺かは調査中とあり、それ以外に詳しいことは書かれていなかった。
が、注射と毒と聞き、トラヴァスはザーラが実行犯の一人であるという確信を強めていた。
前日にルナリアが亡くなっても、トラヴァスのいるデゴラ隊はいつも通りの勤務となっている。
トラヴァスが自分の班員と今後の打ち合わせをしていると、扉を開けて筆頭大将アリシアがやってきた。
そこにいた騎士たちが一斉に彼女に向かって肩口に手を当てる敬礼をする。
「ああ、いいのよ、気にせず自分の仕事をしてちょうだいな」
「どうした、アリシア。わしの隊になにかあったか?」
最年長の将で、唯一アリシアに敬称をつけないデゴラが部屋の奥からやってくる。
「デゴラ。ちょっと悪いんだけど、トラヴァスを貸してもらえるかしら?」
「それは構わんが……まさか、ルナリア様の件でトラヴァスが……?」
「いやぁね、違うわよ。ちょっと私の部下じゃ、人手が足らなくてね。優秀な彼の意見を聞かせてもらいたいだけよ」
「そうか、なら使ってやってくれ。だがわしの隊から引き抜いてくれるなよ」
「気をつけるわ!」
引き抜かないと約束をしないアリシアに、デゴラはひとつ息を吐くと、トラヴァスへと目を向けた。
「行ってこい、トラヴァス。ちゃんと戻ってくるんだぞ」
「は」
デゴラに送られて、トラヴァスは颯爽と歩くアリシアの後ろを着いていく。
筆頭大将専用の執務室に入ると、トラヴァスはなにを言われるのかと緊張を含みながら疑問を口にした。
「筆頭大将自らが私を呼びにおいでとは、いかがなさったのですか?」
何度かアリシアに呼ばれたことのあるトラヴァスだが、いつも彼女の部下からの呼び出しだったのだ。
軍のトップが自らの足で目下の者を呼びにくることは、まずない。
「今、私の直属の部下たちは忙しいのよね」
「ああ……ルナリア様の件でしょうか」
「そうよ。まぁ座ってちょうだい。紅茶でも淹れてあげるわ」
「アリシア筆頭にそんなことはさせられません。私が……」
「いいから座ってなさいな。それとも私の淹れるお茶が飲めないとでも?」
「いえ、そういうわけではありませんが……それでは失礼いたします」
本当を言うと、飲めない。
しかし飲めない理由を問われても困るので、トラヴァスはそう答えながら来客用のソファに座る。
アリシアは慣れた手つきで紅茶を淹れ、トラヴァスの前へと出した。
「どうぞ。お砂糖いる? それともジャムかしら?」
「いえ、そのままストレートでいただきます」
なにかを入れられるなど、たまったものではない。
飲めるだろうかと唇をカップに当てるも、やはり飲むことはできなかった。
なにも入れられていないと頭ではわかっていても、体がどうあっても拒絶している。
このままではいけないと思っていながら、トラヴァスは飲めずにそのままカップをソーサーに戻した。
「一応クッキーも出しておくわね」
「お構いなく」
「私が食べたいのよ。あなたは食べそうにないけど」
その言葉で、飲んでいないことがバレていると悟る。アリシアを信用していないと言っているのと同じようなものだ。
(あまりアリシア筆頭を敵に回したくはないのだが……)
しかし、飲めないものはどうしようもない。
ふと気づくと、アリシアがじっとトラヴァスを見ていた。
その瞳にヒルデのようないやらしさは感じないものの、自分を精査されているような居心地の悪さに、トラヴァスは言葉を発した。
「なんでしょうか、アリシア筆頭」
「あなたって無表情だけど、顔は整ってるわね。中々の男前よ!」
「はぁ……ありがとうございます」
「モテるでしょ?」
「根がクソ真面目なのでそんなには。まずまずです」
「ローズと付き合っているって聞いたけど?」
「はい」
「うまくいってるの?」
ここでいいえと言ってしまえば、ローズにも伝わってしまいそうだと、トラヴァスは平然とした顔を崩さず答えた。
「それなりに」
「結婚しちゃいなさいな」
「時が来たらそうします」
当たり障りのない答えを選ぶも、どうしてアリシアがこんなことを聞いてくるのかが理解できない。
「筆頭は、そんなことを言うためにわざわざ私を呼んだのですか?」
「いいえ?」
「では、一体どんな話でしょうか」
「そうねぇ。あなたにとっては理不尽な話、でしょうね」
ニッコリ笑うアリシア。
トラヴァスはこれまでアリシアのことを、腹の黒さなどないさっぱりとした正義の人だと思っていた。
(天然に見えて、意外に抜け目のない人かもしれん。そうでなくては筆頭大将など務まらんのだろうが)
トラヴァスがほんの少し眉を寄せると、アリシアは半眼で薄く笑った。
「トラヴァス。あなたは騎士であり続けるためには、なんでもするつもりがあるんでしょう?」
探りを入れられている。
そうだと言えば、足元を見られかねない。
トラヴァスは無表情に戻り、大したことないという態度で語る。
「それはどうでしょうか。私は軍学校では優秀だと言われ続けてきましたが、無表情でも心のある人間です。なにがきっかけで騎士を辞めるかはわかりません」
「あら、あなたはなにをしてでも騎士にしがみつくかと思っていたわ」
アリシアから送られる、不敵な視線。それをトラヴァスはアイスブルーで防御する。それでもアリシアの視線は、そのガードを貫いてきそうな強さがあった。
たまらず声を出したのは、トラヴァスである。
「私は筆頭の気に触ることでもしてしまったのでしょうか」
「いいえぇ、まさか。どうしてそう思うの?」
「今のはまるで、騎士職を剥奪されたくないならば言うことを聞けという脅しに聞こえたものですから」
「あら、よくわかったわね。その通りよ」
なんでもないことのように言っておきながら、トラヴァスの言葉に驚いた様子を見せるアリシア。
(思った以上に曲者だな、この方は。素直な分、逆に底がわからん……)
ルナリアの件がどうなっているか探りを入れたくはあったが、なにもしないことが最良だと決めたばかりである。
余計なことをして、自分の首が飛ぶような事態になることだけは、なにがあっても避けたい。
「私は筆頭大将だから、たかだか一騎士の進退くらい自由に決められるわ。少々理不尽な理由でも、でっち上げればどうにだってできちゃうのよね」
悠々と言い放ったアリシアの言葉に、本心だろうかとトラヴァスは訝る。
もしも本心であれば、やっていることはヒルデと変わらないではないか、と。
「……まさか、尊敬するアリシア筆頭大将までもがそのような考えをされるとは、思ってもおりませんでした」
その瞬間、アリシアの眉が下がった。すぐにグッと眉尻を戻したが。
(……演技か。本心ではないな……よかった)
「トラヴァス。今、『筆頭大将までもが』って言ったわね?」
ほっとした顔をしないように、トラヴァスはぐっと口元に力を入れた。
失言であったことは間違いない。しかし、アリシアは味方だと確信できた。
「確かに隊長や将もそれなりに権限はあるものね。まぁ
ヒルデに脅されて言いなりになっているトラヴァスのことを、アリシアはわかっていると言外に知らせているのだ。
だがこれ幸いと、なにもかも話すわけにはいかない。
(話すには、王族の……シウリス様の特権による保護が欲しい。今のままではどう転がるかわからないからな)
そのためには、アリシアを信用するということを示さなければならない。
トラヴァスはカップを手にして紅茶を口元へ持っていくが──
(……だめだ……飲めん……っ)
結局カップに口をつけただけで、そのまま戻しただけになった。
それをじっと見ていたアリシアが、自分の紅茶へと手を伸ばす。
「ネタは上がってるのよね」
アリシアはフウッと紅茶を冷まし、コクリと紅茶を飲む。
「……ネタ?」
「ヒルデ様との蜜事よ。無理やりさせられているんでしょう?」
「なにをおっしゃっているのかわかりかねます」
やはり、アリシアは見抜いていたのだ。だがまだ、認めるわけにはいかなかった。
「信じてもらえないかもしれないけど、私はあなたの味方よ。絶対にトラヴァスを死なせたりはしないわ」
「先ほど筆頭は、私を脅すと発言していましたが。そんなあなたをどう信用しろと?」
「そうしなければいけないほど、私も切羽詰まっているのよ。話だけでも聞いてちょうだい。トラヴァスにとって、悪い話ではないはずよ」
筆頭大将ほどの人物が、切羽詰まっている。
その言葉に嘘はなさそうだとトラヴァスは判断した。トラヴァスの首が危ういように、アリシアも似た状況になっているのかもしれないと。
「蜜事がどうという話は私にはわかりませんが、聞くだけというなら聞きましょう」
あくまでわからないという姿勢を崩さず、トラヴァスは促した。
「ここから先は、あなたがヒルデ様に無理やり蜜事をさせられていると断定して話すわ」
「
今はまだ話すわけにはいかず、トラヴァスはシラを切る。
アリシアはそんなトラヴァスを見て奥歯をぐっと噛んだ後、話し始めた。
「私の調査では、あなたの他にも二人、同じようなことをさせられていた騎士がいたわ。もう二人とも、騎士を辞めているけど」
「そうですか」
ヒルデに不貞の相手が他にいたことは、フリッツから聞いてトラヴァスも知っている。二人もいたとは知らなかったが。そのうちの一人が、フリッツの父親に当たる人物ということだ。
「その二人には、マックスが交渉中よ。ヒルデ様の浮気相手だと証言してもらうようにね」
つまりはそれは、トラヴァスにもヒルデの浮気相手である証言をしろという、打診であると理解する。
「もしそれが事実だとしても、彼らが言うことはないでしょう。もう四代も前の王妃様の話ですが、関係を持った相手の男は斬首されていますし」
「そうね、現在でも恐らくは斬首となるでしょう」
「諦めた方がよろしいのでは?」
「もしも王族の特権によってあなたの命は保証されると言われれば、どうかしら?」
トラヴァスは一瞬だけ、息が止まった。
そうなるように画策はしていたが、まったく動きがなかったので不安があったのは確かである。
自分に落ち着けと言い聞かせ、喜びを押し隠す。トラヴァスは今初めて特権に気づいたという風を装いながら続けた。
「王族の特権……いくつかありますが、この場合は罪人の保護ということですか」
「ええ」
「無理でしょう。過去にこれを行使した王族は少ない。罪人を保護するということは、民衆からの支持を落とすことと同意義。どのお方と約束を取り付ける気かは存じませんが、誰であってもその特権を行使する可能性はないに等しいものです」
「でももし、すでにその約束を取りつけていると言ったら?」
さすが、アリシア筆頭大将である。
トラヴァスの望むように事が運び始めた。
「……どなたです」
「シウリス様よ」
「……」
よし、という言葉を発してしまいそうになり、トラヴァスは口を噤む。
(まだ、まだ成っていない。喜ぶな。不利になることは極力減らせ!)
手を顎にし、トラヴァスはどうすべきかをもう一度考え直す。
答えを出す前に、アリシアが先に口を開いた。
「トラヴァスが証言してくれれば、シウリス様の特権によって命は守られるわ。そうすれば、ヒルデ様の不貞が明るみに出て裁かれることになる。投獄されれば、二度とヒルデ様があなたに手を出すこともなくなるでしょう。それは、トラヴァスにとっても悪い話じゃないはずよ」
確かにそれは、トラヴァスの望むことではある。しかしまだ足りない。
「……確かに、もし私が王妃様の不貞の相手だと仮定すると、好条件のように思いますが」
「なにか問題でも?」
「特権を行使するとシウリス様の口から語られていないことが、信用ならないのではないでしょうか。書面は偽造しようと思えばできなくはないかもしれない。仮に私が王妃様の不貞の相手ならば、シウリス様の口から公言してもらわぬ限り、証言をすることはないでしょう」
トラヴァスのその言葉に、アリシアはニッと笑った。
今トラヴァスは、身の安全さえ保証してくれれば、証言はするという意思表示をしたのだ。それをアリシアは理解したのだと、表情でわかった。
(迂遠に言ってもわかってくれる方で助かった。これで証言をせずに伝えられたのだからな)
心の中でほっとするトラヴァスに、アリシアは笑顔を意思のある強い表情に変えて続けた。
「どちらにしても、あなたがヒルデ様から解放される〝時〟は来るわ。しばらくは耐え忍びなさい」
「私はヒルデ様に迷惑を
そう言ってトラヴァスは、
(これは、アリシア筆頭に対する感謝と信頼の証になる。必ず、飲まねばなるまい)
ほんの少し震えた手で、トラヴァスはゴクリと紅茶を飲み干した。
体はぐらりともしない。なにも入っていないとわかってはいたが、ようやくトラヴァスは乗り越えられたのだ。
あの悪夢が始まった紅茶を飲んだ時とは比べ物にならないほど、清々しい気分だった。
「ありがとうございます、アリシア筆頭。とても美味しい紅茶でした」
アリシアはニッコリと太陽のように微笑み、トラヴァスは頭を下げて執務室を出る。
フリッツが王になるための第一歩。
それを手助けするための己の一歩を、踏み出せた気がした。