それからグレイとアンナは急遽王都へと搬送された。
病院で手当を受けて、初日は珍しくアリシアが一緒にいてくれた。アンナは一日で、グレイは三日もすると退院できた。
コナーも前線で回復薬をもらい、一命を取り留めている。
回復薬は希少で、重症者にしか使われないものだ。回復魔法もあるが、回復魔法特化の水魔法はほとんど習得できる者がおらず、光魔法は書自体が少なく、治癒の異能はそれよりもさらに書の数が少なかった。
風魔法にも回復魔法はあるが、再生魔法ではなく修復魔法のため、重症者にはあまり意味をなさない。
結局、人は怪我をすると病院に行って治療するのが一般的なのである。
退院して軍学校へ戻ると、アンナは改めて魔物との戦闘を思い出した。
(思えばあの時、初めて『アンナ』って呼んでくれたのよね……)
ホワイトタイガーにやられた瞬間、グレイが己の名前を呼んでいたことをアンナは思い返す。
偽装の付き合いを始めた時から距離がグンと近づいたような気がしたのだが、これだけ一緒にいるにも関わらず、グレイは一度もアンナの名前を呼んだことがなかったと気づいたのだ。
いつもグレイからは『あんた』や『女王様』と、揶揄うようにしか呼ばれていなかった。
どうしてもそのことについて知りたい。そう考えたアンナが二人で話をしたいと伝えると、グレイも「俺も話したいことがあった」と言い、彼の部屋へと向かった。
同室のコナーはまだ入院中のため、誰もいない。
さすがに二人っきりはどうだろうかと、アンナは緊張を隠せずにいた。
「それだけ緊張されると、男冥利に尽きるな」
「も、もう……っ」
「大丈夫だ、怪我も治りきってないからな。この腕じゃ、なにもできない」
(それって、怪我がなければ……)
カッと顔が熱くなったアンナは、少しもぞりと体を動かした。しかしなにかを言われる前にと、アンナは目だけでグレイを見上げて本題を口にする。
「ねぇ、グレイ。どうして今まで私の名前を呼ばなかったの?」
直球をくらったグレイは、「あー……」と少し口籠る。うーんと唸り、言おうか言うまいかを考えあぐね。
そして手のひらを自分の顔に載せると、観念したように口を開く。
「〝アンナ〟は『俺の嫁』、だったんだ」
「はい?」
予想外の返事に、アンナは眉を顰めた。
いつも無愛想なグレイが、ほんの少し照れている。
「少し重い話になるが、いいか」
「ええ、気にしないで。大丈夫よ」
返事を聞いたグレイはベッドに腰をおろし、ぽんと隣を叩いた。
グレイの顔を真正面から見られないアンナは、少し悩んだ後、結局その隣に座る。
なにを言われるのだろうかと、アンナは緊張しながらグレイの横顔をじっと見つめた。
「……実はな。俺は、戦争孤児なんだ。狩人の父親と、猟犬とで暮らしていたが……フィデル国の過激派に殺された。四歳の時だ」
グレイは戦争孤児。それがどう『俺の嫁』に繋がるのか、アンナには見当もつかない。
しかし真剣に語られるグレイの言葉を聞き漏らすまいと、アンナは耳を傾けた。
「その時、俺を救ってくれたのが、あんたの母親……アリシア筆頭大将だった」
「母さんが……」
筆頭大将アリシアは、異能の書を宿している。
遺跡に眠る、古代コムリコッツ人の遺産のひとつである『救済の書』という異能だ。それをアリシアは、アンナの父親に当たる男にプレゼントされ、習得しているのである。
救済の異能でアリシアがグレイを助けたことは明白であった。
アンナはアリシアから、〝救済の書は、助けたい者に危険が迫った時、間に合うように教えてくれるものだ〟と聞いていた。
それでも習得した本人の実力がなければ、助けられるものではないが。
「戦争孤児となった俺は、孤児院で過ごすことになったんだが……恥ずかしい話、ちょっと荒れていてな。手のつけられない子どもだったと思うよ。我ながら」
自嘲したグレイを、受け入れるようにアンナはまっすぐに見つめた。
それに気づいたグレイが視線を重ね合わせ、侮蔑の目を向けられないことに安堵しながら続ける。
「そんな時、アリシア筆頭大将が様子を見に来たんだ。さすがにちょっと、アリシア筆頭は俺も怖くてな……」
「あの人、子どもにも容赦ないものね」
「そうなんだよ。だから叱責を喰らうと覚悟してたんだ。川原に呼び出されたからな」
「普通に恐怖ね、それは」
「ああ。でも、違った」
グレイの目が、輝くように遠くを見た。
荒れた少年の変わった瞬間を覗き見たようで、アンナの胸はトクンと鳴る。
「あの人は、俺に剣舞を見せてくれたんだ。そして俺に剣という道を示してくれた」
「……そう」
まるで少年のような瞳をするグレイに、アンナは自然と笑みが浮かぶ。
「当時六歳だった俺に剣を持たせてくれたんだ。あの人は本当にイカレてる」
少し笑ったグレイに、今度はアンナが少し苦笑した。
アリシアの行動に慣れてしまっていたアンナは、自分の母の異常さに改めて気がついて。
(私は三歳の頃から剣術を習っていたものね。さすがに模擬剣だったけど。言われるまで気づかなかったけど、確かに母さんはイカレてるかもしれないわ)
「その時に聞いたんだ。筆頭にはアンナって娘がいて、しかもめちゃくちゃ強いんだって。嬉しそうに自慢するんだ」
「母さんったら……」
「けど、こうも言ってた。『アンナは私の仕事が忙しいせいで一人でいることが多いから、もしも会った時には仲良くしてあげてね』ってな」
アリシアがグレイにそんなことを言っていたとは、当然アンナは知らなかった。
二人が知り合いだったことさえ、知らなかったのだから。
「それで、グレイはなんて言ったの?」
アンナの疑問にグレイは言い淀み、しかし観念したかのような、それでいて決意したような顔で次の言葉を放つ。
「それなら俺は、アンナと結婚すると筆頭に約束したんだ。俺も一人だったから、結婚すれば寂しくないと思ってな」
アンナがパチクリと目を瞬かせると、グレイは「あー」とどこからか声を出して、自身のブロンドの髪をくしゃりと掴んだ。
「だから〝アンナ〟と言えば『俺の嫁』だったんだよ」
「それが、私の名前を呼ばなかった理由?」
「ああ」
アンナと言えば俺の嫁。
そのフレーズに、おかしさとくすぐったさが混じり合って、アンナはくすりと息を漏らす。
「笑うなよ。真剣だったんだ」
真剣という言葉に、アンナの心臓は徐々に音を高めていく。
「アンナは優秀だって聞いてたし、あの筆頭大将の娘だろ。嫁にもらうには、あんたより強くなきゃいけないと思って、そこは結構がんばった。俺が今こうしていられるのは、筆頭と……あんたの存在のおかげだ」
「俺の嫁の?」
「そう、俺の嫁の」
二人は目を見合わせて、ぷっと吹き出した。
「それでグレイは、軍学校に来たのね」
「ああ。アンナに会いに」
名前を呼ばれると、慣れていないので気恥ずかしくなった。それでなくとも、名前呼びをするというとことは、『俺の嫁』と認識されているということなのだから。
「最初はわからなくてな。アンナなんて名前はよくあるし、戦闘班にいるアンナは一人だけだったが、黒目黒髪ときたもんだ。俺はずっと、筆頭と同じ金髪だと思い込んでたからな」
「私、見た目は父に似てるらしいのよ。東方の出身で、古代遺跡を巡るトレジャーハンターらしいわ。私が生まれた時にはいなくなってて、会ったこともないんだけど」
「なるほど。珍しいもんな、こんなにまっすぐな黒髪は」
さらりと髪を撫でられたアンナは、かぁっと顔が熱くなる。一気に赤くなった顔を見て、グレイの方が驚いた。
「こんなことで赤くなるのかよ。かわいいな」
「も、もうっ」
「さて、キスをしたらどうなるか」
「ちょ、試さないでよ!?」
慌てふためくアンナを見て、グレイはくっくと笑っている。
完全に揶揄われたとわかったアンナは、むむっと口を尖らせた。
「もう……っ」
「まぁそのうちにな」
いつかする、というその宣言に、アンナの心臓はバクバクと脈打つ。
しかし『そのうちに』と言ったグレイの顔は冴えなかった。
(実は俺、アンナが魔物に襲われて窒息した時に、人工呼吸してるんだよな……)
そういう経験がないことは、これまでのアンナの反応を見れば明らかだ。
もちろんアンナのファーストは全部もらうつもりのグレイだが、本人の意識のないところで済ましてしまっている事実がどうにも心に引っかかっていた。
グレイ本人も、あの時は必死すぎてファーストキスを奪ったという実感もない。
だから今度はアンナがしっかり起きている時に。名実ともにアンナのファーストキスをもらおうと、グレイは心に決めていた。
「そう言えば、アリシア筆頭はなにか言ってなかったか?」
「なにかって?」
純粋な疑問符をつけるアンナに、グレイはいくらかほっとした。
(もしかしたら、俺がアンナに人工呼吸をしたことを話してしまってるんじゃないかと思ったが)
「いや、ないならいいんだ」
「ないわけじゃないけど」
「……どんな話をしたんだ?」
グレイの問いに、アンナは口ごもった。
(まさか、母さんに『あなたたちどこまでいってるの?』って聞かれたなんて言えないわ)
病院に運ばれた後、二人で話す機会があり、アンナはアリシアにそんなことを言われていたのだ。
もちろん、なにもないとは答えている。夏よりは少し仲良くなったとだけは伝えたが。
その後のアリシアはニマニマと笑っていて、アンナには理由がわからず不快であった。
むうっと眉根に力を入れるアンナに、グレイは不安を口にする。
「なんか、聞いたのか?」
「いいえ、特にこれと言ってないのよ。なんだかやたらとニヤニヤして『母はなにも見なかった』とか言うのよ。どういう意味かわかる?」
なにも見なかった、とは、もちろんグレイがアンナに人工呼吸したことである。
意識のなかったアンナに、アリシアは人工呼吸のことを告げていなかったのだとグレイは知り、安堵した。そしてアリシアの気遣いに感謝した。
なんなの? と首を傾げるアンナに、グレイは目だけで流し見る。
「いや、まぁ……そのうちにな」
「もう、グレイったら秘密が多いのね」
「いつかちゃんと言う」
名実を共にしたキスができた時には、と心で付け足して。
アンナはその言葉を聞いて、知りたいという欲求よりも、いつかはちゃんと伝えるというグレイの誠実さによって、心は落ち着いた。
「なぁ。大人になったら結婚しないか、俺たち」
「……えええ!?」
しかし、いきなり切り出されたグレイの言葉に、落ち着いていたはずのアンナの心臓は急に激しく躍り始める。
あまりのアンナの慌てっぷりに、グレイは目を見広げた。
「そんなに驚くか?」
「驚くわよ! だって私たち……偽装のお付き合いよね?」
「俺はそう思ったことは一度もないが」
幼い頃から俺の嫁だと思ってきたグレイと、付き合いが偽装だと思っていたアンナの間には、大きな認識のズレがあった。
しかしグレイも、そしてアンナにも。お互いを想い合う気持ちの差は、そこにはない。
アンナはグレイを見つめ、少し視線を外し、今度は上目でグレイを見つめた。
「嬉しいけど……待って。急すぎて、いきなり決められないわよ」
「別に今すぐってわけじゃない。二十歳の成人までは四年あるんだ。まぁ早く答えを聞きたいのは確かだけどな。ちゃんと考えてくれればいい」
「……ありがとう。なるべく早く答えを出せるようにがんばるわ」
「そうしてくれ」
アンナはグレイを信用している。
心臓が何度も波打つのは、恋をしているからなのだとようやく認識できてきたところだ。
結婚をしたいかしたくないかで言えば、もちろんしたかった。
(グレイは寂しかったんだわ……)
戦争孤児になり、一人っきりになって荒れて。
同じく寂しい思いをしていたアンナに寄り添おうとしている。
アンナも、本当は寂しかった。
絶対に口には出すまいと決めていたが、心の底では常に孤独が渦巻いていたのである。
アンナは、生まれた時から母子家庭だった。
トレジャーハンターの父親は、母アリシアをこの地に置いて、一人で古代遺跡へ旅立ったのだという。
(状況は違うけど、グレイの寂しい気持ちはわかるわ。私と母さんは、父さんに捨てられたから……)
母のアリシアは愛する人が出ていっても納得していたが、アンナには到底理解できなかった。
父親にとって、自分は必要のない子だと。
だから簡単に捨てたのだと。
アリシアが仕事で帰ってこない夜、寂しくて怖くて、何度ベッドの上で震えていたかわからない。
孤独だったグレイだからこそ、アンナの気持ちを誰よりも理解していた。
そしてそれは、アンナも同じだった。
二人の心には、いつしかお互いが住み着いていた。