アンナは隊列の後方で、森の山道を歩いていた。
フィデル国との小競り合いがあり、オルト軍学校へと補給の要請が来て、前線へ向かっているのだ。
前線と言っても現在は膠着状態で、戦闘は一旦収束している。が、まだ軍を引き上げるわけにもいかず、食料が足りない状態になっているとのことだった。
そこで、一番近い補給路であるオルト軍学校から一隊が組まれたのである。
隊長にトラヴァス、補佐にグレイ。残りのメンバーはアンナにカール、それにコナーと、リディアというアンナの同室で医療班の女子の計六名だ。
アンナらは先遣隊を兼ねていて、後からもう少し大所帯で補給部隊がやってくる予定である。
トラヴァス隊はとりあえず最小限の食糧を、迅速に届ける役目だ。直接的な戦闘をするわけではないが、補給も大事な役目である。
途中までは荷馬車で来たが、これから向かう場所は道が悪くて狭い箇所もあり、馬は使えなかった。全員荷物を背負って、地道に目的地へと向かっている。
先頭はトラヴァス、しんがりはグレイだ。ちなみにコナーとリディアは、従兄妹同士である。
「はぁ、はぁ……」
「リディア、大丈夫?」
「え、ええ……」
すぐ後ろを歩くアンナが声を掛けると、リディアは息を切らしながら答えた。
各隊に一人は医療班に所属するものを入れなければならず、リディアが選ばれたのだが、荷物を持って山を登り森を抜けるのは相当な体力を要する。戦闘班のような体力が、彼女にあるはずもない。
「少し、遅れているか」
先頭を行くトラヴァスが振り返って確認し、呟いた。前方を歩くコナーやカールと、真ん中を歩くリディアの距離が、段々と遠くなっていたのだ。
「二人とも、ここで待機だ」
トラヴァスはコナーとカールにそう伝えると、素早くリディアのところまで戻る。
「大丈夫か、リディア」
「ええ……遅れてごめんなさい……」
「この山道は険しいからな。荷物を。俺が持とう」
トラヴァスはそう言って手を差し出すも、リディアは首を左右に振った。
「トラヴァスも荷物を持っているのに……」
「平気だ」
「先頭はすぐに動けるように、それ以上荷物は持たない方がいいわ。大丈夫、今度は遅れないようにするから」
苦しそうに息を切らしながらも、それを隠そうと懸命に笑顔を作っているリディア。
しかし後ろからやってきたグレイが、半ば強引にリディアの荷物を奪っていった。
「俺が持とう。後方は本隊がやってくるし、危険はそうないはずだ。問題ないだろ」
「そうだな。じゃあグレイ、頼む」
「ありがとう、グレイ……」
「ああ」
グレイは首肯すると、今度はアンナに目を向ける。
「あんたは大丈夫か」
「ええ、問題ないわ」
「タフだな」
「毎日走り込みしてるもの。よかったら荷物、持つわよ?」
「いや、大丈夫だ」
グレイとアンナが話をしている間に、トラヴァスは懐中時計を出して時間を確かめた。
夜の明けきらぬうちから馬車で森の前まで行き、そこからは食事以外、歩き通しだ。さすがに疲労が溜まってくる。
「もう少しで前線だ。だが無理そうなら言ってくれ、少しくらいなら休憩を取れる」
「ええ、大丈……」
「うわぁああああああああっっ!!!!」
リディアの言葉を掻き消すような叫び声が、唐突に響いた。
ハッとして一斉に前方へと視線を送る。
視界に飛び込んできたのは、コナーが血飛沫をあげて宙を舞っている姿。
その前には、三メートルはあろうかという、巨大なホワイトタイガーが影を落とす。
「コナーッッ!!!!」
カールの叫び声と同時に、ズザザァァアーーーッと地面を滑るようにコナーは吹き飛んだ。
すぐさまカールがコナーの前に立ち、剣を抜く。
そんなカールを見て、トラヴァスは即座に声を上げた。
「逃げろ、カール!! お前では太刀打ちできん!」
「っく!!」
カールだけではない。ここにいる誰も、太刀打ちできる魔物ではない。
あの一撃を見れば、そう判断せざるを得ない。
ホワイトタイガーはガァッと大きな口を開け、カールを威嚇している。
「どうする、トラヴァス」
すぐに隊長の指示を仰ぐグレイ。
これは完全に想定外の事態だ。
しかしトラヴァスは冷静で、その無表情を歪めてなどいない。
「悪いがグレイ、ホワイトタイガーを引き付けてくれ。その間にコナーを助け出す」
「わかった」
「一人じゃ無理よ、私もやるわ!」
アンナがそう言うと、グレイは一瞬眉間に皺を寄せたが、迷っている暇などなかった。
「グレイ、アンナ、互いに陽動となれ。まずはコナーを救出する。いいな」
「「了解」」
「死ぬなよ、二人とも。散開!」
三人は背負っていた荷物をその場に置き去り、グレイとアンナは剣を持って飛び出した。
「引きつけるだけだ! 攻撃は受けるな、流して躱せ!!」
「わかったわ!!」
ホワイトタイガーの注意を、カールから自分たちに引きつける。
その間にトラヴァスがコナーを助け出し、同時にカールへと指示を飛ばした。
「カール! 火魔法でリディアの前に火種を置け! その後は前線へ行って応援を呼んでこい!!」
「俺も戦うぜ!!」
「事は一刻を争うのだ! コナーを死なせる気か! このままでは全滅だぞ!!」
「ぐ……っ わあったよ!!」
すぐさまカールは木の枝を折って火をつけると、それをリディアの前に放り投げた。
「これでいいのか!?」
「ああ、行け!!」
「待ってろよ、グレイ、アンナ!!」
荷物を置いて身軽になったカールは、目的地に向かってあっという間に森の奥へと消えていく。
「リディア、その火種に木や葉を焚べろ! 狼煙を上げて位置を知らせるんだ!」
「わかったわ!」
トラヴァスはそう言いながら自分の上着をコナーに巻き付け、簡単な応急処置を施す。
医療班のリディアがいるとはいえ、ここでできることなどたかがしれている。
「俺もコナーを連れて前線に向かう! ここでなんとかできる怪我じゃない! 前線なら回復薬があるはずだ!」
「わかった、行け!」
「こっちは任せて!」
「グレイ、アンナ……すぐに助けが来るからな!」
トラヴァスは血だらけのコナーを背負うと、最後にリディアへと目を向ける。
「すまない、リディア……狼煙を絶やさないでくれ」
「ええ。コナーを、お願い……!」
「ああ」
ホワイトタイガーのいる危険な地帯に、医療班である彼女を置き去りにすることを詫びたトラヴァスは、カールの後を追うようにコナーを連れて森の中へと消えていった。
残されたのはリディアと、魔物の相手をするグレイとアンナだけだ。
二人は肩で呼吸しながら、ホワイトタイガーと対峙する。
「いいぞ、うまい。あんたはその素早さを活かせ!」
「ええ! でも、二人だけじゃ、正直きついわ……」
攻撃を避けるのも、常にギリギリだ。
気を抜けば一発でやられてしまう。
グレイが上手く自分の方へと誘導しているおかげで、寸でのところで躱せてはいるが。その分、グレイの負担が大きい。
(カールが応援を連れて帰ってくるまで、持つの……っ!?)
一瞬嫌な想像をしてしまい、アンナはぶるぶるっと首を振る。
カールは森で育った男だ。持ち前の素早さを持つカールは、森の中だとさらに誰も追いつけないくらいに早い。
(お願い、カール! 早く誰か連れてきて……!!)
向かってきたホワイトタイガーの丸太のような太い腕が、びゅおんとアンナの頬を掠めた。
「っく!」
「こっちだ!!」
今度はグレイがホワイトタイガーの気を引き、攻撃を受け流す。
軽くやっているように見えても、余裕があるわけではない。
グレイにはあの丸太のような腕を剣で受け流す技術と力があるが、いつ体力が尽きて弾かれるかはわからない。
何度も攻防を繰り返すうちに、グレイは左腕に深い傷を負ってしまった。
「っく! はぁ、はぁ!」
「グレイ、少し休んで! 私が……!」
「あんたこそ、少し休んでろ! 応援が来るまで持たないぞ!」
「でも!」
「俺なら大丈夫だ!」
グレイがそう言った瞬間、二匹の犬が飛び出してきた。
白い犬と黒い犬……ブランとノワールだ。
二匹はシュタッとグレイの両サイドにつき、グルルルルルッとホワイトタイガーに向かって牙を向けている。
「お前ら……来てたのか」
ノワールが飛び出し、ホワイトタイガーの攻撃を直前で躱すと、今度はブランが誘い出す。
グレイとアンナの戦闘風景を見て覚えたのだろう。しっかり連携が取れている。
「ブラン、ノワール……! あなたたち……!」
「助かった、これで少し楽になる! 俺たちもやるぞ!」
「ええ!!」
二匹増えた分、少しだが余裕ができた。二人と二匹は、お互いに敵を引き付けあってカバーし合う。
(とにかく時間を稼げ!! 正騎士隊が来ればなんとかなる!!)
グレイは己を鼓舞し、アンナの様子を確認しながら剣を振るった。
しかし時間が経てば経つほど、当然ながら全員が疲れてくる。
特にアンナの動きは、最初に比べてキレがなくなっていた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ!!」
「あんたは一度離脱しろ! リディアのところで待機だ!!」
「ダメよ、あなただって怪我してるじゃない! ブランとノワールだって……!」
「っく!」
グレイも一人抜ける危険は承知している。
誰が抜けても均衡は崩れると、アンナもまた理解していた。
だから、倒れるわけにも抜けるわけにもいかないのだ。
ブランとノワールも、ハッハと体で息をしながらも頑張っている。
(息が切れて……苦しいわ……! 誰か、早く……っ!?)
ハッと気づいたその瞬間。
ホワイトタイガーの狙いはアンナへと向いていた。まだなにも挑発していないというのに。
あっという間に距離を詰められ、その大きな腕がアンナに襲いかかる。
「や……っ! あああぁぁああああああああッッ!!」
鋭い爪が、アンナのこめかみを切り裂いていく。
なんとか体を捻って直撃は回避はしたものの、血が溢れ飛んだ。
均衡は、崩れる。
上向けに倒れたアンナに、ホワイトタイガーが踏み潰そうと前足を上げ──
「アンナッッ!!!!」
グレイが滑り込み、納刀した鞘で前足を受け止めた。しかし重すぎるその体躯に、グレイは顔を歪める。
(やばい、これは……!)
このままでは、二人もろとも踏み潰されてしまう状態だ。
アンナが痛みを堪えながら目を開けると、隣にはグレイ、そして目の前には真っ赤な口を覗かせる魔物の姿があった。
すぐさま状況を理解したアンナは、グレイの持つ鞘を一緒に支える。
「大丈夫か!!?」
「ごめんなさい、私……」
「いい! 今はそれどころじゃない、耐えるぞ!」
「ええ……」
グレイは二匹の犬に視線だけを向けると、声を張り上げた。
「帰れ!! 十分だ、助かった!」
ホワイトタイガーの狙いは完全にアンナに向いてしまった。こうなってはもう、ブランとノワールの吠える声だけで気を引くことはできない。
自分たちが殺された後、二匹も殺されることが目に見えて、グレイはブランとノワールを下がらせた。二匹は躊躇したが、再度「行け!!」というグレイの指示を忠実に守り、来た道を走り去っていく。
「もうちょっとの辛抱だ……カールが今に、誰か連れてきてくれる!」
「……ええ……」
ぬるりとした感触が、グレイの腕に触れた。
アンナの頭の出血が、思った以上に酷い。
「ごめ……なさ、グレイ……力が……」
二人で支えていた鞘が、アンナの力がなくなることで、グレイの腕にぐんと重みが増した。
「っぐぅぅうう!!」
(死なせて、たまるか! 俺が守らず、誰がアンナを守るんだ!!)
しかし一人分の力では、容赦なく太い前足は迫っていて。
「ぅうっ!!」
左腕に怪我を負っているグレイは、アンナのいる左側の腕を押し返しきれない。ホワイトタイガーは、鞘ごとアンナの胸を踏み潰す。グレイの体にも痛みが走った。
「やめろっ!! やめろぉおお!!」
鞘を押し返すことは不可能で。
アンナはすべての息を吐き出したかと思うと、グレイの隣でその呼吸は停止した。
「アンナ……アンナーーーーッ!!」
これ以上のダメージは与えてなるものかと、グレイは必死に鞘を押し返す。
しかしアンナの応答はなく、次第に唇は紫色に変化していく。
「くそっ!! くそぉぉおおおおおおッッッッ!!!!」
グレイが叫んだ、次の瞬間。
ヒュッ ヒュッ ヒュッ
と音がしたかと思うと、ふと軽くなり鞘が浮いた。
グギャアアアアアアアアアアアア!!!!
ホワイトタイガーが二本足で立ち上がり、叫び声を辺りに轟かせる。
魔物の鼻先には、三本の矢が刺さっていた。
その直後、金の髪を靡かせた女性が大剣でホワイトタイガーを一刀両断する。
頭から真正面に真っ二つに割れ、辺りに血飛沫を撒き散らした。
あれだけ苦戦した魔物を、たった一撃で。
グレイは見覚えのあるその後姿を凝視する。
「ホワイトタイガーの弱点は尻尾と鼻よ。一撃で倒せないのなら、他は傷つけない方が賢明ね。倒せないまでも、鼻を狙えばひるませることぐらいはできたはず。まだまだ勉強不足ね!」
そう言って女性はくるりと振り返る。
「久々に会ったというのに、少々手厳しかったかしら? 逞しくなったわね……グレイ」
「筆頭……大将」
彼女はこの国の軍のトップである、アリシア筆頭大将、その人だった。
かつて、殺されそうになっていた幼き日のグレイを助け出した人物……それが、アリシアだったのである。
そして今回もまた、助けられた。
アリシアは部下に指示を飛ばすと、アンナを見てほんの少し顔を歪ませた。
「つい、さっきよね?」
「は、はい……」
アリシアは症状を見て、外傷性の窒息死だと即座に判断し、軌道を確保する。
そしてアンナの鼻をつまんだところで、人工呼吸をする気だと気づいたグレイは身を乗り出した。
「あなたがやる? 人工呼吸」
「やります!」
グレイが間髪いれずに答えると、アリシアは場所を変えてアンナの胸元に両手を重ね合わせる。
「準備よし」
「行きます」
グレイは大きく息を吸い込み、そっとアンナの唇を塞いだ。
アンナの肺が、送り込まれた空気で大きく膨らむ。
二度膨らんだところで、アリシアが心臓マッサージを施した。十五回を数えたところで、グレイはもう一度アンナに息を吹き込む。
「頼む……」
「大丈夫よ、すぐに帰ってくるわ。はい、次!」
アリシアは簡単に言うが、グレイの心は守れなかった悔しさと、戻ってきてくれという願いしかなかった。
そして、アリシアとグレイによる蘇生措置が三順目を終えた時。
「…………はぁっ!! げほっ、げほげほっ!!!!」
アンナが大きく息を吸い込み、そして激しく咳き込んだ。
(生き……返った……?)
戻ってこいと願っていたというのに、実際に戻ってくると信じられず、グレイはアンナの呼吸を確認する。
(生きてる……生きてる……!!)
ぐっと目を閉じると、大きな息が漏れ出た。急に体が脱力を覚え、へたりと後ろ手を突いて倒れる。
アリシアはそんなグレイを確認し、微笑みながらアンナに目を向けた。
「お帰りなさい、アンナ。あちらのお花畑は、どうだったかしら??」
体を丸めて咳き込んでいたアンナは、ようやくアリシアの顔を確認した。その目が大きく開かれていく。
「か、母さん……! どうして……? 私、お花畑を越えてしまったのかしら……」
「いやぁね、勝手に殺さないでちょうだい。私はこの通り、ピンピンしてるわよ」
「母さん……!!」
母親に抱きしめられ、アンナはようやく生を実感した。
と同時に、一緒にいたグレイを一番に思い出す。
「グ、グレイはっ?」
「そこでへたってるわ。無事よ」
「よ、よかった……」
ぐったりと大の字に寝転んでいるグレイを見て、アンナもまた、安堵の息を吐いた。
「よかった……グレイ……生きててくれて……本当に……」
「悪い……あんたを、守れなかった」
「ううん、守ってくれたわ。……嬉しかった」
アンナの言葉に、グレイは宝物を見るような瞳でアンナを見つめ。
「戻ってきてくれて、よかった……っ」
溢れ出たグレイの気持ちに、アンナは目を細める。
二人はどちらからともなく、互いの手を握り合っていた。