「俺は、アンナを愛してる。お腹の子も、ちゃんと愛し合ってできた俺たちの子どもだ」
愛する彼の真剣な瞳に、アンナは目を細めた。
「ありがとう。あなたが父親なら、この子は必ず幸せになれるわね」
「アンナ。お前のことも、必ず幸せにしてやる」
「私はもう、十分に幸せよ」
アンナが目を細めると、夫となった男は少し悲しそうな顔をした。そして彼は己の唇を寄せ、アンナに押し付ける。がっちりとした腕が、優しくアンナを包んだ。
「なにがあっても、俺はアンナのそばにいるからな」
耳元で囁かれた言葉がくすぐったくて、嬉しくて、頼もしくて。
そして、そう言った直後にいなくなってしまった、かつて愛した人を思い出して。
(私たちは、いつも一緒だった──)
アンナは思いを馳せる。
共に歩んだ者たちのことを。
出会いと、そして大切な人たちとの別れの時を。
愛する故郷を守り、平和に導くと誓い合い。
アンナたちはその目的を達成するために、日々の努力を欠かしはしなかった。
抗争のない、幸せな国にすること。
不当な暴力で苦しめられることのない、皆が笑い合える国に。
それこそがアンナの、そして大切な仲間たちとの、悲願だったのだ──
***
「どうしたんだよ、アンナ。ぼーっとして」
オルト軍学校の食堂で夕食をとっていたアンナに、赤髪赤眼のカールが話しかけた。
「一人か?」
「え? ええ……」
「珍しいな。そのうちグレイとトラヴァスも来んだろ。俺も今日は上がりが遅かったしな」
カールは山盛りに食事を載せたトレーをアンナの隣に置き、豪快にムシャムシャと食べ始める。
ストレイア王国のオルト軍学校の食堂は、隊員が入れ替わり立ち替わり食事をとっていく場所だ。
夕食を終えた者は宿舎へと戻っていて、今はいくらか人が少なくなっている。
「しっかし、アンナとグレイが付き合い始めて一ヶ月か。早ぇよなぁ」
食べながらぼやくように言うカールに、アンナは少しむくれてカールを目の端に入れた。
「付き合い始めたって……私たちは偽装の付き合いだって知ってるくせに」
その言葉に、カールはほんの少し眉を寄せて視線をアンナへと送る。
アンナは、代々ストレイア王国の武将である家の生まれだ。母親のアリシアは現在、王国軍のトップである〝筆頭大将〟という地位に君臨しているほどの人物である。
その母親に三歳の頃から剣を習っていたアンナは、悩むこともなく自然と武の道へと歩んでいた。
しかし、軍というのは基本的に男の世界であり、オルト軍学校でも戦闘班に所属する女子は少ない。そんな中で男顔負けの強さを持つアンナに、やっかむ者やちょっかいをかける者がたくさんいたのだ。
アンナは気にしないという姿勢を貫いていたのだが、大きな心の負担になっていたのは間違いない。それをすべて払拭してくれたのが、同い年のグレイであった。
一ヶ月前の、毎年九月にある剣術大会の時。
決勝でアンナはグレイと当たり、準優勝という結果に終わった。
優勝できなかったアンナに、観客席から罵声が浴びせられる。
『いい気味だ』
『ざまぁみろ!』
『女のくせに粋がってるからこうなるんだ!』
カールが助けに入ろうとすると、友人のトラヴァスが手で制した。
『生半可に助けに入ったのでは、アンナのプライドに関わる』と。
どうすべきかとカールが悩んでいる合間に、グレイがアンナを抱き上げて皆の前でこう宣言したのである。
『この女は俺がもらっていく。悔しかったら奪い返しにきてみろよ!』
野次を飛ばした男たちはアンナのことが気になっていて、しかし自分より強い女が許せなかったのだ。
だからこそグレイはそんな発言で彼らを牽制し、アンナの心を守った。
公式試合直後の大勢いる前で宣言したものだから、すっかり公認の仲となってしまっているが、仲のいいカールやトラヴァスは知っているとアンナは思っていた。アンナとグレイの仲は、単なる偽装の付き合いでしかないのだと。
カールは偽装だと信じて疑わないアンナにまっすぐな赤眼を向け、唇を開く。
「あいつが偽装だっつったか?」
「いえ、そうは言わないけれど……わかるじゃない。あんな状況だったんだもの」
「あんな状況だったからこそだろ。実際あいつはうまいことやりやがったよなぁ! ずりぃぜ」
カールの言う『ずるい』の意味がわからず、アンナは首を傾げた。
口を尖らせていたカールはすぐにニッと笑って、「俺も彼女でもつくっかなぁ」と言って食事を進めている。
(カールなら、すぐに彼女ができそうだわ。顔は整ってるし、明るいし、人の心を汲むのが得意だもの)
学年でいうとひとつ下になるが、誕生日の早いカールは現在十五歳で、今のところアンナと同い年だ。
そんなカールを弟のように感じることもあるが、一人の人としてもアンナは尊敬している。生来の人懐こさもあり、医療班の女子たちにも可愛がられているカールは、誰に嫉妬をされることもなく同性にも人気だ。
「けど、みんなに恋人ができたら寂しくなるわね……」
「んあ? なんでだ?」
「こうして気軽に話もできなくなりそうじゃない」
「んなことねぇだろ。トラヴァスのやつはなんも言わねぇけど、多分オンナいるぜ、ありゃ。でも変わらず俺らと一緒にいんだろ?」
カールの発言に、アンナは目を瞬かせた。
現在オルト軍学校の最上級生で、首席のトラヴァス。頭脳明晰で常に沈着冷静無表情な男だ。アイスブルーの瞳のせいで冷たい印象を持たれがちだが、意外に人情家であることもアンナはわかっている。
だからトラヴァスに彼女がいてもなんら不思議はなかったが、すでに彼女持ちとは思わなかったアンナは純粋に驚いた。
「そうなの? トラヴァスってそういうこと言わないから、知らなかったわ」
「多分だけどな。前からよく演劇のチケットを二枚取ってんだよ。アンナはトラヴァスに誘われたか?」
「いいえ、一度も」
「俺も誘われてねぇ。あの無表情が無愛想を誘うとも思えねぇ。つまり、オンナだ」
「ふふっ。そうね、あの二人が演劇を観ても、まったく盛り上がりそうにないものね」
「だろ? まぁ誰に恋人ができても、俺らは変わらねぇよ。心配すんな」
カールは横目でふっと笑い、結局彼はそれを言いたかったのだと気づいたアンナは、こくりと頷く。
大事な仲間。
カールにトラヴァス、それにグレイ。
彼らと一緒にいられるのは、なにより心が落ち着いた。
「お、来たぜ」
カールの言葉にアンナは入口の方を見ると、グレイがトラヴァスと一緒に食堂に入ってきている。
「ここだ!」
トレーに食事を載せた二人に、カールは手を上げて知らせる。やってきたグレイがカールに向かって、右手の親指と人差し指をくるりとひっくり返した。場所を代われ、の意味だ。
「へいへい。お熱いこって」
カールは向かいに移動し、その隣にトラヴァスが、アンナの隣にはグレイが座る。体格のいいグレイの素直な金髪が、アンナのそばでさらりと揺れた。
「お熱いって……そんなのじゃないわ」
「女王様は俺が目の前にいると、どんな顔をしていいかわからなくなるんだと」
「だって……」
グレイの言葉に少し俯くアンナ。「自覚ねぇんだよなぁ……」とカールがまたぼやくように呟いている。
「あまりアンナをいじめてやるな、グレイ」
「いじめてるわけじゃないんだがな」
トラヴァスに無表情のまま嗜められたグレイは、ほんの少し困った顔をしながら食事に手をつけ始めた。
いつも話題を提供するカールを中心に話が進められていく、四人での食事の時間。
何気ない日常の風景。
それがアンナには愛おしく、心が躍るもので。
この四人が激動の渦に巻き込まれていくことになるなど、アンナは思いもしていなかった。