まず、視覚を奪われた。
着ている服を一枚ずつ、彼女はゆっくりと焦らすように脱ぎ捨てていく。
見てもいいのか、それとも目を逸らした方がいいのか。いや、目を逸らすのは逆に失礼なのではないか。
彼女は間違いなく恥ずかしいと思っているし、今にも逃げ出したいに違いない。
だからこそ、時折視線を感じても僕は決して目を合わせなかった。互いの羞恥を誤魔化す為には、それが一番だと思ったからだ。
そして次に、聴覚を支配された。
くちゅ、っ、くちゅり、――。
敢えて言うならば、それは酷く下品で卑猥な音をしていた。
彼女の指の動きをじっくりと観察しながら、唾を飲み込み喉を鳴らす。今から僕は、夢にまで見た「あれ」を味わうことができるのだ。そう考えると、興奮を抑えられそうにない。
「だめ」
けれども一歩、ほんの数十センチ分、距離を詰めようとしただけ。たったそれだけで止められる。
慌てて視線を上げると、彼女は恍惚とした表情を浮かべたまま首を横に振る。僕は彼女の飼い犬であるかのように大人しく従うが、それは長く苦しい時間と言えよう。
まだか。
もう少しか。
いったいいつまで、おあずけなのだろうか。
目と鼻の先には、今までの人生で一度も味わったことのない「彼女」が一人で致しているというのに、幾ら待てども許可が下りない。
しかしさすがに限界だ。これ以上は我慢できそうにない。
声を上げて抗議しよう。彼女の機嫌を損ねるかも知れないけど、許可を出して貰える可能性もゼロではないはずだ。だから僕は恐る恐る口を開く。そして、
「――あのさ、そろそろ」
「だめ」
勇気を振り絞り、声を絞り出した。
だけどすぐに拒否される。
「今日はまだ、何もさせないし、何もしてあげないから」
今日は、と彼女は言った。
その台詞を耳にした僕は、この日を一生忘れることはないだろう。
興奮と絶望の狭間で悶え苦しむ彼女との特別なひとときを……。
※
「ぜーんぶ、ボツ!」
携帯越しに聞こえる声は、実にあっさりと原稿のボツを告げた。
「ぜ、全部って……本気で言ってます?」
「本気も本気、大真面目だよ! まずさ、焦らしすぎなんだよ。これって一話完結の読み切りなんだから読者の気を引かないと駄目でしょ? なのになんで見せるだけなの? どうして絡みがないわけ? 二話目とか無いんだからさ、さっさと本番しないと駄目じゃん!」
「いやいや、でもキャラクターに感情移入してもらうにはバックボーンとかしっかり作り込んだ方が絶対いいですって」
「バックボーン? 要らない要らない! 一話完結にそんなもんは必要無いから! っていうか
「そ、それは勿論分かってますけど、エロ漫画の中にもストーリー重視の作品も沢山あるじゃないですか。例えば……」
「そんな余裕無いから! うちの雑誌の読者が読みたいのは、とにかくヤッてるシーン! エロいシーンなの! ○○○を×××に△△△△のが見たくて堪らないんだよ! ページ数だって限られてるし、日常シーンに割く余裕はこれっぽっちも無い! まずさ、現実的に考えてみなよ? 一つ屋根の下に年頃の男女がいる状況で、女が一人でヤり始めたわけだよ? で、猿になった男が我慢できると思う?」
「……お、俺ならできますよ!」
「できないね! 絶対にできない! 断言するよ! 茶川君は当然として、この年頃の性欲舐めたら駄目だから! 君も男なら分かるでしょ? 本当は我慢なんてできないって頭の中では理解してるでしょ? だからストーリー云々を言う前に、そもそもこの流れにリアリティーが無いからダメなんだよ!」
「ぐっ、リアリティーが無い……」
「そう、全くない! ストーリー重視のエロで攻めたいんなら、彼女さんと色んなシチュエーションを試して経験値を稼ぐこと! 話はそれからだね!」
「経験値……数をこなせと?」
「そうそう、そういうこと! 今のご時世的に言うなら、魔物を倒して強くなるって感じだね! で、因みにだけど、うちの雑誌が今、君に求めてるものは、残念ながらストーリー物のエロ漫画じゃない! だからめちゃくちゃ上手いこと描けたとしても、何度でもボツにするよ! ってことで、今週中に全部描き直すように! じゃあ忙しいから切るね? お疲れ様でした~」
ツー、ツー、と電話が切れた音がする。と同時に、大きな溜息を吐いた。
「彼女と色んなシチュエーションで……って、いねえよ!」
愚痴がこぼれる。だがそれはどうでもいい。問題点はそこではない。
捲し立てるように言われてしまったが、詰まるところ今のままでは雑誌に載せられないということだ。
今回提出した原稿が問題なく通っていれば、少なからず稿料が入るはずだった。でも結果は惨敗で、残念ながら来週以降へと持ち越されることになってしまった。
原稿がボツになったのは残念極まりない。とはいえ、悲観するほどの時間的余裕もないのが実に情けない。
「彼女はいねえし……っていうかできたことねえし、金もねえし、時間もねえし、どうすりゃいいんだよ!」
俺が住んでるオンボロアパート「ヒガコ荘」は、風呂無しトイレ共同の四畳半だ。こんなところでも住めば都だが、それも全てはお金があればの話だ。
畳張りの床に背を預け、天井へと目を向ける。すると嫌な数字が浮かんできた。
「二万、五千円……!」
うっ、頭が痛い!
嫌な数字が瞼の裏に張り付いて取れない!
二万五千円、それはヒガコ荘の家賃代だ。支払期限は……明日。無慈悲だ。
今の東京で家賃二万五千円は破格の安さと言えるだろう。
しかしながら手持ちは……三百円だし、貯金はほぼゼロだ。俺の記憶が確かならば、恐らく百円にも満たないはず。これではATMの手数料すら払えない。
ってことは、このままだと家賃を滞納することになるわけだ。
「家賃滞納……また白い目で見られるのか……」
実を言うと、先月も家賃の支払いが遅れて大家さんに頭を下げている。故に二ヶ月連続はどうしても避けたいところだった。
ただ、現実は悲しいかな。稿料は一銭も入らない。くそっ!
四畳半に所狭しと置かれた漫画やゲームを売れば多少の金にはなるだろう。だがそれは漫画を描く上で資料として役に立つので、選択肢として挙がることはない。
では、どうする?
それは勿論、決まっている。
残る手段は、一つしかない。
「……日雇いバイト、行くしかないよなぁ」
しかしあれは嫌だ。正直気乗りしない。
何故なら恐いし、それに運が悪ければ怪我をする。
でも、明日までに二万五千円を稼ぐ手段が他にあるか?
そんな割の良い仕事は無いし、仮にあったとしても、他の誰かに先を越されて定員オーバーで門前払いの未来が目に見えている。
そうさ、この世は弱肉強食だからな、俺みたいなか弱き男には生き辛い世の中なのだ。
だから手持ちが三百円しかない以上、背に腹は代えられない。手っ取り早くお金を稼ぐ為には、それしか方法がないってことだ。
「……はあ、仕方ねえ」
面倒臭くも上体を起こして、俺は背伸びをしてみた。
原稿と睨めっこし続けた結果、全身がバッキバキに固まっているので、凝り固まった体を解す意味でも案外丁度いいかもしれない。
そうやって、嫌がる自分自身に言い聞かせるように頭の中で説得を試みる。そのついでに、定期報告も済ませてしまうか。
「財布と携帯……っと」
手早く用意を済ませると、自分以外に誰もいない部屋に向けて「いってきます」と声をかけ、玄関を開けて外に出る。すると、待っていましたと言わんばかりに太陽の光が歓迎してくれた。
ただ、数十分先の未来を思い浮かべると、鬱々とした気分を上げることはできそうにない。
それもそのはず、ヒガコ荘の一ヶ月分の家賃を半日で稼ぐ為に、俺が今から向かうのは、現代社会には似つかわしくない死と隣り合わせの場所だからだ。
そこは、人間や動物とは異なる生物――「魔物」が蔓延る地下ダンジョンだ。