老人養護施設でのクリスマスコンサート当日も、よく晴れていた。朝の9時半、篠原は寒い寒いと言いながら、マフラーに半分顔を埋めて会場にやってきたが、札幌で生まれ育った三喜雄には、空気もそこまで冷たいとは感じられない。
今日のための練習を始めた頃はまだ暑さが残っていた。そう思うと、もう2ヶ月経って季節が変わったのだという、一抹の感慨があった。
「おはよう、2人とも調子はどう?」
黒いウールのコートに身を包んで出迎えた牧野に訊かれて、大丈夫ですと三喜雄は答えた。篠原は、まあまあかなぁ、と低く応じる。
辻井はイベントホールに先に着いていて、ずらりとしつらえられたパイプ椅子の客席のさらに後ろに、2台のカメラをセッティングしていた。3人の若者が彼を手伝っており、辻井の研究室を手伝う学生だと牧野が教えてくれた。
歌手たちの到着に気づいた辻井が、すたすたとこちらにやってくる。
「おはよう、この間録音したデモの分析結果がちょっと面白かったんだけど、聞きたい?」
辻井の思わせぶりな言いかたに慣れているのか、篠原は塩対応である。
「先生が話したいなら聞きますよ」
「何だ、じゃあ片山くんにだけ話そうか……片山くんはいい声の持ち主だってことを、ちゃんと周波数で証明することができたよ」
言われて三喜雄は、そうなんですか、としか答えられない。ぴんと来ていない三喜雄に、辻井は笑いを堪える顔になった。
「自分の声が倍音を持ってるのには、気づいてないことはないね?」
「あ、3回生の時に言われたことがあります」
声に倍音が出ることは、珍しいことではない。だが辻井は、さらに詳しく話す。
「片山くんは非整数次倍音も整数次倍音も持ってるんだけど、整数次倍音が大きいんだね……母音に出る倍音だから、きみの歌詞がわかりやすいことにもきっと影響してる」
ふうん、と三喜雄はよくわからないながらも、録音でそんなことまで分析できることに感心した。横にいる篠原は以前に分析を受けたようで、俺にも両方ともちょっとあるよ、と三喜雄に小声で言う。
「あと、1/fゆらぎと認められる数値が広い声域で出てる」
辻井の言葉に、篠原がおおっ、と反応した。三喜雄はこれには驚かされた。心地良いと人が感じる自然の音、たとえば川のせせらぎなどに含まれるというが、人の声には1万人に1人あるかないかだと聞いたことがある。まさかという思いだ。
「篠原くんの声にも、声域によって1/fゆらぎがあって、もどきレベルなんだけど」
「もどきって何なんすか!」
篠原がすかさず突っ込んだので、三喜雄は思わず笑う。辻井は篠原に苦笑を向けてから、続ける。
「それが、2人が重唱したらあらゆる音域でゆらぎがはっきりと出てくるんだ……これは面白いって、解析してくれた音声学の先生も大喜びで」
「へぇ、そうなんですか……」
感心し続ける三喜雄の隣で、部屋が暖かくて元気が出てきたのか、篠原が朗らかに言う。
「じゃあもう俺たち、癒しのデュオとか組まなきゃダメですね」
「今日は元気な入居者さんの何人かに、きみたち2人の歌を聴いてアルファ波が出るかどうかも測らせてもらうから、いい結果が出たら世の中のためにやるといいな」
辻井の話を聞き、デュオは悪くないなと三喜雄が思ったその時、ハンドベルクワイヤの中学生たちが、ぞろぞろとホールに入ってきた。制服にクリスマスらしい赤いケープをつけ、おはようございます、と順番に元気よく挨拶していく。
辻井と牧野は彼らのリハーサルにもつき合うので、中学生たちに自己紹介した三喜雄と篠原は、廊下を進んだ場所にある会議室に案内された。2人で楽屋として使っていいようだ。
愛想は無いが清潔な小会議室は、快適に暖まっていた。これからドレスリハーサルと、賑やかしになってくれる中学生たちとの打ち合わせがあるので、早速着替えることにする。
篠原は、ガーメントバッグからシルバーグレーのタキシードを出しながら、言った。
「今日、森山のご両親が観に来てくれるんだ」
「へぇ、そうなんだ」
コートを脱いでいた三喜雄は驚いた。おそらく三回忌の法要の時に、この演奏会の話題が出たのだろう。悲しみはまだ癒えないだろうが、篠原のためにも森山の遺族のためにも、いいことだと思った。
「しっかり歌おう」
「何だかんだで、今日は外部からお客さんも割と来るっぽいしな」
篠原に倣い、三喜雄も黒いタキシードに着替え始める。客が多いほうがテンションが上がるので、わくわくしていた。この施設の規模はそんなに大きくないが、入居者とその家族、施設の職員だけでも60人近くになると聞いていた。ハンドベル部の子たちの家族も観に来るだろうし、三喜雄や篠原の客もちょこちょこ訪れてくれそうなので、100席用意しているとのことだ。立派なコンサートである。