三喜雄は泣きながら立ち上がり、歌った。
俺が選んで決めたことだから。高崎のためだけでなく、俺のために。
今も自分の歌う姿を、誰よりも高崎に見てもらいたいのに、三喜雄が彼と連絡を取るすべは無い。高崎が北海道を出て、東京の大学に進学したらしいという情報は得ていた。大学院に合格して東京に出てきた三喜雄は、就職活動をしているかもしれない高崎とばったり出会うことを期待していたが、奇跡でも起きない限りそんなことはあり得ないと、早々に思い知ったのだった。この都市は、たった1人の男性を探すには巨大過ぎた。
「こないだ俺、止まっただろ? あれ、くじらがお嫁さんにしたい人をいつも気にするみたいにさ、あの時俺がちゃんと見張っていれば……ってなったんだ」
三喜雄が半ば呟きにして話すと、同情混じりの声が返ってきた。
「そうだったのか……その子も片山くんも何も悪くないよ」
篠原は真剣な目をしていた。優しいな、と三喜雄は思った。
「篠原くんも、森山くんに申し訳なく思うことないよ……もし俺が彼の立場だったら、きみが今も、自分の居場所を探して一生懸命歌ってるのを見て、嬉しいと思う」
三喜雄の言葉に、篠原は軽く鼻を啜った。
「ありがとう、そうだったらいいな……びっくりさせてほんとごめん、泣いたらすっきりした」
瞼を赤くした相棒は少し痛々しく、やはり高崎に似ていた。三喜雄は後輩のこんな顔を見たことがあった。
――僕はずっと片山さんのファンでいます。あなたの声は、あなたみたいにいつも優しいから。
三喜雄はあの時の夕暮れの光の色や、冷え始めた風の温度を思い出す。高崎は、三喜雄がコンクールの舞台で歌うのを聴きにきてくれた。そしてホールを訪れたその足で、故郷に帰った。別れる前に泣きながら言ってくれたその言葉は、今でも三喜雄の心の支えだ。
その時、篠原が驚きの声を上げた。
「えっ、どうしたんだよ、きみまで泣かないでよ」
差し出されたのは、篠原がリュックから出した彼のハンカチだった。自分でも驚いた三喜雄はそれを受け取り、知らない間に出てきた涙を慌てて拭く。胸の中が熱くなったのを冷やすため、冗談に逃げた。
「……何でハンカチ交換してんだろ」
うふふ、と篠原の笑い声がした。
「めちゃ濡らしたから洗って返すよ」
2人は同時にふう、と息をつき、小さく笑った。そして、静かなひとときを共有する。まるで、海の中で恋バナをして、遠くを見つめるくじらといるかのように。
「歌うのって大変だし怖いな、思わぬところで自分を丸裸にされるから」
篠原の言葉に、三喜雄は同意した。
「ほんとだな……この先何回も、こういうことがあるんだろうな」
「うん……でも俺、この依頼受けてよかったと今は思ってる」
篠原は三喜雄に向かって笑いかける。三喜雄も頷き、笑い返した。そう、今この歌と篠原に出会い、こんな風に練習し語り合ったことは、きっと自分の宝物になる。
音楽に真剣に向き合えば向き合うほど、プロであろうがアマチュアであろうが、楽しいだけでは済まなくなる。歌い続ければ、これからも時々躓いて苦しまなくてはいけないだろう。でもその時、音楽や共演者との出会いが得難いものとなれば、痛みや悲しみは喜びに柔らかく包まれて、その棘を少し引っ込めるのかもしれない。
打ち合わせを終えたらしい辻井と牧野が、ゆったりとした足取りで戻ってきたのが見えた。彼らは窓からイベントホールを覗き、若い歌手たちが落ち着いていることを見て取ったようだった。もしかすると2人は、三喜雄と篠原のために、少し時間をくれたのかもしれなかった。
「客席をどんな風に使うか決めてきたよ」
辻井の言葉に、はい、と答えて、三喜雄は立ち上がった。篠原がそれに続く。
「場当たりにちょっと手を入れようか、2人で動きをよく考えてきてくれたから、基本的にはさっきの感じでいいと思う」
篠原は、さっき歌を止めたことを辻井と牧野に謝った。
「気にしないで、大丈夫ならもう一度最初からいきましょう」
牧野は微笑し、ピアノに向かった。三喜雄は舞台の上手のほうに歩きつつ、窓の外の裸の桜の木が、冬の日射しの中で日向ぼっこをしているのを目に入れる。寒い冬を耐えて、また来春、美しい花を咲かせるのだなと思った。
高崎に出会った頃、グラウンドの桜の花がほころび始めていたことを思い出す。東京よりも春の訪れが遅い北国の高校では、入学式が終わり、在校生が1学年上がって少し落ち着いてから、桜が咲くのだ。するとその時また、高崎の静かな声が脳内に甦った。
片山さんはその声を、他人のために使う使命を与えられているんだと、僕思うんです。
……そんなこと言うなら、将来俺のコンサートに毎回来いよ。
三喜雄は独りで微苦笑した。プロになったら、高崎は自分を見つけてくれるのだろうか。ならば、それをプロを目指す理由にしてもいいのかもしれない。