篠原は呆然としたまま声楽科の同級生と弔問に訪れ、物言わぬ森山と対面した。彼の頭には包帯が巻かれていたが、顔は穏やかで美しく、痛みに苦しんだような痕跡は見られなかった。そのことだけが救いだった。
「信じられないよな、前の日に普通にバイバイって電車で別れてるんだぜ」
三喜雄も一昨年の秋、母方の祖父を見送っていた。10月に本選がおこなわれた声楽コンクールで入選し、その報告をした直後だったので、もしかしたら森山の死と時期が近かったかもしれない。
祖父は80に手が届いていて、入院が決まった時にはもう、長くないことがわかっていた。それでもやはり、いつも自分の歌を聴きに来てくれた祖父が息を引き取った時はショックだった。だから、一緒に歌っていた同い年の友人がいきなり逝ったと聞かされて、篠原がどれだけ衝撃を受けただろうかと思うと、三喜雄は何とも言えない気持ちになる。
「先週の日曜、三回忌の法要だったんだ……あの頃森山と一番長い時間一緒にいた俺が、病院に行って来いって言ってたら……」
篠原は諦めたように淡々と語る。しかし、事実を受け止められないまま友人を見送り、2年しか経たないのだから、心の中が整理できているはずがなかった。
だから先月、無理をするなとあんなに俺に言ったのか。
思い当たった三喜雄は、篠原に胸が痛くなるほど同情し、早逝した見知らぬバリトン歌手を思って、悲しくなった。
「今回『恋するくじら』をもらった時、めちゃ複雑な気持ちになったんだ」
篠原はコーヒーの缶を両手で包んで、ちらっと窓の外を見る。
「でも片山くんと歌ってると楽しいから、頑張ろうって思うようになった……今日も調子はすごくいいんだけど、森山と歌ったらどんな感じになったかなあって、途中から何だかそればっかり頭の中ぐるぐるして……だんだん、自分だけが元気で歌ってることが申し訳なくなってきて、我慢できなくなって」
篠原の大きな目に、新しい涙がじわりと湧いた。それを見ると、三喜雄の鼻の奥までつんとしてくる。今の篠原にどんな慰めの言葉をかけても、無責任なだけだと思った三喜雄は、ゆっくり口を開く。
「俺、篠原くんと練習してると、高校時代の後輩のこと思い出すんだ……美術部だったんだけどピアノも上手くて、音楽室でよく伴奏してくれて……そいつちょっと篠原くんに見かけが似てた」
篠原は驚きを見せ、恐る恐る訊いてくる。
「その子……どうしたの?」
三喜雄は笑顔を作り、篠原の不安を払ってやった。
「あ、たぶん元気にしてるんだけど、いろいろ思い残すことがあって」
コーヒーをひと口飲んでから、三喜雄は高3の夏の話をした。少しどきどきしたが、冷静に話せた。
お盆に入る直前の、あの日。初めて挑んだ声楽コンクールを目前に控えていた三喜雄は、音楽室で高崎に伴奏を頼んで練習に励んだ。その後、高崎は少し描くと言って同じ階の美術室に向かい、三喜雄はグリークラブの練習があるので、音楽室で部員を待っていた。すると件の美術部長が、音楽室の前を通り美術室に向かったのだ。
高崎と部長が美術室で2人きりになることに対し、三喜雄は漠然とした不安を抱いた。しかし、美術部の顧問が続けてやってきたので、大丈夫だろうと思い直した。
すぐに美術部の顧問の大声が廊下に響き、異変を察した三喜雄は音楽室から美術室に駆けつけた。そして信じられないような光景を目にした。部屋の奥で、部長が高崎に馬乗りになり、首を絞めていたのだ。美術室は中から全ての鍵をかけられていたので、三喜雄は譜面台で窓を叩き割って、顧問と一緒に美術室に飛び込んだ。しかし次の瞬間、高崎が必死で手繰り寄せた大きなイーゼルが倒れ、部長はその下敷きになったのだった。
秋の展覧会でどうしても賞が欲しかった美術部長は、高崎が自分を慕う気持ちを知ったうえで、卒業する自分に花を持たせると思って、出品しないでくれと彼に迫った。頼みを断った高崎は、逆上した部長から暴力を振るわれたのである。
高崎と美術部長が教員や警察に語った内容に齟齬は無く、部長は額を数針縫う怪我をしたが、高崎に非は無いはずだった。三喜雄や居合わせたグリークラブの面々も、高崎の正当防衛だと教員に話した。しかし高崎は三喜雄のメールに応えなくなってしまった。
三喜雄は自分を責めた。あの時すぐに美術室に行って、高崎をあの場から連れ出していれば。あの日俺が、一緒に練習したいと言わなければ。あんな奴を庇うのはやめろと、もっと高崎に強く言っていれば。もっと高崎を、しっかり見てやっていれば――後悔の念が止まらない毎日に追い打ちをかけたのは、2学期が始まる前に、高崎が故郷の帯広の高校への転学を決めたことだった。
三喜雄は激しくショックを受けた。もう歌えないと、藤巻の前で泣いた。しかし三喜雄の苦しみを全て聞いた師は、ばっさりと言ったのだった。コンクールを棄権したら、ずっと練習につき合ってくれた高崎くんの好意まで無になってしまう。それに彼がいないと歌えないと言うならば、コンクールや進学以前に、今ここできみの歌は終わりだ。