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第16話

 よく晴れて空気の冷たい土曜日、首に緩くマフラーを巻きながら、三喜雄は本番の会場である老人養護施設に向かった。東京に慣れない身なので、施設の門の前に辻井と牧野、そして篠原の姿を見つけた時は、心からほっとした。

 女性職員が出迎えてくれて、4人は「イベントホール」と呼ばれている部屋に案内された。ホールといっても、グランドピアノのあるだだっ広い部屋という感じで、タイル張りの床や廊下側にずらりと窓が並ぶ様子も、牧野が送ってきてくれた写真の通りだ。

 入居者たちは普段からこの部屋で演奏したり、軽い運動をしたりしているとのことだった。先ほどまで使われていたと見え、室内はほんのり暖かい。この広さでこの作りなので、冬の朝一番などはかなり寒いことが想像できた。

 牧野はピアノの鍵を渡してくれた職員に礼を言い、早速、古そうなグランドピアノの鍵盤蓋を開ける。

「ピアノはいつもきちんと調律してあるし、意外とこの部屋、窓を閉めて人を入れると響きは悪くないの」

「響かないと俺なんか終わりだよ」

 篠原は腕を頭上に伸ばしながら呟く。三喜雄は4日前、アルバイトでホテルのレストランで歌ったばかりだったが、ピアノはともかく歌がちょっと響き過ぎて気を遣ったので、音がもやもやしないならそれでいいと思った。

 2人で軽く声を出して、上手かみて下手しもてに分かれる。前回、篠原の音大で牧野を交えて2回目の練習をした時に、2人ともほぼ暗譜が終わったことは確認できていた。今日は主に、辻井に見てもらいながら本番の場当たりを確認することになっている。

 客席の最前列にあたる場所に5脚のパイプ椅子を並べ、辻井はその真ん中に座った。彼の合図で、前奏が始まり、三喜雄扮するくじらは上手の奥からすぐに舞台に出た。本番は、舞台袖となる衝立を用意してくれることになっている。

 篠原扮するいるかは、下手にあたる部屋の扉から軽やかに登場し、ぶつぶつ言っているくじらを見つける。

 篠原は大げさな芝居はしないが、ダンスで鍛えたしなやかな手ぶりで、いるかの明るいキャラクターを表現する。三喜雄は身体が大きく内省的なくじら像を作りたいので、表情は変化させるが動きはあまりつけないようにした。

 恋のテンションの高さの維持は、まだまだ三喜雄にとって大きな課題だが、篠原と歌うこと自体が楽しく、そのわくわくを投下する燃料にしている。

 自主練習を合わせ3度目の合わせ練習ともなると、離れて歌っていても、三喜雄は篠原の呼吸のタイミングを捉えられるようになっていた。あまり音量は無いが常に正確な音で当たり、ぱんと響きが上に広がる明るいテノールは、一緒に歌っていて心地良い。三喜雄も響きを落とさないようにしながら、バリトンとしてハーモニーの下を支える。部屋の反響は、確かに悪くなかった。

 篠原は小道具として、ピンクのバラの造花を持ってきていた。前回の練習中、例の長い間奏で篠原が三喜雄にバラを渡したのを見た牧野が、いるかがくじらにプロポーズしているようだと言って大笑いしたので、そう見えないように2人でいろいろ考えた。

 恋する相手ができたくじらのために、いるかが花を用意したという設定が伝わるよう、パントマイムをする。彼女に渡せと勧めるいるかに、くじらが驚き戸惑うのを表した。辻井は微笑しながら2人の小芝居を見ていて、特に異議を唱えない。ゴーサインをもらえたと三喜雄は確信した。

 バラを手渡してくる篠原の指先が自分の手の甲に触れた時、三喜雄は彼が心から、自分を気遣い応援してくれているのを感じた。その大きな澄んだ目を見ると、自然と三喜雄の顔に笑みが浮かんだ。

「『そのひとはいつでもすきなときに、ぼくのそばで、笑ったりひるねしたりするのさ』……」

 三喜雄の歌が膨らむと、篠原がそれを肯定するように静かに引き継ぐ。

「『笑ったり、ひるねしたりするのは、とてもいいことだよ』」

 長い音符のハーモニーで、曲が盛り上がる。今からその人のところへ行き、プロポーズをすると宣言をすると、三喜雄はひとつ大きく頷いた。篠原と握手して、バラを手に背筋を伸ばし、大股で下手に向かう。思ったより距離が短くて間が持たないので、本番は部屋の外に出てしまってもいいかと考えた。

 残された篠原は、ペンと紙をジャケットのポケットから引っぱり出した。いるかは、くじらに好きな人ができて、彼がその人に「およめさんになってください」と頼んだことを周囲に報告し、友人代表としてお祝いの招待状をつくるのだ。

 希望に満ちた伴奏と、篠原の透明感のある、うみのみなさん、と呼びかける歌声は、水平線から届く讃美歌のようだった。

「『ほんとうのすきなひとです、いつでも……すきなひとに、きれいだね、といってあげたいので』……」

 何だよこいつ、本気出したらこんなに気持ち入れて歌えるんじゃないか。

 三喜雄は苦笑してしまう。篠原の「きれいだね」は息混じりだが優しく、少し切ないくらいだった。


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