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第13話

 どうして美奈とガチンコで話す羽目になったのかよくわからない三喜雄だったが、彼女は少し愚痴りたいようだった。

「みっきぃの仕事楽しそうでいいよね、でもちゃんと学会のお手伝いなんでしょ?」

「うん、歌声録音されたりするから、俺たちもサンプル扱いだけど」

「私も、勉強になる機会はいただいてるんだけどなぁ……」

 美奈が来月出演するのは、フランス歌曲の研究会の演奏会だった。研究会の開設周年記念の大きなイベントで、パリから来る歌手の公開マスタークラスが開催される。それを受講するメンバーに、美奈は入っていた。その翌日、受講者を中心に、会員出演のコンサートがおこなわれる予定だ。

「マスタークラスも観に行くよ、俺もそういうの受けてみたい」

 三喜雄が言うと、紅茶のペットボトルの蓋を開けながら、美奈はうんざりしたように言う。

「マスタークラスは私も楽しみなの、でも次の日のコンサート、どっちでもよくなってきた……挨拶もまともにしない、感じ悪いベテラン会員とかいるんだよね」

 歌い手は基本的に明るくからっとした人間が多い。と言っても、この業界は嫉妬渦巻く伏魔殿なので、しれっと若手やライバルの足を引っぱる人間は一定数存在する。

「こないだピアノとの合わせの会場の変更があって、嘘情報教えられたの……前日に別の人からそこじゃないよって言われて、事無きを得たんだけど」

 三喜雄も嫌な気分になりながら、お茶のペットボトルをあおった。

「学生にそんなことして何が楽しいんだろうな」

「でも嘘つかれたなんて他の人に告げ口しても、雰囲気悪くなるだけだし……若いからやっかまれてると割り切ればいいんだけど、それを醸し出したら私が感じ悪い人じゃん?」

 美奈は口をへの字にして、首をこきこき鳴らす。

「将来所属するかもしれない研究会だから、悪印象残すのは避けたい……」

 美奈がいろいろ気を回している様子に、狭い業界でプロを目指す面倒くささを三喜雄は再確認する。彼女は笑い混じりに続けた。

「オペラの人なら、あまり何も気にしないでやっていけるんだろうね」

 三喜雄も小さく笑った。オペラ業界のほうが妬み嫉みは大きそうだが、何もかもが勢いでその場限りっぽい。それもどうなんだと思うが。

「俺たまにオペラの人にはついて行けないんだけど、一緒に歌う篠原くんも、オペラはちょっと苦手みたい……実はこないだ、そんな話で盛り上がってしまいました」

 三喜雄の情報に、美奈は明るい顔になった。手をひらひらさせて、ナカーマナカーマと言いながら謎の踊りを繰り出す。

「いや、私サリとか瑠美は好きだよ、あの子たちにはオペラの人の何でもノリで押し切ったり、細かいところをないがしろにしたりする悪習に染まってほしくない」

 サリとは紗里奈のことだが、男を振り回すのを楽しんでいる彼女は、違った意味でオペラの人的である。美奈がその辺りをどう解釈しているかわからないので、三喜雄は黙っておいた。

 紅茶を飲み干した美奈は、ひとつ伸びをした。

「その篠原くんも歌曲の人なら、来年になっちゃうけど、何か一緒にできたらいいな」

 いい考えだと三喜雄も思った。所属する大学にこだわらず、歌いたい人が歌を持ち寄る会も面白そうだ。

「彼、古典派より前の曲が好きみたい……ほんとにやりたいのは古楽らしくて」

 三喜雄が言うと、美奈はえっ! と声をひっくり返した。

「古フランス語は私歌えないかも」

 ロマン派より新しいフランス歌曲が得意な美奈だが、古フランス語という言葉が出る辺り、ルネサンス以前の歌について全く知らない訳でもないようだった。もちろん三喜雄も、中高ドイツ語や古フランス語は歌ったことがない。

「あの時代って面白いカノンとかあるでしょ? 一緒に歌いたいけど」

「ラテン語だったら歌えるけどなぁ……篠原くん、古楽の先生知ってるだろうから、相談してみようか」

 ふと三喜雄は、篠原と一緒に練習していて思ったことを口にした。

「古楽にこだわるだけあって、彼、凄い澄んだテノールなんだ……でも現代の日本歌曲もしっかり歌うから、例えばフォーレとか合いそうな気がするし、歌えばいいと思うんだよな」

 すると美奈は、ふふっと笑った。

「それ、みっきぃも一緒じゃない?」

「え?」

「みっきぃも初期ロマン派より新しい歌、あまり歌わないけど……後期のドビュッシーやリヒャルト・シュトラウスの歌曲とか、プッチーニのオペラ……は嫌でも歌わされるかな、全部歌えると思う」

 意外な言葉を聞かされたような気がして、三喜雄は綺麗に描かれた眉の下に開かれている美奈の目を見た。彼女は続ける。

「人が聴いてる自分の歌って伝わり方が違うし、合いそうな曲の認識も自分と他人で全然違う時あるよね……ま、プロになるなら何でも歌わなきゃだけど」

 プロになるかどうかを置いておいても、たまには他の人の評価を参考に、選曲するのもいいかもしれない。このテーマは面白いので、篠原にも話してみようと三喜雄は思った。



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