5年前の春。
師匠の藤巻が大学の実技試験のために、三喜雄に与えた練習課題は厳しかった。第一志望は国立大だったので、受験勉強を後回しにする訳にもいかない。所属するグリークラブではバスバリトンパートのリーダーを任され、三喜雄は気ばかり焦り、やや鬱屈気味の日々を過ごしていた。
そんな時に、1学年下の美術部員の高崎
帯広出身の高崎は、かの地の冬のように、一見人を寄せつけない雰囲気を持っていた。しかし話してみると優しい子で、頭の回転が速く、何よりも人をよく見ていた。高崎は譜読みがまともにできない三喜雄を手伝い、わかりやすい伴奏で支えてくれるので、音楽面で頼りにするようになった。また三喜雄は彼と話すうち、勉強と歌の練習に追われてごちゃごちゃしている自分の心の中を、手探りながらも整理できるようになっていった。
高崎はその美貌と優秀さで学内では有名人だったが、美術展で次々と賞を獲ったことで、美術部の3年の部長から妬まれ辛く当たられているという噂があった。三喜雄は噂が事実だと証明する場面を立て続けに目撃してしまい、高崎を助けたいと思った。しかし彼は、酷い仕打ちを受けているにもかかわらず、美術部長を慕い続けていた。
賢い高崎がなぜそんな気持ちになるのかがわからず、三喜雄は腹立たしかった。部長の話を持ち出し非難すると、あの人は片山さんほど強くないのだと言い、高崎は話を打ち切ろうとする。
高崎との関係を壊したくなかった三喜雄は、このことに触れないようになった。それでも彼と過ごすひとときからは、いつも何らかの学びがあり、グリークラブの仲間たちと過ごすのとはまた違う、琴線に触れるようなじわっとした楽しさがあった。
しかし美術部内の軋轢に目を背けていた三喜雄は、後で大きなつけを払わされることになったのだ。
専修の歌曲の講義が終わった後、坂東美奈が興味津々といった体で、三喜雄に声をかけてきた。
「ねえねえ、音楽療法の先生のお手伝いで一緒に歌うテノールの子、めっちゃ美形なんだって?」
美奈は篠原の話をしているらしかった。三喜雄は、うん、と素直に肯定した。
「太田さんと北島さんから聞いたのか」
「そう、食堂で掃き溜めに鶴感が半端なかったって言ってた」
掃き溜めで悪かったな、と胸のうちで突っ込みながら三喜雄は苦笑した。それを見た美奈は、三喜雄の考えたことを読んだかのように、違うよ、と目を丸くする。
「みっきぃも鶴なんだから」
「はぁ? 坂東さんもBL読むようになったの?」
「読まないけど、瑠美の言いたいことはわかる感じ」
三喜雄はこの大学院に来てから、北海道の大学にいた時と比べて、自分の立ち位置が少しおかしくなっていることを自覚している。
声楽を嗜むのは圧倒的に女性が多いので、大学時代も現在も、三喜雄たち男声はマイノリティだ。それを逆手に取って、やたらめったら女と交際する者も多いのだが、実のところ、歌を嗜む男子は圧倒的にオタク気質である。特に三喜雄のような、男子校のグリークラブで歌い始めたような人間は、声楽界隈のキラキラ女子たちに馬鹿にされるか、マスコットにされるかの二択しか無い。
三喜雄が卒業した教育大の音楽専修コースの声楽女子たちは、今思えばキラキラ度がましだった。とはいえ、そのパワーに圧倒された三喜雄は、マスコットの立ち位置を適当に楽しむことにした。2回生になって、三喜雄の技術がぐっと伸び、何気に一目置かれ出したことで、同級生の女子たちのあいだでは高級マスコットに格上げされたと思う。
それがこの大学の大学院に来てみると、男声がより貴重な存在になり、更に三喜雄のような外部からの入学者は変に注目を浴びる。それで、オペラコースの2人や美奈は、どうも三喜雄を貴重な生物扱いしているようなのだ。有り難いことではあるが、たまに居心地が悪い。
三喜雄はお世辞にもイケメンではなく、まあおそらくダサメンだが、清潔感は大切にしているつもりだし、超ブサメンではない(と思う)。とはいえ、それだけで明らかに美形の篠原と一緒に鶴扱いしてもらえるのは、どう考えても何かおかしい。というよりも、篠原に申し訳ない気がした。
それをありていに美奈に伝えると、彼女はよく響く声でからからと笑う。
「ウケる、みっきぃのそういう、方向性のおかしい謙虚が好き」
「俺は真面目に言ってるんですけど」
「私もからかってるんじゃないし」
立ち話を続けるのも疲れるので、飲食可能な教室に、自販機で買った飲み物を持ち込む。まだ昼ご飯には早いのだ。