目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第11話

 すると篠原も、軽い戸惑いのようなものを見せる。

「疲れてきたなら無理しないでおこう」

「大丈夫だよ、続きからいこう」

 今日は伴奏者もいないので、最初から全力で歌っていた訳ではなかった。動きをつけ始めたとはいえ、疲れるほど動いたとも思わない。しかし篠原は、薄く眉間に皺まで寄せて、被さるように念を押す。

「駄目だ、休もう」

 どちらかというと静かに話す篠原らしからぬ強い口調に、三喜雄は少し驚いた。それに気づいた篠原もはっとして、美しい茶色の瞳を泳がせる。

「いや、えっと……じゃあとりあえず最後まで行っとく?」

「うん、楽譜に動きの指示があるとこだけ確認しておこうよ」

 三喜雄は努めて明るく言った。長い間奏の楽譜には、「ふたりで何か会話をしている様子をパントマイムで」と書かれていて、辻井に言われなくとも演技を要求されるようなので、篠原がいたたまれなくならない程度の演技を考え始める。

「俺の先生がくじらを歌ったことがあって、その時はいるかが花を用意して、くじらに手渡したんだって」

 三喜雄が話すと、篠原はへぇ、と意外そうに応じる。

「くじらはこれからプロポーズするんだもんな……あ、でも、ここでいるかがくじらに花を渡すのはタイミング的にどうなのかな」

「えーっと、くじらがプロポーズの決心するのってこの後だよな」

 三喜雄は間奏の後のくじらの、優しいメロディを口ずさむ。

「『ぼく、そのひとを、お嫁さんにしようかしらと思う』」

 篠原が正確な音程で、後に続いた。

「『それはいいね、くじら』」

 確かに、タイミングとしては少し早い。2人で少し考える。師はかつて、どんな風に演じたのだろうか。

「うーん、いるかは、『そろそろプレゼントに花はどうだ、花が好きな女は多いぜ』みたいにデートのレクチャーをしたつもりが、くじらが『じゃあこれ持って結婚申し込むわ』って、いるかの予想を超えたとか」

 三喜雄の創作に篠原は声を立てて笑った。

「ウケた、でも原作ってそんな感じだよね……じっと考えるくじらと泳ぎ回るいるかだけど、くじらのほうがたまに大胆」

「あ、本読んだんだ」

 三喜雄もこの物語の原作を手に入れて目を通した。子ども向けのようだが、いろいろなできごとを通じているかとくじらの距離感が少しずつ変化していくのが、読みごたえがあった。

 篠原は学部生時代に、たまたま大学の図書館で見かけて読んだと話す。

「俺は交際の経験が少ないし、友達の恋の後押しもしたことないけどさ」

 篠原は苦笑気味で言った。三喜雄はこの間の練習中の、屈辱的な晒しを思い出す。

「俺だって辻井先生に見抜かれた通りです……でも人の後押しは、高校でも大学でもしたことあるぞ」

「えーっ、片山くん超いい人」

 朗らかな篠原を見ながら、随分と打ち解けてくれたと三喜雄は思った。しかしふと、疲れたなら休もうと言った時の篠原の深刻さを思い出して、微かに引っかかるものを覚えた。

 1時間ほど練習と打ち合わせをして、練習室を出た。校舎から出るともう薄暗くなっていて、篠原を夕飯に誘ってみようかと三喜雄は思ったが、ちょっとまだ馴れ馴れしいようにも感じたので、やめておく。

「じゃあここで、俺自転車なんだ」

 正門の前で三喜雄が言うと、篠原はリュックを背負い直して、うん、と頷いた。

「今日はありがとう、次の合わせで今日決めたことができればいいかな」

「うん、それで先生がたに意見を求めよう……こちらこそありがとう」

 空気が冷え始めて、虫が鳴いていた。駅に向かう篠原の、歌手にしては華奢な後ろ姿を見送る。やはりその佇まいが後輩に似ているせいか、三喜雄は切ないような気持ちになった。

 食事に誘わなかったのは、馴れ馴れしいと思われたくない以上に、篠原の白い顔を見ていると、高崎のことをいろいろ思い出しそうになるのが辛いからだ。それに気づいた三喜雄の唇から、小さな溜め息が勝手に洩れた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?