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第9話

 篠原は嬉しそうだった。先日とは別人のように、快活に自分の音楽遍歴を話し始める。高校2年生の初めに海外研修でカナダに行き、ホストファミリーが通っていた教会の合唱団にヘルプで参加したのが、歌を始めるきっかけだったこと。音大に行きたくて、帰国してから必死でピアノと歌を勉強したこと。カウンターテナーに憧れたけれど、テノールに落ち着いたこと。

 高校生になってから音楽系に進学しようと決めて、3年生の頃に半泣きで練習したのは三喜雄も同じだった。

「みんなが塾で受験勉強やってる中で、自分だけピアノと歌の練習してるのって、何げに孤独感あった」

「それ、わかる……」

 篠原は懐かしそうに言ったが、いきなり怒る猫のように鼻の上に皺を寄せた。

「嫌いなのはオペラだよ、デカい声張り上げてドロドロした歌ばっかり歌わされて」

 三喜雄は篠原の言葉に、思わず笑ってしまう。

「え、バロックも駄目なの?」

「ヘンデルまでは許す」

「狭っ! でも割とそれ同感というか、俺は歌曲コースなんだけど、何でオペラコースの人ってあんなにオペラが好きなのか謎」

 篠原も三喜雄の言葉に笑い声を立てる。

「だよね? すぐに恋に落ちたりもう死ぬ死ぬって嘆いたり、登場人物も大半が馬鹿だけど、そういう歌を思いきり歌いたいのもちょっと頭悪いんじゃないかと思う」

 歌の内容は古楽も歌曲も変わらない気がしたが、顔に似合わない篠原の暴言が止まらないので、三喜雄は爆笑した。そのせいで、そのオペラコースの女子たちがこちらに向かってくることに気づくのが遅れてしまった。

 彼女らの視線は、三喜雄の前に座る見知らぬ男性に固定される。彼の暴言は聞こえていなかったようなので、三喜雄は密かにほっとした。

「みっきぃ、お疲れ……どちらの美青年?」

 同級生のソプラノ、太田紗里奈が、丁寧に塗られたマスカラで倍増しになった睫毛をゆったり揺らして、覗きこんできた。彼女は可愛らしく歌も飛びぬけて上手いが、肉食で有名だ。

 紗里奈から軽くロックオンされている三喜雄は、あまり親しさを醸し出さないように気をつけつつ答えた。

「お疲れさま、音大の院の……俺たちと同いだよ、12月に一緒に歌うんだ」

「へぇ……テノールですか?」

 自分に興味津々の紗里奈に訊かれた篠原は、さっきまで毒を吐いていたことをおくびにも出さず、愛想よく自己紹介する。すると紗里奈の隣にいた、やはり同級生のソプラノの北島瑠美が、ラメの入った桜色のネイルを爪に施した両手を合わせて、思い出したように三喜雄に言った。

「あ、美奈から聞いた、変わった曲やるんだよね?」

「面白いデュエットだよ」

「本番老人ホームだっけ? 観に行きたいな、みっきぃと篠原さんだと萌え画像になりそうだもん」

 三喜雄は瑠美の発言に首を捻った。彼女はボーイズラブ愛好家で、たまに自分の周辺の男子を妄想の餌食にしているという噂だが、どうもそういう意味らしい。この場で強く否定するのは何となく篠原に失礼な気がしたので、そこはスルーしておいた。

「外部の人を多少呼んでもいいみたいだから、仕切ってる先生に言っとく」

 華やかな2人は、ありがと、楽しみにしてる、と明るく言いながら食堂を出て行った。彼女らに微笑しながら会釈した篠原が、ぷっと笑う。

「みっきぃって……」

 三喜雄もそう呼ばれて嬉しい訳ではないのだが、声楽の世界は圧倒的に女性が優勢なので、男子がマスコット扱いされても仕方がない。

「前期の試験前くらいから定着してるんだ……あ、2人ともオペラコース」

 篠原は彼女らを見送る視線を三喜雄に戻した。

「ぽいよね、でもこの大学の院ともなると、ただのおバカじゃない感じがする」

「そう? おバカとまでは思わないけどあれは地だよ」

「そうか……うちのオペラコースの女子と共通項が多そう、2分でわかった」

 2人で笑った。三喜雄はオペラコースの連中が嫌いなわけではないが、教員を含めたオペラ至上主義の空気感にたまにうんざりするので、思わぬところで同志を得て、楽しい。


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