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第8話

 篠原は約束の日の放課後、時間通りに芸大のキャンパスにやって来た。帰宅する学生たちを見送りながら、三喜雄は正門前で彼を出迎えた。暮れかけた太陽の光の中で見ると、篠原の髪の色は三喜雄のそれよりも明るく、髪も瞳も真っ黒だった後輩とは違う。しかしやはりその佇まいは、懐かしい人に似ていた。

 三喜雄は篠原に、穏やかな気持ちで挨拶する。

「こんにちは」

 篠原はリュックのショルダーストラップを握りながら、先週とは打って変わってもじもじしていた。

「お疲れさま、その……押しかけて申し訳ない、1回来てみたくて」

 この大学は、日本全国の芸術家志望の若人の憧れである。篠原の言葉に嘘は無いのだろう。北海道の大学の先生がたや藤巻がやたらと勧めたからというだけで、ここの大学院を受験した三喜雄ではあるが、雰囲気は確かに良いと思う。

 大きなイチョウの木々とレンガ造りの古い校舎を物珍し気に見つめる篠原を、三喜雄が先導した。

「俺も今年初めてなんだけど、これからイチョウが色づいたら綺麗らしいよ……篠原くんとこみたいに、小洒落たカフェとかは無いなぁ」

「いいよ、雰囲気楽しみに来たから」

 向かった音楽学部の食堂は、もう空いていた。コーヒーを買い、窓際に座る。

「で、次回の合わせまでに、2人で練習したほうがいいかなって話?」

 三喜雄はコーヒーフレッシュの蓋を開けながら、すぐに本題に入った。篠原はコーヒーに砂糖とフレッシュを入れ、言いにくそうに口を開く。

「あの、この間は本当にごめんなさい……片山くんが俺と歌うのが嫌なら、そうはっきり言ってくれたらいいから」

 「この間」から10日ほど経つのに、嫌だったらこんなところで顔を突き合わせて、茶を飲みながら練習の話なんかしないのだが。三喜雄は少し可笑しくなった。周りと距離を取りたがると辻井はメールに書いていたが、目の前の美貌の男性は、人づきあいそのものが得意でないのかもしれない。

「俺はこのままいけばいいと思ってる、篠原くんとイメージの摺り合わせもするし」

 三喜雄が言うと、篠原は長い睫毛を伏せた。

「そう? ありがとう……」

 今日はぴりついていない彼に、三喜雄は単刀直入にアプローチすることにする。

「ちょっと訊きたいんだけど、この曲は嫌い?」

「嫌いじゃないよ、ただ……あまり得意でない系統の曲に練習時間を取られたくなくて」

 篠原はあっさり答えた。嫌いじゃないけど得意じゃないなら、尻込みするかもしれない。彼の言葉を聞き、三喜雄は気になっていたことを尋ねるきっかけを得る。

「この間、あの系統の曲が不得意だとは思えなかったけど、どんな曲が得意なの?」

「あ、俺……バロックより前の音楽がやりたいんだ、専攻のコースには無いから……海外で勉強したい」

 なるほど、と三喜雄は、篠原の大きな目を見ながら思った。宗教曲が似合いそうだと感じた第一印象は、大きく外れてはいなかった。篠原のやりたい音楽は「古楽」と呼ばれる。教会で歌われネウマ譜で残された宗教曲が中心だが、全く古さを感じさせない、魅力的な俗謡などもある。

 辻井の言う通り、古楽は特殊な分野だった。芸術系大学でも概論しか教えてもらえず、音楽史の一環で学問として取り扱われている印象だ。日本に専門家があまりいないために、リコーダーやリュートなどの古楽器の演奏や、ヴィブラートをかけない歌唱法は、本格的かつ実践的に学ぶ機会が少ない。

「えーっと、ジョスカン・デ・プレとかダウランドとか? モンテヴェルディはちょっと新しいのかな」

 三喜雄も古い音楽は嫌いではない。これまでにかじったルネサンス期の作曲家の名を思いつくまま挙げると、伏せられがちだった篠原の目が、ぱっと三喜雄を見た。

「そうそう、何ならマショーとか、もっと古くてもいい……片山くんは古楽は興味無い?」

 マショーは名前を聞いた覚えがある程度だが、そこは深入りしないでおく。

「高校のグリーでヴィクトリア演ってすごい面白かったし、ダウランドが好きな先輩から学部生時代にいくつか教えてもらって、メロディ綺麗でいいなと思った」

「ああ、ダウランドいいよね、俺も好き」


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