とはいえ、何にせよ、篠原の態度が大人げないのは揺るがない事実だ。同情を覚えたといって、共演に積極的になれるかと言えば、そうではなかった。
『人としても歌手としても、篠原くんがひと皮剥けるきっかけになるかと考え、今回あの曲を渡したのですが、先週のような歌が続くのならば彼を降ろします。また、片山くんが彼とは歌えないと思うなら、いつでも遠慮なく私に申し出てください。』
自分に決定権があるらしいと知った三喜雄は、逆に困惑する。
同じ楽譜を一緒に歌うという作業に関してだけ言えば、決して嫌な訳ではなかった。篠原は音程が正確で、くどいヴィブラートの無い美しい声の持ち主だ。
篠原の声が三喜雄の声と良くブレンドする感じがあることも、大きなメリットだった。歌や吹奏楽器は音に個性が強く出るため、複数の奏者が各々どれだけ正確なピッチで演奏していても、響きが上手く溶け合わないことがある。「声がよく合う」ことは、国見も言ったように、重唱をするときにとても大切だ。
三喜雄は返信のページを開いた。まず辻井に連絡をもらったことに対する礼を述べ、少し迷ったが篠原にアドレスを教える許可を出した。篠原が謝りたいというなら、とにかく聞こう。少し面倒だが、決定権のある人間の義務だと考えることにする。
今朝炊いておいたご飯を温め、冷蔵庫の中にあった残り物で簡単な食事を作った。ニュースを見ながらそれを口にしていると、スマートフォンが震えた。篠原からのメールだった。三喜雄は箸を止め、ちょっとどきどきしながらフォルダを開く。
『こんばんは、篠原圭吾です。先週はありがとうございました。またあの日、失礼な発言や態度が私にありましたこと、心からお詫びいたします。』
想定外にはっきりと謝罪が記されたメールに、どう返事したらいいのか、三喜雄は迷う。先週の自分の態度を反省しているのを知り、もうおまえとは歌わないと切り捨てる気持ちはほぼ消えていた。しかし、あの日のことは気にしないで、というのは違うと思うし、辻井先生からきみの事情を聞きました、というのも好ましくない。
『こちらこそありがとうございました。差し支えなければ、本番まで今後ともよろしくお願いします。』
極力感情を排してそう返すと、やり取りは終わったようだった。ふと、高崎なら気の利いた返事を寄越すところなのに、と思う。彼は文章巧者で、メールに泣かされたこともあった。ちょっと似ているというだけで、あの何でもできた天才タイプの後輩と比べては、篠原が気の毒だろう。それも三喜雄の勝手な気持ちでしかないのだが。
食器を洗い片づけ終わると、新着メールに気づいた。篠原からだったので、思わず、おっ、と三喜雄の口から音が出る。
『こちらこそ、よろしくお願いいたします。早速ですが、来月の合わせまでに、一度会って話しませんか? 曲をどう仕上げていくかなど、大まかに決めたいと思っています。』
意外なやる気を見せる篠原のメールを、三喜雄は思わず読み直した。彼が学びたい特殊な音楽とは何かわからないが、「恋するくじら」がそれに沿わないから、あんなにつまらなさそうに歌っていたのだろうに。
とはいえ拒絶する理由は無いので、三喜雄が了解する旨を返信すると、篠原は来週水曜の夕方から会えないかと問うてきた。
『私の都合で申し訳ないのですが、当方水曜日は午前中しか授業が無く、市ヶ谷の自宅に14時には帰れます。片山さんのご都合をお知らせください。合わせられるようであれば、そちらの大学に伺います。』
実は三喜雄はまだまだ東京がわからない。篠原の暮らす市ヶ谷が、三喜雄の大学のある上野とどれくらいの距離なのかがぴんと来ないのだが、彼がこう言うからには近いのだろう。急な話ではあるが、せっかくなので彼の好意に甘えることにした。
『わかりました。水曜日は私は4限に授業があるので、16時40分頃に大学の正門に来ていただいてもいいですか?』
水曜の夕方以降は自主練習などのために空けているため、ちょうどいい。篠原は三喜雄の提案に対し、了解しました、とすぐに返信してきた。
篠原の態度の豹変ぶりが、何となく可笑しい。あの後、辻井や牧野に絞られたのかもしれない。こうして篠原と個人的にメールのやりとりをすると、非常識な人間だという感じはしないので、あの日練習の直前に、篠原が気分を害するような何事かがあり、三喜雄に八つ当たりしたということもあり得る。
よく考えると、三喜雄もあの日は彼に結構酷いことを言ったので、直接会うならきちんと謝ろうと思った。全くもってお互い様だ。
三喜雄は手帳を出して、来週のカレンダーに「16:40篠原」と書きこんだ。何となく楽しくなった。