翌週、杉本教授に進捗の報告をすべきだと思った三喜雄は、授業が終わった後に彼を捕まえた。当たり障りのない話にまとめようとしたのに、杉本は笑いそうになりながら、廊下で三喜雄に言った。
「共演者にキレたんだって? その片山くんが見たかったなって、昨日教授会で皆で話してたとこだよ」
最低だ。三喜雄はあ然とした。辻井が練習初日の様子を、杉本に報告することは予想していたが、杉本はそれを何故他の先生がたに拡散するのか。完全に楽しまれている。
「それで? もう辞める?」
杉本の言い方がやや腹立たしかったが、いえ、と三喜雄は軽く否定した。
篠原のほうこそ、辞めると申し出ていないのだろうかと、三喜雄は不思議に思っていた。 あの日彼は、最後まで不機嫌を隠そうともしなかった。そんなに嫌なら、彼は普段から辻井や牧野と大学で顔を合わせているのだから、とっとと辞めると言いそうなものなのだが。
考えているうちに、あの日の気まずい空気を思い出して不愉快になってきた。篠原を大切な後輩に似ていると思ったことが、後輩に申し訳なく、恥ずかしくなる。
「私からは辞めると言わないつもりです、いい曲ですし、研究のお手伝いですから」
三喜雄の言葉に、杉本はにやりと笑った。
「片山くんのそういう切り替えは、プロ向きだね……共演者とウマが合わないなんてことは、これからいくらでもあるから」
三喜雄は何も答えなかった。
杉本いわく、音楽研究科の全院生の中で、プロになることを明確な目標にしていないのは、三喜雄だけだった。別に粋がっている訳ではない。歌で食べていけるほどの実力も胆力も自分には無いと考えているからだ。歌は続けていきたいが、主たる収入は教職で得ようと考えていた。自分の技術や音楽的な知見を磨いておけば、教える時にも役に立つ。辻井のようなキャリアチェンジ、あるいはキャリアのスライドも、ちょっと魅力的だ。
一般文系や理系の院生は研究者を目指すことが多いだろうし、芸術系の院生がプロを目指さないという考えは、確かにおかしいとは思う。しかし芸術家として食っていく者の枠は非常に限られているのだから、そこに自分が入る可能性を信じて疑わない同級生たちのほうが、ちょっとどうかしている。三喜雄はそう思っていた。
自主練習をしてからアルバイト先のドーナツショップに向かい、閉店作業が始まると、忙しさに追われていた時間が少し緩む。昼間杉本には辞めないとぶち上げたものの、次回の練習で篠原圭吾に会った時、果たして一緒に歌う気になれるだろうか。食洗器に入れるカップやソーサーを予洗いしながら、三喜雄の気分が重くなり始めた。
共演者とウマが合わなかったとしても、出演料をもらう以上は、本番までに曲を仕上げ、滞りなく舞台に上げる義務がある。それはプロでもアマでも同じだ。ただ、あの曲の性質からして、気の合わない者同士が歌うと上手くいかないような気がする。
三喜雄は勝手なことを考えていた。
俺はあの歌を歌いたい。篠原はあの歌そのものが気に入らないっぽいことを、確か牧野さんは練習が始まる前に口にした。だったら、あっちが辞めると言ってくれたらいいのに。
アルバイトを終えて1Kの自宅に帰ると、辻井からメールが来ていた。キッチンに立ったまま、スマートフォンでメールボックスを開く。彼は先週の練習をねぎらってくれた上で、篠原にメールアドレスを教えていいかと訊いてきた。えっ、と三喜雄は驚いたが、続く文章にとりあえず目を通す。
『篠原くんが、この間のことを謝りたいのだそうです。片山くんが構わないのであれば、話を聞いてやってほしいと私からもお願いします。』
ふうん、と三喜雄はひとりごちた。まあ、拒絶することもないだろう。辻井のメールは続く。
『篠原くんは特殊な音楽を学びたいと希望しています。それで、声楽専攻の他の院生とあまり話が合わないらしく、彼自身の性格もあるのか、誰に対しても距離を置きがちです。』
そうなのか。三喜雄はそれを読み、これまで篠原に対し抱いてきた悪感情の中に、色の違う物質が混じり始めたのを感じた。初めて一緒に歌う人間に対してあんな態度を取るなら、普段顔を合わせる人間にもつんけんしていてもおかしくない。でもそれが、周囲と考えが違うことで生じる孤独感からきているものだとしたら……三喜雄も軽くではあるが、似たような気持ちを抱いているので、多少理解できる。