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第5話

「『くじらの、ゆうじんだいひょう……いるか』」

 穏やかな下降音形で曲が終わると、ピアノの残響が消えないうちに、思わず三喜雄は右に立つ篠原を見た。彼の目の高さは、三喜雄よりほんの少しだけ低い。すると篠原も、嫌なものを見るように、三喜雄に向かって大きな目を眇める。

「気持ち悪いんだけど」

 その言葉に、文字通り三喜雄の頭の中で何かが切れた。

「はぁっ?」

「もっとスマートに歌おうよ」

 篠原のうんざりしたと言わんばかりの口調にかっとなった三喜雄は、言葉をオブラートに包めなくなる。

「そっちが一本調子過ぎなんだろ」

 はいはい、と立ち上がった辻井がすぐさま間に入った。牧野は無責任にも、ピアノの前で笑いを堪えている。

「これは篠原くんが良くない、譜読みができてるならどんどん色を入れていこうよ」

「色を入れるって、必要以上にリットしたり歌詞の摩擦音を強調したりすることですか?」

 篠原に自分の歌い方を批判され、三喜雄は頭にきて言い返した。

「ひたすら楽譜通りに滔々と音を出すだけなら、中学生でも出来るよな!」

 篠原は三喜雄に鋭い視線を送ってきた。目力が強いところまで、高崎に似ている。その迫力に押されそうになったが、人前で歌うことが決まっている以上、引く訳にはいかない。

「何の歌かわかってんのか? どんなキャラを歌ってる訳? 奥手な友達が好きな子に告りたいって相談してきて、背中押してやった経験とか無いの?」

 三喜雄が捲し立てると、篠原が何か言う前に辻井と牧野が同時に笑った。本番まで時間の余裕も無いのに、笑い事じゃねえだろが、と怒鳴りそうになる。

「片山くん、落ち着いて……きみの言うことはもっともだ、片山くんはどちらかというといるかタイプなのかな」

 辻井に宥められ、三喜雄は冷静さを辛うじて取り戻す。そして軽い羞恥心の中、考えた。

「いえ、いるかのシチュエーションは経験ありますけど、俺個人はくじら的じゃないかと」

 牧野は口を出さないが、楽しそうである。それはいいね、と辻井は言った。

「……じゃあもうきみには欲を出すよ、好きな彼女の話をするパートなんかで、恋のときめきがちょっと足りない」

 えっ、と呟き、三喜雄は固まってしまった。辻井は続ける。

「せっかく色気のある声なのに、恋愛経験の貧しさが透けて見えちゃったかな」

 三喜雄は赤面したことを自覚した。

 いや、確かに貧しいけど、ここで晒されることか?

「辻井先生、それは言い過ぎ」

 牧野は遂に口を挟んだ。彼女は笑いを引っこめて、三喜雄のほうを見る。

「初回だから仕方ないよね……ただこの曲、くじらは最初から最後まで恋にハイテンションであってほしいな」

 なるほど、と三喜雄は思った。くじらの使う言葉がどちらかというとおとなしく内省的なので、やや解釈違いだったかもしれない。牧野は続けた。

「もしほんとに恋愛の経験が少ないのなら、他にときめいたことを思い出して、燃料を投下し続けて」

 三喜雄は素直に、はい、と応じたが、篠原の無感情な歌のせいで集中力を削がれたせいだとも思った。

 この場の雰囲気から察するに、辻井と牧野は、篠原が無愛想に歌うことを予想していた様子である。その上で、三喜雄がどんな反応を示すか観察していたのだ。ちょっと食えない人たちのようなので、気持ちを締めてかからなくてはいけないと三喜雄は思った。

 その後、まず楽譜をきっちり読もうということになり、三喜雄は淡々と譜面通りに歌った。

 さっきはすっかり頭にきてしまったけれど、こうして一緒に楽譜をさらうと、篠原の声と自分の声は綺麗にハモると三喜雄は気づく。彼は日本語も上手で(日本語の歌が苦手な歌い手は多い)、歌詞が多い中で大切な言葉を聞かせる技術もあった。

「うんうん、2人ともリズムや音は大丈夫だな」

「音程もいいから、ぱちっと嵌まったら綺麗ね」

 辻井も牧野も、歌手たちが譜読みをきちんとしてきたということで、2時間弱の練習でOKを出した。キレたあまりに、出演の辞退という言葉が脳内を掠めていた三喜雄も、落ち着いてきて考え直す。

 オペラではないのだから、篠原があまり色をつけたくないならば、大げさな芝居をしなければいいだろう。緩急のタイミングをしっかり揃えられれば、突っ立って歌っても、音楽が場面を動かしてくれる。とてもいいピアノも助けてくれることだし。

 そう見通せたので、三喜雄はようやく安心して、肩の力を抜いた。不機嫌なテノール歌手は、最後まで遂にひと言も発さなかったが、放置しておいた。


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