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第4話

 三喜雄は牧野に意識を向け直した。一緒に歌う人間もさることながら、伴奏者は歌手の命綱を握る大切な存在である。歌い手は伴奏者がいなければ、人前で歌うことさえ叶わない。

「片山です、こちらこそよろしくお願いします」

 三喜雄が頭を下げると、彼女は笑顔になり、早速ピアノの傍に2人の歌手を導いた。彼女はコレペティテュア、つまり伴奏をしながら、必要であれば指揮や演者の指導もする立場の人である。これから本番まで、主に牧野が歌手たちの技術的な面倒を見るということらしかった。

 牧野に手伝ってもらい三喜雄がウォームアップをする間、既に発声練習を済ませていた篠原は、楽譜を睨むように見つめていた。

「じゃあ一度通してみようか」

 楽譜を手にそう言った辻井の眼鏡の奥の目が、少し厳しくなったように見えた。辻井は現在は座学の学者だが、この音大の作曲科を出ていて、舞台演出も少し齧ったと話していたので、ごまかしの利かない指導者になりそうである。三喜雄は緊張感が身体じゅうにみなぎるのを感じた。

 歌手たちがピアノの前で楽譜を開くと、牧野は鍵盤に手をかざし、流れるような明るい前奏を弾き始める。篠原が緩やかな伴奏に乗り、「いるか」のパートを歌い出した。

「『くじらは、独りごとをいうようになった……すきなひとが、できたからだと思う』」

 三喜雄がこれまで出会った同世代のテノールの誰よりも、澄んだ声だった。身体が細いせいか、音量はあまり大きくないのだが、響きが高い。宗教音楽が似合いそうな声だ。

 三喜雄も丁寧に「くじら」の歌に入った。この間口ずさんだ美しいメロディを和音だけで盛り上げてくれる牧野の伴奏は、歌いやすかった。彼女のピアノは、リズムが安定していて音がクリアで、その後も速度や拍子の変化の瞬間を直感的に捉えることができた。おそらく三喜雄がこれまで知る伴奏者の中でも、ベストに近い気がする。

 しかしテンポが上がり、2人の歌が掛け合いになる部分に入ると、三喜雄は何となく歌いにくさを感じ始めた。乗り切れないのだ。伴奏は滑らかだし、篠原のリズムも正確で、むしろ三喜雄のほうがたまに危なっかしいくらいなのに。

「『あのひとが笑う声を聞くと……ぼく、詩がどんどん書けるよ』」

「『そうだろう、そうだろう』」

 テンポがくるくる変わり二重唱が盛り上がる場所で、三喜雄はようやく気づく。篠原の歌に、全く感情が入っていない。丁寧に歌っているが、楽譜に指示された以上の動きが一切無く、息継ぎの音もほとんど聴こえない。だから、合わせ辛いのだ。

 重唱は、メロディを担う高音パートが音楽を引っぱらないと、もたついてしまう。バリトンの三喜雄がテノールの篠原よりも先に動くのはよくないのだが、そうしたくてたまらなくなった。個人レッスンの時は、国見がいるかのパートを生き生きと歌ってくれていたので、こんな事態になるとは想像もしなかった。

 三喜雄は次第にイライラしてきた。くじらが初めて恋らしきものを知り、友人のいるかに励まされ一歩踏み出す決心をするという物語が、この二重唱の柱だ。オペラのデュエットほど濃くはないが、登場人物のキャラクターも存在するので、くじらとして多少役作りもしてきたつもりだった。それなのに掛け合いをひたすら無感情に返されるので、気持ちを入れて歌っている自分が馬鹿みたいに思えてくる。

 左手に座る辻井が苦笑したのが、三喜雄の視界に入った。

 わかってるなら、止めて何とか言ってくれたらいいのに! 何の罰ゲームなんだよ!

 いけない、と三喜雄は腹立ちを自制し、緩やかな長い間奏で気持ちを立て直そうと試みる。本来2人でパントマイムをする部分だが、篠原は何らかのアクションどころか、楽譜を見つめたままである。これで動きをつけられるとは思えず、先が思いやられた。

 これから恋人の許へ行くくじらの譜を何とか最後まで歌い切ると、三喜雄は疲労にしゃがみこみそうになった。ひとつ息をつき、曲を締めるいるかのソロを聴く。

「『うみのみなさん……くじらに、すきなひとが、できました』……」

 篠原の声は彼の容姿と同様に美しかったが、やはり楽譜通りに音を出しているだけだった。宗教曲でもこれではアウトだ。淡々と続く歌に、三喜雄の苛立ちが沸騰する。

 俺ならその「きれいだね」を、もっと優しく置くぞ。


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