東京に出てきて以来半年間個人レッスンを受けている、
三喜雄と同じハイバリトンの国見は、この曲を引退直前に舞台に上げたと教えてくれた。まだ三喜雄は国見とそんなに私的な話をしないので、現役時代の話を具体的に彼の口から聞くのは初めてだった。
「いい曲をもらったね……作曲の平田あゆみさんはソルフェージュの教材も作ってる人だから、無茶な音形は無いし、メロディラインに乗って伸び伸び歌えばいい」
確かにそのようだった。三喜雄の苦手な、現代曲のとっつきにくさが無い。国見はそう言っておきながら、さりげなく釘を刺すことも忘れない。
「ただし全体を通して楽譜は難しいよ、歌詞がお客さんに聴こえないと全く意味がないから、リズムと発音をしっかりね」
テノールとの相性もポイントだと国見は言った。音質が合えば、ハーモニーをつくる部分がとても美しく、大げさな演技をしなくても、テノールの「いるか」とバリトンの「くじら」が気の合う友人同士であることが伝わるという。
これまで国見は、三喜雄が誰かと演奏すると話してもいろいろ尋ねてこなかったのだが、珍しく共演者について興味を示した。
「どんな歌手が来るのかな?」
想定外の問いかけに、え? と三喜雄は思わず言った。
「俺と一緒で院の1年目で、モーツァルトとか古い目の曲が得意なんだそうです」
辻井から教えられた通りに三喜雄は伝えた。国見は微笑して頷く。
「じゃあ片山くんと合いそうだな」
「……だったらいいなと思ってます」
三喜雄も古い時代の曲のほうが好きだし、得意だ。何となく楽しい気分になって、答えた。札幌の師匠の許を離れ、国見に習い始めて初めて打ち解けて話せた気がする。
国見は手帳を開いた。
「12月に国立の老人ホームって言った?」
「はい、名目はクリスマスコンサートなんだそうです」
国見は弟子の本番の日をチェックしていた。外部の客を呼んでいいのか、辻井に確認しようと三喜雄は思った。
相棒となるテノール歌手との初顔合わせのために、三喜雄は土曜日に国立市に赴き、駅前の音大のキャンパスに足を踏み入れた。単科大学なので、美術学部がある三喜雄の大学に比べると学校自体の規模は小さいのだろうが、新しい大きな校舎がとにかく壮観である。
校舎の中では、そこかしこからピアノや管楽器の音が漏れ聞こえていた。週末に学生が練習室に籠るのは、三喜雄の学校と一緒だった。慣れない建物の中できょろきょろしながら、何とか辻井に指示された練習室に辿り着く。扉をノックして押し開けると、中には辻井の他に、細身の若い男性と、華やかな雰囲気の年齢不詳の女性がいた。
三喜雄は窓際に立っていた若い男性の佇まいに、どきりとした。一瞬、知っている人かと思ったからである。
にこやかに三喜雄を迎えた辻井が、まずお互いを紹介する。
「テノールの
そのテノール歌手は、三喜雄の高校時代の後輩に雰囲気が似ていた。
「初めまして、片山です……」
三喜雄はどきまぎしながら挨拶した。篠原の大きな目や、髭が生えることが想像できない白い頬のラインが、当時の高崎を彷彿とさせる。
しかも高崎同様、華奢だ。三喜雄もそんなに身体は大きくないが、こんな細い胴体で、どんな歌を歌うのだろうかと興味が湧いた。
「篠原です、よろしくお願いします」
にこりともせずに、美しいテノール歌手は言う。そこは、いつも口許に微笑を湛えていた愛想の良い後輩と全く違った。自分の態度が彼を不愉快にさせたのかと思い、三喜雄は困惑する。すると、女性の低い声が耳朶を打った。
「篠原くん、曲目に不満があるとは聞いたけど、初対面の共演者にその態度はいただけないわよ」
静かだが厳し目に篠原をたしなめたのは、彼の横に立つ華やかなピアニストだった。
「牧野です、よろしく」