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第2話

 辻井は左脇に置いていた鞄を開けて、クリアファイルを出した。こちらの予定も訊かれていないのに楽譜を見せられるとは思わず、三喜雄は一気に焦る。

「あっ、あの、待ってください……12月は今のところ暇です、でもどうして俺……私なんですか?」

 辻井は眼鏡の奥の目を丸くした。三喜雄はほとんどおろおろする。

「そちらの大学に、私なんかより上手い人が沢山いらっしゃるかと思うんですけれど」

 辻井と杉本が、三喜雄の発言に同時にぷっと笑った。

「面白い子ですね」

「謙遜じゃないですよ、無欲で自己評価低めだからね」

 三喜雄には杉本の意見に納得しかねる部分があったが、辻井はなるほど、と笑いながら、クリアファイルを三喜雄に差し出した。中に挟まっている楽譜には、そこそこ厚みがある。

「私は音楽療法の研究もしています、片山くんの声には独特の魅力がある……それが今回きみに歌ってほしいと頼む理由です」

「音楽療法……」

 よく耳にするのに、これまで自分に全く関係の無かったその言葉を、三喜雄は反復する。辻井はにこやかに続けた。

「今回片山くんと、テノールの篠原くんって子に協力してほしいのは、受動的療法にあたります」

「あ、はい」

「お年寄りに歌いかたを教えるとかじゃなく、コンサートだと思ってくれたらいい……ざっくり言えば、2人のアンサンブルが入居者にどういう感情をもたらすかを調べます」

 普通に歌うと言われて、ちょっとほっとする。しかし辻井の要求はそんなイージーモードではなかった。

「ただピアノの前で突っ立って歌うんじゃ芸が無いから、オペラほどでなくていいけれど、ちょっと動いてくれたらありがたいです」

 それは厄介だとちらっと思ったものの、音楽に携わる人間の性で、新曲への興味は抑えきれない。三喜雄はクリアファイルを受け取り、製本されたコピー楽譜を出した。

「『恋するくじら』……」

工藤くどう直子なおこさんの詩集から抜粋された詩に、平田ひらたあゆみさんが曲をつけた、10分ちょいの二重唱です」

 日本語だが、初めて見る歌詞と曲だった。しかも動けということは、10分の規模の新曲に、暗譜で臨めという意味である。

 三喜雄が不安を醸し出したからか、辻井の横に座る杉本が口を開いた。

「片山くんは譜読みは遅いけれど暗譜は早いし、動くのも得意だから、これくらいの長さなら大丈夫」

「前期の試験でモーツァルトのフィガロをったんでしたね……今回ちょっとキャラは違うんだけど、いいものにしてくれそうな気がします」

 教員たちは何故か三喜雄を買い被り、勝手に話をまとめつつあった。受けるとはっきり返事もしていないのに。三喜雄は密かに憮然とした。

 褒められて木に登るのは、大学で卒業したんだからな。

 楽譜のページを繰りながら、自分の得意なバロックから初期ロマン派の歌曲に無いような変拍子が出てくるのを見て、うんざりする。

 ただ、バリトンの出だしの詞とメロディは美しいと思った。おたまじゃくしを目で追ううち、身体の深いところの筋肉が音を出すべくスタンバイする。下半身から送り出された息が、そっと声帯を揺らした。

「『すきなひとができると、どうして独りごとを言ったり、鏡をみたりしてしまうのだろう』……」

 あ、いい曲かも。つい小さく口ずさんだ三喜雄を、辻井が驚いたように見た。

「お……やっぱりいい声だ、それに言葉がよくわかる」

 やらかした、と三喜雄は口を噤んで身体を縮めた。そんなつもりは無かったが、歌えるアピールをしたみたいで、嫌らしいと思う。

「彼は藤巻ふじまきくんの直弟子なんですよ」

 杉本が言うと、辻井の目が見開かれた。

 この人もウチの師匠を知ってるのか。

 三喜雄はそっと鼻から息を抜いた。藤巻陽一郎よういちろうは、ドイツや日本の歌曲を得意とする現役のバリトンで、現在札幌を活動の拠点にしている。正しい発声と歌手としての身体づくり、それに歌との向き合いかたを教えてくれた、三喜雄にとって大切な師だ。

「なるほど、納得です……ということは片山くんは北海道出身?」

 辻井に訊かれて、三喜雄ははい、とやや無機質に答えた。自分の父親が高校時代からの友人というだけで、有名人だとも知らずに藤巻に教えてもらうことになった不肖の弟子としては、こういう反応をされるといつもいたたまれない。

 三喜雄の気も知らず、杉本が上機嫌で話す。

「藤巻くんもとっとと故郷に引っ込んだかと思いきや、こうして最終兵器を母校に送り込んでくるからね……相変わらず自由な男です」

「私は藤巻さんと直接お話ししたことは無いんですけど、北海道は何気にいい演奏家を輩出しますよね」

 最終兵器とは何のことだかよくわからないが、とにかく辻井の笑顔を見る限りでは、それなりに三喜雄をお気に召してくれた様子だった。

 結局三喜雄は、あと2ヶ月半で10分のデュエットを動きつきで仕上げることを了承させられてしまったのだった。年末の帰省が遅れそうだし、年明けには試験もあるのに、まあまあとんでもない。しかし、練習と本番の交通費と、少しではあるが研究への協力のお礼を出すと辻井が言ってくれた。それに面白そうな歌だから、いいだろう。

 杉本の研究室を出るころには、三喜雄は前向きな気持ちになっていた。


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