「やあ。きみは、星がいっぱいでしずかで、さびしいくらいだと、コドクがすきでも、だれかとお茶を飲みたくなる、いるかなの? 飲みましょう、いっしょに。ぼくは、きみと同じきもちのくじらです。……飲むのはビールでもいいけどね」
そこでふたりは、まずはじめに、いるかのところへいってお茶を飲み、つぎに、くじらのところへいってビールを飲むことにした。
工藤直子『ともだちは海のにおい』「ふたりが であった」より
三喜雄がこの大学の大学院に通い始めて約半年である。北海道の大学にいた頃と比べ、周囲のレベルが高いことや情報量が半端なく多いことにはだいぶ慣れたが、三喜雄の目は今、おたまじゃくしを半分ほど素通りしていた。3限目に、研究室に来るように言われているからだった。
試験前でもないのに、音楽研究科声楽専攻を束ねる
「時期も時期だしコンサートの話じゃないの?」
いぶかる三喜雄に、美奈はカールした栗色の髪を揺らし、何でもないように言った。
大学院生ともなると、先生がたの伝手でコンサートやオペラに助演する機会が出てくるが、優秀な美奈と違い、今のところ三喜雄にそんなお声がかかったことは無い。杉本と同じ声種のバリトンである三喜雄は、他の者よりも多少杉本から厳しい目で見られている自覚があり、まだまだ使えないと思われているに違いなかった。
何の話だろうともやもやしているうちに、チャイムが鳴った。三喜雄は芝生でのんびり座っていた学生たちと同時に、仕方なく腰を上げる。
研究棟に向かい、杉本の部屋のドアをノックすると、彼はすぐに顔を出した。髪に白いものが混じる往年の名バリトンは、やはりいい声で、どうぞ、と言いながら三喜雄を招き入れてくれた。
室内の壁には本と楽譜とCDがびっしり詰まった棚がめぐらされていて、それに囲まれる形で置かれた古そうなソファには、杉本より少し若い男性が座っていた。先客との話が終わっていないとは思わなかった三喜雄は驚き、出直します、と咄嗟に言って回れ右しかけた。ところが、杉本に引きとめられる。
「どこ行くんだ
「はい?」
三喜雄は足を止め、杉本の客人に向き直った。銀縁の眼鏡をかけた、優しい雰囲気の人物である。彼は学生の三喜雄相手に礼儀正しく立ち上がり、ジャケットのポケットからカードケースを出した。
「初めまして、
差し出された名刺によると、辻井
三喜雄も自己紹介した。
「声楽専攻1年の片山三喜雄です」
「はい、存じ上げています……春に片山くんの歌を聴いて、私の研究の手伝いを頼みたいと思って来ました」
三喜雄は首を傾げた。試験以外で音大の先生の前で歌った記憶は無い。三喜雄の疑問を察したかのように、辻井は笑いながら言った。
「池袋のライブハウスで、2曲歌ったでしょう? ヘルプだったようだけど」
「あ……」
思い当たった。ジャズバンドのメンバーであるクラリネッティストの友人にヴォーカルの代役を頼まれて、急遽上がった舞台だった。ドラムとベースの前でマイクを使って歌うのは初めてで、自分の声があまり良く聴こえずちょっと焦ったけれど、楽しかった。
三喜雄は思わず、杉本の顔を窺ってしまう。声楽の先生の中には、生徒がクラシック以外の曲を歌うのを嫌う人がいるからである。幸い杉本は、三喜雄の課外活動の話を楽し気に聞いていた。
「あのバンドが芸大生と芸大卒の子で構成されてるのは有名ですから、杉本先生にお尋ねして、こちらの前期試験のビデオから片山くんを特定しました」
特定って。俺は犯罪者か。
辻井の言葉に胸の中で突っ込みつつ、三喜雄はそうですか、と作り笑いを浮かべた。この業界は本当に狭く、こんな風にいくらでも個人の情報が回ってしまう。これを人脈と呼び、音楽活動の足掛かりにしようとするアグレッシブな人もいるが、三喜雄はこういう雰囲気があまり好きではない。
初対面の学生の複雑な気持ちを知る由もなく、辻井は座るよう勧めてきて、本題に入った。
「12月の中旬に、国立市内の老人養護施設で、テノールの子と歌ってもらいたいです」
「えっ?」
坂東美奈の予想はいい線を突いていたらしい。とは言え、依頼ルートがちょっと想定外だ。自分の大学の学生に頼めばいいのに、と一番に思った。