俺の名前は馬場空海。
四十二歳、無職、童貞。彼女はもとより女友達もいたことがない。
現在、年老いた母の年金に頼って生活している。
……これだけでも充分死ねる。
そんな俺でもここまで生きてこれたのは、三十歳まで童貞を守ったら魔法使いになれると、四十歳まで守れば賢者になれると、どこかで耳にした与太話を心の拠り所にしていたからだ。
もちろん本気で信じていたわけではない。
俺だって現実とファンタジーの区別くらいはつく。
とはいえ、今から人生一発大逆転など到底起こせるはずもなく、他人からは一笑に付されるような一縷の望みもついえた今となっては、生きる希望などもうない。
それでも死ねない理由があるとすれば、母を息子の葬式に出さないようにすること、ただそれだけだったが、その理由も昨日、母の死とともになくなった。
俺は全財産の百円玉一枚と十円玉二枚を握りしめ、最後の夕食を買いに家の近くのコンビニへと足を運んだ。
「いらっしゃいませ~」
若い女性の店員がにっこりと微笑みかけてくれる。
決して好みの顔ではないが、それだけで好きになってしまいそうになる。
俺は陳列棚からツナマヨのおにぎりを一つ手に取ると、それをカウンターに置いた。
「百十五円になります」
「……はい」
母以外の女性との会話は緊張する。
「いつもおにぎり一つだけで足りなくないですか?」
「っ!?」
女性店員が俺の顔を覗き込むように話しかけてきた。
家の近くのコンビニということで顔を覚えられてしまったらしい。
次からは遠くのコンビニに行かなくては……って次はないのか。
「ダ、ダ、ダイエットしてるんで……」
言葉に詰まりながらもなんとか答える。
これから死のうっていうのに見栄を張ってしまった、情けない。
本当は金がないだけなのに。
「そうなんですか! 実は私もダイエットしてるんですよっ」
「へ、へー。そうですか」
二回りくらい年下の女性店員に敬語で返す。
「きみ全然太ってないよ、むしろ痩せてるじゃん」そう心の中では思っても口には出せない。
片桐佳奈。
顔をそらすように下を向くと、ネームプレートに目がいった。
この片桐さんという子は高校生だろうか、それとも大学生だろうか。
どちらにしても明るい未来が待っているのだろう。家に帰れば家族や恋人が待っているのだろう。
片桐さんが会計の際、二十代男性のボタンを押したのが見えた。
この子には俺は二十代に見えているのか。
大学卒業時から俺は何一つ成長してはいないんだと現実を突きつけられた気がした。
「こちらお釣りになります。またいらしてくださいね」
俺の手を優しく包み込むように釣り銭を渡すと、片桐さんは再度俺に微笑みかけてくれた。
人生最後の会話の相手がコンビニの店員というのもむなしいが、この子でよかった。
少しだけだが救われた気がする。
俺は誰も待っていない六畳一間のアパートに帰ると、ツナマヨのおにぎりを一口一口味わって食べた。
そして、
「さてと……死ぬか」
最後の一口を食べ終えた俺は、カッターナイフを持って風呂場へと向かった。
死に方はひと通りネットで調べ、その結果、金がかからず苦痛をなるべくともなわない失血死を選んでいた。
カッターナイフの刃をギギギ……と三枚分出すと左手の袖をまくる。
カッターナイフの刃を手首に押し当てた。
「いざとなるとこんな刃でも怖いな……」
一瞬躊躇するも、俺は目をつぶりこれを一気に引き抜く。
「ぐうっ……!」
そして、あらかじめバスタブ一杯に張っておいたお湯に左腕をぼちゃんと沈めた。
「はぁ、はぁ……」
お湯に血がにじんでいく。
あとは上手く死ねるよう祈るのみだ。
出来ることなら来世は金持ちかイケメンにしてくれよ……神様。
こうして俺の長いようで短かかった生涯は幕を閉じた。
……と思ったのだが、
『死にたがりの願いなんて聞けるか、なのね』
女の子の声が突如聞こえる。
「なん、だ……?」
朦朧とする意識の中、俺は目を開けた。
するとそこには杖を持った可愛らしい幼女が立っていた。
「きみ……は……?」
血を流しすぎたせいで幻聴に続いて幻覚まで見え始めてきたのか……?
幼女は俺の状態など気にも留めずに勝手に話を続ける。
『おまいのような命を粗末にする者は大嫌いなのね。だから罰としておまいを死ねない体にしてやるのね。ついでに今いる世界よりもっともっと過酷で厳しい世界に飛ばしてやるのね、いい気味なのね。せいぜい命のありがたみを知るといいのね』
何か幼女が喋ってるが……どうせ人生最後に見るなら……もっと美人で……ボインボインなのがよかっ――
「……かい? 大丈夫かい? あんた」
『ヘッヘッヘッ……』
頬がくすぐったい。
まるで何かに舐められているような……。
「……うおっ!?」
目を開けるとそこにはよだれを垂らした犬がいた。
「あんた、こんなところで寝てたら危ないよ」
犬を連れたおばさんが俺を見下ろしている。
「はっ……ここって……?」
立ち上がり周りを見渡すが、見覚えのない景色が広がっていた。
どうやら広い草原の中の街道のような場所で俺は倒れていたらしい。
「あんた頭でも打ったのかい?」
「頭……」
ふと左手首を見るが、傷がない。
あれだけ深く切ったはずなのに。
「あたしゃもう行くよ、日が暮れたらことだからね。あんたも早くうちに帰りなよ」
『ヘッヘッヘッ……』
おばさんはそう言うと犬を連れて街道を歩き去っていった。
「……俺、死んでないのか?」
あらためて左手首を見るも、傷はないし痛みもない。
カッターナイフもないので再度自殺を試みることも出来ない。
「っていうかここ、どこだ?」
眼前に広がるのは草原と山と街道だけ。
あり余る時間でやりこんだRPGの世界にちょっとだけ似ている。
「さっきのおばさんに話を訊いとけばよかったな……」
だが後悔先に立たず。俺は仕方なくおばさんの向かった方へ街道に沿って歩くことにした。
歩きながら考えるのは意識が途切れる間際に見ていた幼女のこと。
何か大事なことを喋っていたような気がするが上手く思い出せない。
「……どっかの世界に飛ばすとか、死ねない体がどうとか……」
駄目だ。頭が働かない。
大量に血を失ったせいか?
唯一の救いは足がしっかり動くことだ。
俺は日頃から家の買い物一切を担当していた。
三日に一回は重い荷物を持って長い距離を歩くという生活を送っていたため、足腰にはわりと自信がある。
とはいえ所詮四十二歳で半分引きこもりのようだった男の体力だ。
しかも目的地もわからずただ歩くというのは肉体的にも精神的にも疲れる。
俺は立ち止まると遠くをみつめた。
どこまでも街道が続いている。
「はぁ……俺、何してるんだろ……」
ついさっきまでアパートの風呂場で死のうとしていたのに、今はどこかもわからない場所を必死こいて延々と歩いている。
いっそ舌を噛み切って死にたいが、そんな度胸もない。
人が住んでいるところに行けばナイフや包丁くらいあるだろう。
そしたらまた手首を切って死のう。
そう思って、俺は再び歩き出そうと右足を一歩前に踏み出した。
その時だった。
ぶにゅん。
「おわっ!?」
何か柔らかいものを踏んづけた。
「な、なんだ?」
おそるおそる足元を確認すると……そこにあったのは、いや、いたのは青色の小さな生物だった。
「え、こいつって……」
驚くことに、俺がやりこんだゲームの序盤に幾度となく出てきたモンスターそのものがそこにはいた。
体表面が滑らかで曲線美がなんともいえない。愛くるしい姿をしたモンスター。
その名も……。
「スライム?」
すると、まるで俺の言葉が合図だったかのように、スライムは跳び上がり体当たりをしてきた。
「いてっ!」
条件反射でとっさに口にしてしまったが、実際それほど痛くはなかった。
軟式テニスのスマッシュボールがぶつかったくらいの感覚だろうか。
「おい待てって、俺は敵じゃないぞっ」
言葉が通じるのかわからないが、俺は手を前に出し敵意がないことを示す。
しかしスライムは体当たりをやめない。
どん! どん! と何度もぶつかってくる。
いくらそれほど痛くはないと言っても、こうもやられっぱなしは癪に障る。
「このやろっ!」
俺めがけて跳び上がったスライムを俺は右手で殴りつけた。
誰かを殴ったことなんてないから不安だったが、意外にも芯を捕らえた一撃が決まった。
スライムが後ろに吹っ飛ぶ。
「やったっ」
だが喜べたのはこの一瞬だけで、次の瞬間、地面に着地したスライムは今までにない素早い動きを見せ、俺に急接近した。
そしてぐにゅ~っと体を変形させ、口をカバのように大きく開けたかと思うと、俺をばくっと飲み込んだ。
「ごぼっ……!?」
スライムの体に全身が包まれてしまった。
スライムの体内はどろどろの液体状になっていた。
うぐっ!? 息が出来ないっ!!
手足をばたつかせてもがくが、スライムは俺の体をすっぽり覆いつくして離れない。
苦しいっ! やばい、死ぬぅっ!
……って別に死んでいいのか。
死にたかったことを思い出した俺は急に冷静になった。
当初の予定とは違うがまあこれで死ねるのならいいか。
息を我慢するだけ苦しい時間が続く。さっさと水を飲みこんで死んでしまおう。
「ごぼごぼっ……」
液体が肺に入ったのがわかる。
意識が遠のいていく。
……もうすぐ会えるよ、母さん。