俺は頭がおかしくなってしまったのだろうか?
高校最後の思い出作りにと、エベレスト登頂を決行した俺は、運悪く猛吹雪に襲われ、視界の悪い中、深い深いクレバスの底に落ちてしまった。
……はずなのだが。
「お主の頭はちっともおかしくなんかなってないわさ」
俺の前でちょこんと正座をしている幼女が小さな口を開いた。
俺は周りを見回す。
畳の敷かれた部屋に花瓶に生けられた花、掛け軸には達筆な草書体で書かれた【神】という文字。
なんだここは……?
「うちの家だわさ」
幼女がお茶をズズズ……とすする。
俺は幼女を見下ろした。
なんなんだこの子……。
さっきからまるで俺の考えを見透かしているかのように話してくるけど……。
すると幼女が俺を見上げた。
「それはうちがお主の心を読んでいるからだわさ」
俺の目をじっと見てくる。
「……え~と、きみは誰なのかな?」
「うちは神だわさ」
さらりと言う。
……よくわからない。
俺はもう一度部屋を見回す。
ハーフ顔の幼女には似つかわしくない純和風の部屋だ。
う~ん……もしかしてこれは夢か?
そうだ、俺はクレバスに落ちた時に気絶してそのまま夢を見ているんだ。そうに違いな――
『夢じゃないわさ』
「うおっ!?」
幼女の声が突然、俺の頭の中に響いた。
『大体お主はもう死んでいるわさ』
見ると幼女は口を一切動かさずに俺に語りかけていた。
「……この声、きみが?」
「そうだわさ」
今度は口を使って喋る幼女。
「俺は、死んだの?」
「そうだわさ」
「きみが、神様なの?」
「そう言ってるわさ」
俺の問いかけにうなずく幼女。
愛くるしい小さな顔にちんまりとした小さな体。
巫女さんのような装束を着たこの子が神様?
にわかには信じられないけど……。
「信じなくてもいいわさ」
また俺の心の声に反応したかのように話し出した。
「ここに来た人間は大抵戸惑うわさ。お主はまだ物分かりがいい方だわさ」
自称神の幼女は続ける。
「それよりあまりお主一人に時間も割いてられないしそろそろお主の処遇を言い渡すわさ」
処遇?
そう言うと、後ろの棚を開け、何やら書類を取り出す。
それを見ながら、
「ふむふむ。ほう、お主は運がいいわさ。本来なら地獄行きだけど今はあっちも人手が足りないから地獄行きは免除だわさ」
「え……俺、地獄行きだったの?」
「そうだわさ。お主、蟻を九匹と蝿を十五匹とゴキブリを三匹と蚊を二百三十五匹殺してるわさ」
「いや……そんなこと言われても……」
ていうかそんなんで地獄行きになるのかよ。
「だから行き先変更だわさ」
「はぁ」
「お主をこれから異世界に飛ばすわさ」
「……はい? 異世界?」
異世界ってアニメとか漫画とかでよく耳にするあれのことか……?
「知ってるなら話が早いわさ。行き着く先はランダムだから変な世界に落ちても我慢してほしいわさ。じゃあいくわさ」
「え、ちょっと……」
言うなりすっと立ち上がりへんてこな踊りを舞い始めた。
「あっそ~れ、どこか遠くの異世界に~、飛んでけ飛んでけ飛んでけ~!」
最後にぴーんと伸ばした短い手足がぷるぷる震えている。
……。
シーンと静まり返る部屋。
沈黙が続くこと三十秒。
んん、何も起こらないけど……。
「あのさ――」
俺が口を開いた次の瞬間だった。
俺の足元に、ぽっかりと大きな穴が開いた。
「うおっなんだこりゃあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁー!?」
穴の中に吸い込まれるようにしてまたしても落下していく俺。
「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁー!?」
真っ暗な穴の中をどんどん落ちていく。
見上げると、さっきまでいた部屋の明かりがすごい速さで小さくなっていく。
そして下を見ると、うすぼんやりと光が見えてきた。
地面が迫っている。
おいおい待てよ、このスピードで落ちたらまた死ぬんじゃないか。
そんな不安が頭をよぎったその時、
ぼふんっ。
大きくてふかふかの温かい何かに全身が包まれた。
その何かがクッション代わりになって落下時の衝撃を吸収してくれたらしい。
「……あいつ、異世界に飛ばすとか言いながら落としやがって」
それにしてもなんだろう、この心地いい感触は。
俺がうつ伏せでその何かに顔を埋もれさせていると、
「すみませんがくすぐったいからボクから下りていただけませんかニャ」
その何かが喋った。
よく見るとその何かとは体長三メートルはありそうな巨大な黒猫だった。
「おうっ!? あ、ああ。悪い」
俺は巨大猫の背中から飛び降りた。
そして改めて見上げる。
「……お前、猫だよな? でっかいな……っていうか喋れるんだな」
「ボクはギガントキャットのミケといいますニャ。あなた様はどちら様ですかニャ?」
ミケは器用に前足を動かす。
自称神の幼女の次は喋る巨大猫か。
「俺は枢木枢だけど」
「クルル様ですかニャ。クルル様は何をしにこちらへいらしたのですかニャ?」
俺は辺りを見回す。
不気味な城を背にして俺は石が敷き詰められた闘技場のような場所に立っていた。
「ここはどこなんだ?」
「ニャ? ここは魔王様のお城の中庭ですがニャ」
魔王?
「ニャニャ! もしかしてクルル様も魔王様の配下にしてもらおうとやってきたのですかニャ?」
「え、ああ、え~と……」
まるで十年来の親友と再会したかのようにミケは目を輝かせて俺を見てくる。
魔王ってなんだよ。
ってかこの巨大猫もなんなんだよ。
俺が答えに詰まっていると、
「貴様ら何者だ。ここを魔王様の居城と知っての狼藉か」
顔が蛇で体が人間の蛇人間が城から出てきた。
また変なのが現れたぞ。
まったく……夢なら早く覚めてくれ。
「あ、あ、あのボクたちは魔王様の配下になりたくてはるばるやってきたんですニャ。どうか魔王様にお目通りさせていただけませんかニャ?」
俺は違うけどな。
「なんだ、そういうことならついてくるがいい。魔王様に会うことは無理だが幹部には会わせてやろう」
「は、はいニャ! クルル様も行きましょうニャ」
ミケがわくわくした顔で俺を見下ろす。
「おいおい、待てよ。俺は魔王の配下になんてなるつもりはないぞ。帰らせてもらうからな」なあんて言ったらどうなるだろう。
蛇人間が持ってる槍で刺されてジ・エンドか、はたまたミケに頭から食われてジ・エンドか。
そんなことを考えているうちに俺とミケは魔王城一階の大広間に足を踏み入れていた。
「ここで待っていろ、すぐに幹部を連れてきてやる」
蛇人間が俺たちを残して大広間を出ていく。
「緊張しますニャ~。ドキドキが止まらないですニャ~」
前足で胸を押さえるミケ。
十分の一のサイズなら可愛らしいのにな。
「クルル様はなんで魔王様の配下になりたいのですかニャ?」
緊張を落ち着かせるように俺に話しかけてくる。
「そのクルル様っていうのやめないか? なんかむずがゆいんだが」
「すみませんニャ。でもこれはボクの癖みたいなものでもうどうしようもないのですニャ。だから勘弁してほしいですニャ」
「そうなのか。だったらいいけどさ」
そんなことよりこれからどうなるんだろうな。
すると大広間の扉が開いた。
蛇人間が戻ってきたのかと振り向くとそこにいたのは背中に白い天使のような羽をはやした女性だった。
そしてその女性の手には蛇人間の頭部が握られていた。
女性は、
「こいつが私の睡眠の邪魔をしたの。胴体は私の部屋にあるからそっちも処分しておいてね」
目をこすりながら蛇人間の頭部を投げ捨てた。
「あ、あ、あのボクたち魔王様の配下になりたいのですがニャ」
「ん~……好きにすれば~」
眠たげな様子で返す。
「あ、ありがとうございますニャ! 精一杯魔王様のために働きますニャ!」
「はいはい。頑張ってね~」
後ろ向きでだるそうに手を振り、扉を閉めずに出ていく女性。
「クルル様、やりましたニャ。エルザ様に認めてもらえましたニャ。ボクたち今日から魔王様の配下ですニャー」
「あ、ああ。そうだな」
ミケは俺の手を取ると陽気にステップを踏む。
……あの自称神の幼女め、とんでもない世界に落としてくれたな。
こうして俺は不本意ながら異世界で魔王の配下になった。