私は痛む頭を騙しながら、今朝ヴァーレン様と会ってからのことを思い出す。
キラキラと光る湖面を眺めながら、木陰の下で隣同士に座る2人の髪を風がさらっていた。
「……ハンナ令嬢はきっと疑問だらけで、いつも聞きたいことが山のようにあると言う顔だ」
「えっ!」
ヴァーレン様の苦笑まじりの空気の中で発された言葉にギョッとして、私は反射的に頬を両手の平で挟む。
「……無理もない。私ももう少し早く話しに来ようと思っていたんだが、どうにも慌ただしくて今日まで延びてしまった。会えたと思えば忙しなくて、ゆっくりと話も出来なかったから」
苦笑するヴァーレン様に、私も慌ただしかったこの数日を思い出して乾いた笑いを漏らす。
「……聞きたいことを遠慮なく聞いて欲しい。今日はそのために来たし、話せることならばきちんと説明するつもりだ」
にこりと穏やかに笑むヴァーレン様を見つめ、私はしばし逡巡した後に意を決して口を開いた。
「恐れながら……婚約を破棄しても構わないというようなお言葉の真意を、教えて頂けますか?」
私の言葉に一呼吸置いて小さく頷くと、ヴァーレン様は口を開く。
「事の始まりは、一件の婚約話しからだ。グレド侯爵は、女性や性根に関する面ではあまり良い噂のない男……と言うのが、少なくとも私やルーウェン、そしてハンナ令嬢の父君であるルーウェン伯爵の認識だ。そんなグレド侯爵に、ハンナ令嬢が目をつけられた」
「え、私ですか!? でも、お父様はそんなこと一度も……。それに、私グレド侯爵様にお会いしたことはない気がしますが……」
「……グレド侯爵にとって、恐らく
「えぇ……?」
どさくさ紛れに見目が優れていると言われ、主に他の兄弟のこととはわかっているも少しばかり弛む口元。を、私はいやいやと意識的に引き締めた。
気を取り直し、私は眉根を寄せる。知らない所で大いに動き出していたらしい事態には困惑が優っていた。
「純粋な家柄同士の婚約という面では、グレド侯爵との婚約は好ましいと思うのが一般的だが、聞こえてくる性質もあり、ルーウェン伯爵をはじめハンナ令嬢の家族はそれをあまり好ましく思わなかったようだ。だが、グレド侯爵はルーウェン伯爵よりも爵位が上であり、その話しをルーウェン伯爵の一存で退けることは簡単とは言えない」
「……まさか、それでヴァーレン様が私との婚約を申し出てくれたのですか……?」
「……グレド侯爵と同爵位のヴァーレン家が、正式な婚約を結ぶ前に申し込みを重ねた。更に、同爵位とは言え、
「ーー……」
脳内整理にヴァーレン様の仮面の奥の黒い瞳を見つめる。話しの流れは理解できたし、謎も解けたは解けた。が。
「……なぜ、婚約者を名乗り出て下さったのですか?」
爵位も格も到底伴わず、私自身を気に入るほどの何かがあった心当たりもない。いくら目眩しで婚約破棄を前提としていたとしても、侯爵と言う目立つ立場での婚約はそこまで軽いものでもないはずだ。
ヴァーレン様側のメリットが思い当たらず、私の困惑はまだ続く。
「……言っただろう。私の母が亡くなった時に、ルーウェンとルーウェン伯爵には良くして貰った恩がある。ルーウェンがいなければ、私は今ここにいないかも知れなかったほどだ。それに、婚約についての話しは、可能であれば私から直接ハンナ令嬢に話したいと伝えていたから、あまり詳細を話さないでいてくれたのだと思う」
「……それは何故ですか?」
「ルーウェン伯爵は律儀な人であるから、私が何を言った所で今回のことを重く受け止めて、ひとまず私との婚約を押し進めるだろうと考えた。だが、ハンナ令嬢から見て意中でもない相手なら、私でもグレド侯爵でも大差のない結果だろう。そしてそれは私の本意でもない」
「…………」
ヴァーレン様の話を聞きながら、私はぽかんと口を開けた。嘘みたいな都合の良い話しに現実味を感じられない。
「……何で……そんな……そこまでして下さるんですか……? 私から見ればこの上ない天からの助けのようなお話しです。ヴァーレン様の慈悲深さに感謝しかありません。……ですが、多少の自由恋愛も認められつつありますが、本人たちの意志を無視した縁談などそう珍しくもありませんし、まして他の家の事情で骨を折るなんて……」
侯爵と言う爵位を持つ御子息に、そこまでしてもらう程の恩が、本当にあるのだろうか。
困惑が過ぎる私の顔を見て、ヴァーレン様は静かに笑う。
「警戒するのも無理はない。私も逆の立場なら何か魂胆があるのではないかと、勘繰るようなお節介だと思っている」
そう言ってヴァーレン様はしばし黙ると、静かにその仮面に手を伸ばした。