古井戸の底から這い上がってきたような、そんな冷たさが彼女の身に宿っていた。七十歳を過ぎた、おばあさんと呼ぶには若々しい、いや、若々しいというより、生気に欠けた、乾いた顔をしていた。私の祖母、ミズヱの幼馴染み、トシエさんだ。
彼女は、私の祖母と同じく、この小さな村で生まれ育ち、終戦直後、戦死した夫を悼みながら、一人息子を育て上げた。その息子は、彼女が五十歳になった頃に病で亡くなった。それからというもの、トシエさんは、村はずれの小さな家で、一人静かに暮らしていた。
数日前、トシエさんが倒れたという知らせが届いた。腹痛と高熱、意識もうろうとしているという。祖母は、すぐにトシエさんの家を訪ねたが、すでにトシエさんは救急車で病院に運ばれてしまっていた。
祖母から話を聞き、私も病院に駆けつけた。病室には、点滴を受けながら、苦しそうにうめき声をあげるトシエさんがいた。彼女の顔色は土色で、唇はひび割れ、目は虚ろだった。
「トシエさん…大丈夫ですか?」
祖母の呼びかけに、トシエさんはかすかに目を覚ました。しかし、まともな返事はできなかった。医師の説明によると、トシエさんは、激しい腹痛と高熱に襲われ、意識不明の状態で搬送されてきたという。原因は不明だが、内臓の異常が疑われるとのことだった。
レントゲンとMRI検査が行われた。その結果、医師たちの顔色が一変した。画像には、明らかに胎児らしき影が写っていたのだ。七十歳を超えた女性の腹腔内に、胎児。そんなことはありえない。医師たちは、画像を何度も確認し、他の医師にも意見を求めた。しかし、結果は変わらなかった。そこには、確かに、小さな人間の姿があった。
医師たちは、トシエさんに詳しく話を聞こうとしたが、彼女はほとんど意識がなく、断片的な言葉しか発しなかった。しかし、かろうじて聞き取れた言葉の中に、
「お腹の子…」「戻して…」
という、奇妙な言葉があった。
数日後、トシエさんは息を引き取った。死因は、多臓器不全。医師たちは、胎児の存在について、いまだに説明がつかなかった。
トシエさんの遺言は、シンプルだった。死後、献体を希望する、というものだった。しかし、そこに付け加えられた言葉が、医師たちをさらに驚かせた。
「お腹の赤ちゃんは、ちゃんと私のお腹の中に戻してほしい」
その言葉は、まるで、お腹の中にいる存在が、彼女の一部であるかのように聞こえた。
トシエさんの死後、献体の準備が進められた。しかし、お腹の中の胎児の処理については、医師たちも頭を悩ませた。解剖すれば、胎児を取り出すことは可能だが、トシエさんの遺言を無視することは、できない。
最終的に、胎児は、トシエさんの遺体と共に火葬されることになった。しかし、その火葬の最中、異様な出来事が起こった。火葬場から、凄まじい悲鳴のような声が聞こえてきたのだ。それは、まるで、小さな子供が、絶望的な声で泣いているようだった。
その声は、すぐに消えた。しかし、その場にいた全員が、背筋を凍らせるような恐怖を感じた。
それからというもの、トシエさんの亡霊を見たという噂が、村中に広まった。村人たちは、トシエさんの霊が、お腹の子供を探しているのではないかと、囁き合った。
私は、トシエさんの死後、その小さな家で、奇妙な出来事を経験した。夜中に、小さな赤ちゃんの泣き声が聞こえたのだ。それは、まるで、私のすぐそばで、誰かが泣いているようだった。恐怖に震えながら、私はその場から逃げ出した。
私は、トシエさんのことを考えるたびに、背筋が寒くなる。七十歳を超えた女性の腹腔内にいた胎児。そして、火葬場から聞こえてきた、悲鳴のような泣き声。それは、一体何だったのだろうか?
トシエさんの死は、私にとって、永遠の謎として、私の心に深く刻まれた。そして、その謎は、私を、深い闇へと引きずり込み続ける。 彼女の言葉、
「お腹の赤ちゃんは、ちゃんと私のお腹の中に戻してほしい」
…その言葉が、今も私の耳元で、囁き続けている。 それは、単なる遺言ではなかった。 それは、何かの呪詛、あるいは、警告だったのかもしれない。