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第17話 夢枕に立つ祖母の夫

 古ぼけた写真立ての中に、色褪せた笑顔の男がいた。私の祖父。記憶の中に存在しない、遠い存在。彼は私が生まれる約50年前、末期のがんでこの世を去ったという。その死の直前、祖母は不思議な夢を見たという。その夢が、今なお私の心を寒くさせる。


 祖父の死期が迫っていた頃、祖母はいつも以上に疲れた様子だった。日中は病院に通い、夜は祖父の看病に追われ、睡眠時間は僅かだった。それでも、彼女は祖父の傍を離れようとはしなかった。彼女の深い愛情と、尽きることのない献身が、その小さな部屋を満たしていた。


そして、祖父の死の前夜。祖母は、いつもと少し違う夢を見たという。それは、生前の祖父の姿そのものだった。病に伏せっていたにもかかわらず、祖父は驚くほど健康そうで、穏やかな笑みを浮かべていた。


夢の中で、祖父は祖母に近づき、静かに語りかけた。


「ありがとうな…。」


それは、短い言葉だった。しかし、その言葉には、深い感謝と、何とも言えない寂しさが込められていたように思えた。祖父は、その言葉を告げると、ゆっくりと消えていった。まるで、薄明かりの中で溶けていく煙のように、痕跡を残さず、消え失せていったのだ。


祖母は、目が覚めた後も、その夢の余韻に浸っていたという。まるで、現実と夢の境目が曖昧になったかのように、祖父の声が耳元で囁いている気がした。そして、その日の夕方、祖父は息を引き取った。


祖母は、その事実を受け止めきれない様子だった。まるで、祖父が夢の中で告げた「ありがとう」という言葉が、現実の別れを予感させていたかのように。


 私は、その話を聞いて、背筋が寒くなった。祖父は、生前、祖母に感謝の言葉を伝える機会を逃していたのかもしれない。病に伏せっていた身では、言葉にすることさえままならなかっただろう。だからこそ、彼は夢の中で、祖母に感謝の気持ちを伝えに来たのではないだろうか。


しかし、その夢には、どこか不穏な空気も漂っていた。祖父の笑顔は、確かに優しく穏やかだった。だが、その奥底には、深い闇が潜んでいるようにも感じられた。まるで、生前の苦しみや後悔が、彼の魂に影を落としているかのようだった。


そして、祖父が消えていく様子は、あまりにも不自然だった。まるで、何かが彼を引きずり込んでいるかのように、彼は徐々に透明になり、やがて、完全に消滅してしまったのだ。


その夢は、単なる感謝の言葉ではなかったのかもしれない。それは、祖父からの、最後のメッセージ、あるいは警告だったのではないだろうか。


 それからというもの、祖母は、時折、夜中に目を覚ますと、祖父の姿を夢に見るようになったという。それは、いつも同じ夢ではなかった。時には、祖父は笑顔で祖母に語りかけ、時には、怒りや悲しみに満ちた表情で、何かを訴えかけてくることもあったらしい。


祖母は、祖父の魂が、何らかの未練を抱えているのではないかと心配していた。そして、その未練が、彼女を苦しめる原因になっているのではないかと考えていた。


私は、その話を聞くたびに、背筋に冷たいものが走る。祖父の魂は、あの世で安らかに眠っているのだろうか?それとも、何か未解決の問題を抱え、この世に留まっているのだろうか?


 約50年前の出来事。私は、その時の状況を全く知らない。しかし、祖母の語る夢の話は、私にとって、想像を絶する恐怖と、深い悲しみを呼び起こすものだった。


 祖父の「ありがとう」という言葉。それは、感謝の言葉だったのかもしれない。しかし、同時に、それは、この世に残された者への、警告でもあったのではないだろうか。 あの夢は、単なる夢ではなかった。それは、祖父からの、最後の、そして最も恐ろしいメッセージだったのだ。

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