娘を引き取った際に買い替えた、セミダブルのベッド。
奥の壁際に
「真理愛、絵本か? どれがいい? ウサギさんか、お星さまか、お姫さまか、あとはえっと──」
「……おほししゃま」
「お星さまな、わかった」
机に手を伸ばして絵本を取ると、圭亮はベッドに腰掛けた。
横たわる真理愛に見えるように絵本を開いて、申し訳程度に散りばめられた文字を読んで行く。
できるだけゆったりとページを捲り、読み終えてもしばらく最後のページを開いたまま待った。
最初の頃は、自分のペースで次々読み進めていたのだ。何が目的で読んでいるのかも、今思えば理解できていなかった。
……この年になって絵本を手にするとは。しかも娘のために読み聞かせる日が来るなどと、想像したことすらなかったのに。
何も知らず気楽な独身生活を満喫していた己が、ほんの僅かずつでも『親』に近づいているのを感じた。
「真理愛、もう一回読む? 他のがいいか?」
綺麗な星空の絵を食い入るように見つめている真理愛に訊いてみる。
「……これ」
布団から覗かせた指先で圭亮の持つ絵本をそっと差しながら、娘が囁くように告げた。
「よし、じゃあもう一回な」
二度目を読み終わった頃には、とろんとした眼をしている真理愛。
「真理愛、今日はおしまいでいいか? もっと?」
もう眠いのだろう。黙って小さく首を振るのが精一杯といった真理愛に、圭亮は喉の奥で笑って絵本を机の上に戻した。そのままベッドに潜り込む。
「じゃあ寝ような。おやすみ、真理愛」
「……」
こく、と微かに頷く真理愛の肩までしっかりと布団を掛け直し、その上からポンポンと軽くリズムを付けて叩いていると、娘はあっという間に眠りに落ちて行った。
しばらく寝息を確かめてから、圭亮はベッドを揺らさないようにそっと起き上がる。さすがに寝るにはまだ早い時間だ。
部屋を出ようとドアを開けて、眠る娘を振り返った。
……今夜は悪夢を見ないで済むといい。幼い娘の悲鳴は、圭亮にとっては身を割かれるほどの苦痛だった。
子どもなど縁がなかったのでよくわからないのだが、五歳というのはこんなに小さいものなのだろうか。
高校時代まで使っていたシングルベッドのままでもよかったんじゃないか、と思ってしまうくらいに細く薄い身体。
ただ、数字の上だけなら、確かに小柄ではあるけれど異常な、非常識なというレベルではないらしい。
……
死後に、娘に対する
今日子。
圭亮の別れた恋人。現在二十九歳の圭亮が、大学を卒業して就職したばかりの頃に付き合っていた、四歳年下の。
彼女が圭亮に黙って『娘』を産んでいたと知ったのは数か月前になる。いきなり届いた手紙に導かれて駆けつけた先で、圭亮は薬を飲んで息絶えた今日子の傍らで衰弱していた真理愛と、初めて顔を合わせたのだ。
その後、両親の協力を得て、真理愛を引き取って実家で暮らすことになった。
無表情で泣きも笑いもしない、人形のようだった娘は、笑顔も言葉も少しずつ見せるようになって来ている。
◇ ◇ ◇
圭亮が時計のアラームで目を覚ますと、隣で娘も起き上がっている。
「真理愛、起きるのか? まだ寝てていいんだよ?」
幼稚園や保育園に行っていない真理愛は、決まった時間に起きる必要はない。
だからと言っていつまでもベッドの中ということはないが、少なくとも圭亮が起きる時にはまだぐっすり眠っているのが常だった。圭亮の出勤後、母が起こしに来て朝食を取って、というのが毎朝の習慣だと聞いている。
「おはよう、真理愛ちゃん。今日は早いのね。パパと一緒に起きたの?」
手を繋いで階段を降りダイニングキッチンに顔を出した二人に、母が、──真理愛にとっては祖母が声を掛けて来たのに真理愛が答える。
「……おは、よ、ばーば」
「真理愛ちゃん! 御挨拶上手にできたわね、えらいわぁ」
何故だか感無量といった様子の母に、どうやら真理愛が「おはよう」というのは初めてらしいと見当をつけた。
真理愛はまだ言葉が出るようになって日が浅い。
単純に赤ん坊が言語を習得して行く過程とはまた違って、真理愛は別に『話せなかった』わけではない、筈だ。
つまりはこの娘が、見知らぬ環境にもようやく馴染んで来たという証だと認識していたのだが。
「本当に、毎日できることが増えて行くのよね。子どもの吸収力って凄いわ。もうお母さん忘れちゃってた」
今一つ状況が理解できていない圭亮に向かって母が苦笑しながら話している。
「へぇ、そうなんだ。でもよかっ──」
唐突に、それは閃きのように圭亮の頭に浮かんだ。「おはよう」も「おやすみ」も、この子は知らなかったんじゃないのか?
普通に生きていれば、……少なくとも圭亮にとっては、こんな基本的な挨拶は呼吸と同じくらい自然なことだ。
しかし真理愛には違ったのではないか。『言葉』は、呼吸のように生まれつき身に備わっているものではない。周りの人間や環境から学んで、徐々に身に着けて行くものだ。
おそらく「おはよう」は、毎朝欠かさず両親と交わしている筈。意味などわからなくとも、単純に決まった『習慣』として嫌でも覚えるだろう。
けれども「おやすみ」は、読み聞かせの最中に真理愛が眠ってしまうことも珍しくないので頻度としてはぐっと下がる。しかも、起きてはいても意識がはっきりしているとは言えない状態が大半だ。
「圭亮? どうしたの、ぼんやりして。会社遅れるわよ?」
母の声にハッとして、慌てて用意してもらった朝食を掻き込む。
今は考えるな。親として、稼ぐのも大切な責務だ。
真理愛のことにはとりあえず強引に目を瞑ることにして、圭亮は大急ぎで出勤の準備に掛かった。
◇ ◇ ◇
「おやすみ、真理愛。……あのな、ねんねするときには『おやすみ』って言うんだ。パパ教えてあげてなくてごめんな」
その夜。
入浴も歯磨きも終えて一緒に部屋に戻って来た真理愛をベッドに寝かせて、絵本を読み聞かせたあとで圭亮は声を掛けた。
他のことは両親、特に母に頼っていることも多いのだが、寝かしつけは圭亮の仕事だった。むしろこれだけは、と多少無理をしても受け持っていたのだ。
「……お、やしゅみ、ぱぱ」
「うん、──真理愛」
新たに一つ、この娘が得た知識。圭亮が与えたものだ。
現実問題として、共に過ごす時間の多い祖父母である両親から得るものの方が遥かに多いのは確実だとわかっている。
これから先もっと、もっと。
君が知らないこの世界のほとんどのことは、パパが教えてあげたいんだ。
無理かもしれない。……きっと無理、なんだろう。
だけど、その気持ちだけは忘れないでいるよ。
~END~