「あ……」
自室の清掃中。
埃が溜まりやすい本棚の最下段に目を向けた
古い、傷んだ絵本だった。
『きらきらをさがしに』というタイトルで、祖父が初めて買って来て幼い頃毎晩のように父に読んでもらっていた。
この本の傷みは、夜ごと数えきれないほどに繰り返し読まれた
懐かしい想い出の中で、色褪せることなく輝いている愛おしい絵本。
もちろんその存在を忘れてなどはいないものの、久しく手に取ったこともなかったと思い至る。
無意識に手を伸ばして取り出し表紙に触れた途端、何か温かいものが流れ込んで来る気がした。
捲ってみると、ページの端は破れを補修した後も目立つ。
しかし、柔らかな水彩で描かれた美しい星空の絵に遥か遠い記憶が鮮やかに蘇った。そして一気に過去に引き戻される。
夜空を旅する小さな星の物語。
自分の
ゆっくりと文字の少ないページの絵を眺めながら本を閉じた時、他のすべてを閉め出していたことにようやく気付いた。
「掃除してる最中に見つけた服でひとりファッションショーとかしててさあ。ふっと『あたし、何やってんだよ……』って脱力するのが毎回なんだよ」
「私は本とかアルバムだな〜。ついつい開いちゃってすぐその中に入り込んじゃう」
高校で、仲の良い友人たちと交わした会話が頭に浮かぶ。
「あたしはそういうのあんまりないかな〜。見つけたら『あ、こんなとこにあった。後で見よ』って置いとくほう。でもその状況はわかるよ」
その時は正直ピンとこなかったのだが、彼女たちが語っていたのはまさにこういうことなのだろう。
◇ ◇ ◇
真理愛がこの家に来たのは四歳九か月の時、だったらしい。
詳しい年齢までは流石にあとで教えられたものだが、「新しい家族」に迎え入れられた記憶はしっかり残っている。
母が薬を飲んで亡くなった同じ部屋で、真理愛は己の意思の及ばない
初めて会う父が助けに来てくれなければ、それは母と同じく『死』だった筈だ。
真理愛の小さな世界のすべてだった
父に聞かされたのは、「ママは『真理愛を迎えに来て』ってパパに頼んだんだ」という事実のみ。
そのような極限になるまで娘や孫の存在さえ知らされていなかった彼らが、この身を優しく受け入れてくれたこと。
おそらくは葛藤がなかったわけもないだろうに、それ自体が成長した今の真理愛には奇跡のようにも感じる。
この家に来てからしばらくの間。
まるで半透明の
祖父が買って来た絵本を、手振りをつけながら読んでくれていたのも覚えている。
その時初めて「笑った」のだと、その後何度も聞かされたものだ。
真理愛の「お気に入り」と見做された絵本は、毎夜寝かしつけのために父が読んでくれていた。
絵本は順調に増えて行ったが、結局その星の絵本が本当に真理愛の「一番のお気に入り」になった。
今思えば、「いきなり父親になった・ならざるを得なかった」若い父の読み聞かせは決して流暢なものではなかった。
それでも、文字の少ない「絵」で展開する星の物語を紡ぐ声は、真理愛の中にすんなりと沁み込んで来たのだ。
きっかけはそれに違いないと断言できるが、今も真理愛は星を見るのが好きだ。
これが原風景というものなのか。
絵本の中で夜空を旅する星、仲間になった流れ星との旅路とその果ての別れ。
何にも縛られず自由なようでいて、最後には流れて消えて行く「仲間」。
取るに足りないと考えていた「小さな自分」がいてこそ、星座は完成して輝きを増すことに気付かせてくれた流れ星。
お話を通じて、真理愛にとっての『居場所』はこの家だと言葉ではなく自然に伝わった。
もうひとつ。
絵本の中とは位置づけがまったく異なるものの、「真理愛の人生を通り過ぎて消えて行った」という意味合いにおいて、母は『流れ星』だったのだろうか。
父と二階のベランダで二人星空を見上げた日々。
小学校入学以降は自然と回数も少なくなり、真理愛の誕生日である
父が、──おそらくは祖父母も、何とか真理愛のためにできることを、と試行錯誤する中で明確に形になったもののひとつだったのではないか。
最初は父が真理愛を抱き上げて、遠い空の光の点を指さしながら「ほら、真理愛。星がいっぱいだ。あの絵本と同じだよ」と話してくれていた。
ただその時間が嬉しく、どんどん楽しみになって行ったのだけが確かだ。年を重ねるごとに、「星に纏わる話」を対等にできるようになったのも。
寂しく冷えて固まった真理愛の心に、父の声と都会の空の微かな星の光が差し込んで、凍り付いていた何かを溶かして行ったのだと思う。
◇ ◇ ◇
受験を終えて、春から真理愛は大学生になる。
この家から楽に通学できる大学のため、生活そのものは大きくは変わらないかもしれない。
「まあここならいくらでも通える大学はあるけど、そこに拘る必要なんてないんだ。こう見えてもパパ、真理愛のためにちゃんと貯金してるから! 自宅通学できなくても、学費も一人暮らしの費用も心配いらないから遠慮なんかするなよ」
「ありがと。でもあたし、遠くの大学で『ここでどうしてもこれやりたい!』みたいなのないし。家から通える範囲でも十分希望に合う学校あるから」
父に告げた通り、妥協して諦めたわけでも何でもない。
自分でよく考えて、その結果選んだ大学なのだ。
父はまだ四十過ぎだが、祖父母はもう七十代だ。
真理愛の大切な家族が、この先いつまでも若く元気でいてくれるとまでは楽観していない。
父とも、一生傍で暮らせるかどうかわからなかった。
まだ高校生で十八歳の真理愛には想像もつかないが、この先家族以上に愛して共に過ごしたい相手ができる、かもしれないのだ。
だからこそ、せめて今だけでも離れたくはなかった。
「もしいつかこの家を出るとしても、これだけは持ってく。──あ、あとアルバムも!」
まだ本棚に戻せないままの絵本をそっと胸に抱き締める。
この絵本の中の満天の星空が、幼い真理愛の希望のすべてだった。
そこから派生した、父と並んでベランダで白い息を吐きながら見上げた夜空も、部屋に入った真理愛の冷えた身体に対する祖父母の気遣いも纏めて全部。
「真理愛ちゃん、ご飯よ~」
「あ、はーい! いま行く」
祖母の声に、改めて我に返り絵本をそっと本棚に戻して部屋を出ると階下のダイニングに向かった。
「お部屋の掃除してたんでしょ? 今日は全然降りて来なかったわねえ」
「うん。ご飯の用意手伝わなくてごめんね、おばあちゃん。──あたし、掃除の途中で
土曜の夜に家族四人で囲む食卓で、食事を終えた真理愛は祖母の言葉に返す。
「真理愛、あれ好きだったよな。おじいちゃんが他にもいっぱい買って来てパパ全部順に読んだけど、あの星の絵本が一番好きで『もう一回』っていつも言われてた。もっとお姫様のとか絵がカラフルで可愛いのとか、子どもが好きそうなのあったのにさ」
「そうだったわねえ。絵本が良かったのかおじいちゃんがお遊戯みたいにしてたのが可笑しかったのか、真理愛ちゃんが初めて笑って……。おばあちゃん、何年経ってもそれだけは忘れないわ」
この話になると、祖父母の表情は昔からまったく変わらない。
嬉しそうな笑みを浮かべる祖母と、真理愛を想って喜びを表したいのか、揶揄うような祖母に怒りたいのか複雑そうな祖父。
「その『笑った』のは覚えてないんだけど、あの絵本はあたしの『家族の始まり』に繋がってるみたいなもんだから。ぼろぼろになっても絶対捨てらんない」
「おじいちゃんもその時はそこまで考えてなかったんだよ。『本屋さんで絵が綺麗だからって薦められた』って言ってたくらいで。なあ、父さん? ──でも『運命』ってそういうものなのかもしれないな」
父の言葉は本質を言い当てている気がした。
間違いなく、あの絵本は真理愛の、──真理愛と家族の歴史に大きな意味を持つ一冊だ。
どれだけ古くなっても、だからこそ誰も「汚いから新しい本に買い替えよう」とは言い出すこともなかった。
自室に戻り、真理愛は本棚の前にしゃがみ込んで立てた絵本の背表紙を見つめる。
絵の具が滲んだようなフォントの平仮名で記された『きらきらをさがしに』という文字を、何度も視線でなぞる。
世の中に同じ本はそれこそ星の数ほどあるだろう。きっと今も版を重ねているこの絵本なら。
けれど真理愛の大切な『きらきらをさがしに』は、数多の中でも目の前にある擦り切れたたった一冊きりなのだ。
──「育てて
だから敢えて声には出さない。
どんなにみすぼらしくなっても、この絵本が真理愛にとっては変わらず煌めく宝物であるのと同様に、家族もまた何にも代え難い大切なものなのだ。
~END~