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『Snow White~冷たい雪の~』

『Snowwhite~冷たい雪の~』


【1】


 圭亮けいすけの視界の隅を何かが掠めた。


 何気なく見上げると、舞い落ちてくるいくつかの白。

 ああ、また雪の季節がやって来た。

 あれから何度目になるのか。

 視線を中空に向けて指折りそうになり、一瞬置いてやめる。


 ──数える意味なんかない。これからも毎年増えるんだから。両手両足の指でも足りないくらいに、ずっと。



    ◇  ◇  ◇

「ただいまぁ」

 仕事を終えて戻った天城あまぎ 圭亮は、家族に帰宅を告げながらダイニングキッチンに足を踏み入れた。


「おう、おかえり。あ、圭亮──」

 迎えてくれた父に頷きだけ返すと、何か言おうとするのも受け流して立ち止まることなくそのまま奥に進む。

 喉の渇きが限界まで来ていたのだ。


 冷蔵庫の前に立ち、炭酸飲料のペットボトルを取り出してから氷が欲しいと冷凍室のドアを開ける。


「なんだ? こんなもの──」

「圭亮!」

 真っ先に目に飛び込んできた物体に思わず漏れた呟きを、すぐ後ろまで来ていた父が強い調子で咎めた。


「ぱぱ、ゆき……」

「今日ね、真理愛まりあちゃんが作ったのよ。雪だるま、可愛いでしょ!?」

 リビングルームから共にやって来た幼い娘の言葉に言い添えるように、心なしか強張った笑顔で圧を掛けて来る母。

 声だけは平静に聞こえるのは孫娘の前だからか。

 冷凍室に鎮座していた雪の塊は、娘が作った雪だるまらしい。

 父は圭亮に、このことを知らせようとしたのだろうか。


「あ! ああ、可愛い! 真理愛、上手だなぁ」

 焦って何とか口にした圭亮は、無言で腕を掴んだ父に廊下に引き摺るように連れて行かれた。


「お父さんやお母さんが自分たちだけでそんなことすると思うか!? ちょっと考えたら『誰が』なんてすぐわかるだろう!」

 部屋を出てドアを閉めた途端、真剣な顔で声を潜めて叱責され項垂うなだれる。

 父の言うとおりだ。

 止められることなく、あのまま「何考えてんだ」だの「汚い」だのと無神経な言葉を続けていたら……。

 たとえ意味は理解できなかったとしても、真理愛は他人の表情や口調・態度に現れる感情に敏感なのだから。


「ごめん、父さん。本当に──」

「……気をつけろ。お前はもうお気楽な独り者じゃないんだ」

 もう怒りは混じらない声で父が呟くように答えるのに、何も返せなかった。



    ◇  ◇  ◇

 あのあと。

 何食わぬ顔で父と共に部屋に戻り、仕切り直すかのように娘に大袈裟なほどの褒め言葉を掛けた。


「ぱぱ。ゆき、つめたい、……ぎゅ、ってした」

 はにかむような笑顔で話す真理愛に胸を撫で下ろし、とりあえずその場は収まった、と思っていた。


「……真理愛は雪なんて見たことないだろうから、楽しかったんだろうなぁ。いや、でも怖がったりしなかった?」

 娘を寝かしつけてリビングルームに戻った圭亮の言葉に母があっさり答える。


「ううん、雪自体は知ってたみたいよ。ずっと部屋の中だったからって別に動けなかったわけじゃないんだから、窓から雨も雪も見てたでしょ」

「ああ……」

 むしろ一人であの部屋にいたら、外を見るくらいしかすることはなかったのかもしれない。

 かつての恋人だった今日子きょうこが、別れたあとで圭亮には黙って産んで一人で育てていた娘。

 四歳九か月で今日子が薬を飲んで死ぬまで、真理愛は彼女と二人で古く狭いマンションの一室で暮らしていた。

 母親の最期の瞬間まで、同じ部屋でずっと。

 ほとんど外に出ることもなく、今日子が出掛けている間はたった一人残されるのが常態だったらしい。


 母親の死後、初めて会った父親である圭亮に引き取られて彼女はこの家に来た。

 最初は泣きも笑いもせず、言葉も出ない状態だった娘。

 しかし五歳の誕生日を迎えた去年のクリスマスから、真理愛は少しずつ言葉を発するようになって来ていたのだ。


「今までに見たことはあって『雪』だっていうのは知ってても、実際に触れたことはなかったのね。外に出ていざどういうものかわかったら、びっくりしたみたいに戸惑ってたわ」

「そっか。『白いひらひら降ってくるもの』が冷たいなんて、知らなかったら想像もつかないよな」

 咄嗟に「冷たい」という言葉は出なくても、驚きを表情や仕草で表したことだろう。

 ただでさえ大きな目を見開いて、祖父母の顔を仰ぎ見る真理愛の姿が目に浮かぶようだ。


「お父さんと二人でなるべく汚れてない雪だけ集めたのよ。塀や枝やらの上に積もったのとかね。それから作ったんだけど、湿った雪だからすぐけて手袋にも沁み込んじゃって。手が冷たいでしょうに嬉しそうでねぇ。無理にでもやめさせた方がいいのかってハラハラしたわ」

 孫娘との雪遊びを語る、母の弾んだ声。


「確かにちゃんと真ん丸じゃなくて歪だし、玉に固めるのも弱いけど。『綺麗に作る』のが目的じゃないから、大人が手を入れ過ぎたら意味ないでしょ」

「真理愛はまだ手も小さいし、力の入れ具合もわかんないだろうしな。そういうのもこれからだんだん慣れて行くのか」

 手袋をはめた小さな手でぎこちなく雪玉を作る娘を想像し、微笑ましい気分になった。

 ……ほんの束の間。


「圭亮が帰るのをリビングで私たちと待ってる間も、一人で何度もキッチンの冷蔵庫の前まで行ってたのよ。きっと真理愛ちゃんは、初めて作った雪だるまをパパに見せたかったんだと思うわ」 

 静かに紡がれた母の台詞が心に突き刺さる。

 そうだ。

 雪だるまに限った話ではなく、娘がその手で『何かを作る』のは初めてなのではないか。

 それを自分は「こんなもの、食べ物と一緒に入れたら汚いだろ」としか感じなかった。


「パパに見せたかったのよ」

 帰宅して顔を合わせた際の娘の最初の呼び掛けも、「ゆき」ではなく「ぱぱ」だった。


 ──真理愛の純粋な想いの籠った真っ白な雪のオブジェを、故意でないにしろ土足で踏み潰してしまったようで居たたまれない。


 生まれた日も、初めて立った、歩いた日も、話し出した瞬間も。

 圭亮は娘の人生の節目を、何一つこので見たことはなかった。

 彼女の存在自体が未知だったので当然だ。

 だからこそこの先の真理愛の『初めて』は、ひとつ残らずその場で確かめて喜びたいと思っていたのに。

 結局そんなものは単なる表向きの形ばかりだったと、己の浅さや薄さが露呈してしまった気がする。


「母さん。俺、俺は──」

「あなたに悪気がなかったのなんてお父さんも、もちろん私もわかってるから。実際には傷つけるようなこと言わなかったんだし、そこまで気にする必要ないわ」

 微かに震える声に圭亮の後悔を悟ったのか、母は穏やかに言い聞かせるように慰めてくれた。


「小さい子がいたら、どうしたって家は散らかるし汚れるものなの。真理愛ちゃんみたいにおとなしい子でもね。大人だけで暮らすのとは、『生活』そのものが変わるのよ。……変わらないといけないの」


 ──あなたも、これからはそのつもりでいなさい。親として。


 母はわざわざ付け加えることはしなかったが、言外のメッセ―ジはしっかり受け止めて肝に銘じよう。

 今更だが、実際に「今」できていなかったのだから。



    ◇  ◇  ◇

「あー、雪! やだなあ、積もらなきゃいいんだけど」

 帰り道に圭亮が、今冬初めての雪に気づいた日の夜。

 二階の自室から飲み物を取りに降りて来た真理愛が、キッチンの窓の向こうにちらつく白いものに気づいて独り言を零す。


「なんだよ。前は雪降ったら喜んでたじゃないか、『雪だるま作ろー!』とかって」

「はぁ!? いつの話してるのよ、パパ」

 圭亮の脳天気な感想に、先日十五歳になったばかりの娘が呆れたように返して来た。


「……確かに小っちゃい頃はただ嬉しかったけどさぁ。積もったり道凍ったりしたら危ないじゃん。去年、あたしのクラスの友達が登校中に滑って転んで怪我したんだよ。骨にヒビ入っただけで折れてなかったからまだよかったけど、しばらく松葉杖だったんだから」

「そりゃお気の毒に、って他人事じゃないなぁ。パパも何度かヒヤッとしたことあったしさ。雪だと通勤も大変だし、正直面倒だと思ってるよ。まず寒いしな」

 真理愛はもう、雪を見て無邪気にはしゃいでいた幼い子どもではないのだ。改めて実感する。


「でも真理愛に作ってもらった雪だるま、パパ今でも覚えてるんだ。おじいちゃんが撮った写真もあるけど、見る必要ないくらいだよ。毎年が上がって行ったよな」

 何気なく口にした圭亮に、娘は一瞬驚いたように目を見開いた。その顔にすぐ笑みが浮かぶ。


「……冷凍室に入れたね、最初のは。次からは玄関先に並べたっけ、小っちゃいのたくさん」

「よく覚えてるんだな」

 素で感心した父親に、娘は溜息を吐かんばかりの表情になった。


「当たり前でしょ。そういうのって忘れないの! ──でもさ、大きいの作ろうとするとどうしても泥汚れが混じっちゃうんだよねー。雪国みたいにすごい降ったらキレイな雪使い放題だけど、それはそれで他が大変そうだし」

 真理愛と他愛無い会話を交わしながら、圭亮は過去に思いを馳せていた。

 今にも崩れそうだった、雪だるまとは名ばかりの雪の塊。

 初めての娘から父への『贈り物』。あれからもう十年も経ったのか。

 懐かしそうに話す真理愛にとっても、同じくいい想い出であるらしい。

 「忘れられない」にも種類があるが、娘には間違いなく良い意味で印象が強いのだろう。

 この程度の些細なことでさえも幸せを感じられるのは、圭亮がそれだけ年を取ったからなのだろうか。

 だとしても、きっと悪いことではない筈だ。


 ──あの頃の、恥ずかしいほど未熟だった自分も、少しは成長できたというあかしならば。


 雪の思い出は、圭亮にとっては戒めでもあるのかもしれない。


  ~END~


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