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『Eternal ties~親子の軌跡~』

「はじめまして、よろしくな」

 そんな言葉をわざわざ口に出してはいない。

 当然だ。相手は圭亮の娘で、……言葉を解するかも怪しい状態だったのだから。

 正直なところ、当時はいきなり突き付けられた現実に向き合うので手いっぱいだった。

 四歳九ヶ月になるまで、その存在さえ知らなかった。別れた恋人が黙って産んで育てていた我が子。


「今日子ちゃんも悩んでたみたいなんです。私のところに来たときにはもう七ヶ月で……」

 今日子娘の母親が育った児童養護施設の指導員が、苦しそうに教えてくれた。流石に言葉を濁してはいたが、中絶可能な期間はとうに過ぎて「産むしかない」状態だったと。

 施設職員を通じて支援を受けることができ、無事出産したらしい。生まれてすぐに手放す選択肢も提示されたようだが、今日子は拒否したそうだ。


「『家族』が欲しかったんじゃないかと思うんです。今日子ちゃんは本当に幼い頃に一人になって、……施設の職員わたしたちにはどうしても埋められなかったものを求めたんじゃないでしょうか」

 家庭の代わりではあっても、施設は「家」ではないし、児童指導員や保育士は「子どもたち全員の親であり先生」だ。

 自分だけを特別に扱ってくれるわけではない。

 まったくの部外者である圭亮が簡単に言えることではないが、同じ「愛して育む」状態でもきっと中身は同一ではないのだ。

 冷たいかもしれないがなのだから。

 そしてそれは職員にも、当然入所している子どもたちにも責任などないのも事実に違いなかった。


 今日子は愛を欲していた。

 無条件に己を包み込んで肯定してくれる存在を望んでいたのだろう。

 高校を卒業して勤めていた企業を数ヶ月で辞したのも、人間関係が上手く行かなかったからだという。

 その後オフィス街の喫茶店でウエイトレスをしていた時に、職場が近くよく訪れていた圭亮と知り合った。

 人目を引く美人というほどではないが、可愛らしくておとなしい彼女に庇護欲が湧いた。

 ……いや、そんな綺麗事ではない。大学を卒業して就職したばかりだった圭亮は、同じ会社に勤める有能な女性陣に気後れしていた。

 だからなんの力もない、仕事でもまだ役に立たない自分に尊敬の目を向けてくれる、……「優越感に浸れる」相手といるのが心地よかった。


 ──今なら素直に認められる。


 しかし今日子は、ただ圭亮を持ち上げていい気にさせるための道具ではない。彼女はおそらく、あの職員先生の言う通り自分だけを愛し守ってくれる相手を必要としていた。

 圭亮にそこまでの余裕がなかったのが別れの理由なのではないか。

 つまり、この先共に生きるには足りない、と「見切られた」のだ。


 生まれた子も乳児期も過ぎ、行政からの支えも手薄になっていたのだろう。

 学校はともかく、幼稚園や保育園への就園も義務ではない。

 実際には、担当者が電話や訪問で繋がりを保とうとしていたようだが、『親』に拒否されては強硬手段は取れない。目に見えた虐待の形跡も見つけられないのだからなおさらだ。


 しかし今日子は、現実には娘を一人自宅マンションに放置して外出を繰り返していたらしい。所謂養育放棄ネグレクトと判断されたと聞いている。

 幼い子どもは親に守られる存在だ。

 しかし今日子が望んだのは「自分を守ってくれる『家族』」だった。そして彼女は手が掛かるだけの我が子から逃げるようになったのか。

 今日子自身が、歳を重ね親になっても「子ども」のままだったのかもしれない。


 最終的には、想像するしかできないが「思い通りにならない現実」から本当の意味での逃避を選んだのだろうか。

 服薬自殺を図って命を落とした彼女は、直前に圭亮に手紙を寄越していた。「娘がいるから迎えに来てほしい」と。

 別れてから五年以上が経っていた。

 突然の連絡に半信半疑で、それでも手紙の住所を訪ねた圭亮を待っていたのは今日子の遺体と、衰弱した娘の真理愛まりあだった。


 真理愛を引き取って、圭亮は一人暮らしのマンションを引き払い実家に戻った。

 両親の手を借りて、というより実質ほぼ頼りきりで初めての育児に奮闘することになったのだ。

 表情も言葉もない、人形のような少女。

 義務感が大半だった。「親として」すべきことをこなすので精一杯だった日々。


 娘が初めて笑顔を見せた日。

 無意識にも心の片隅に追いやって見ない振りをしていた、「なぜ自分がこんな目に」という薄暗い感情はもうどこにも探せない。

 あの日、圭亮は真に「親として」の一歩踏み出せたのだ。

 出会ってから初めて出た「言葉」は、家族への呼び掛けだった。

 五歳の誕生日でもある十二月二十五日クリスマスに、圭亮の両親である祖父母に「じーじ・ばーば」、そして仕事を終えて帰宅した圭亮に「ぱぱ」と。

 未熟で無神経だった男が、娘にて親になれたと心から思う。

 名ばかりだった「父親」を、ただ信頼して受け入れてくれた真理愛。

 彼女のぎこちない微笑みに、伸ばしてくる小さな手に、圭亮の方こそが愛を与えられたと感じていた。


 ──今日子には届かなかったのだろうか。おそらくは母にも向けられていたその想いが。



    ◇  ◇  ◇

 あれからもう十年以上が過ぎた。

 真理愛は高校三年、受験生だ。「家から通える大学がいい」と、地元ではかなりの難関大学を目指している。

 圭亮自身が遠方の大学に通っていたため、自宅通学に拘る必要はないと話していた。

 高給取りとまでは軽口でも言えないが、幸い安定した仕事もある。まだ四十過ぎということもあるし、それこそ若い頃から「娘のために」と蓄えに励んで来ていた。

 親の家に同居で、生活費は渡していても別に住居を構えるよりは出費も相当抑えられている。

 そのため、学費については何も心配はいらないとも伝えていた。しかし本人の決意が固かったのだ。

 本命は国立、併願で合格した私立もすべて通学可能範囲に位置する。

 家族に気を遣っているのでは、という思いは拭えなかったが、もう小さな子どもではない娘の意思を尊重したいと結局は賛成した。


《パパ! 受かってたよ!》

 職場で上司や同僚に断って、規則で置いたままのロッカールームで確かめたスマートフォン。

 今日は娘の受験した大学の合格発表だ。今どきは、わざわざキャンパスの掲示を見に行くことなくネットで確認できるらしい。

 大学の「結果発表ページ」を確認するまでもなく、ディスプレイに浮かぶ通知が娘の合格を伝えていた。

 トークルームを開くと、メッセージの上にWEB発表画面のスクリーンショット。


「やっ、……た!」

 思わず漏れた声を口に手を当てて抑える。ロッカーとはいえ職場なのだ。今は抑えなければ。

 どうにか表情を繕えるようになるまで間を置いて、圭亮はようやくオフィスへ戻るために歩を進めた。


「おかえり、パパ!」

 出迎えた真理愛の笑顔に、自然と口元が緩む。

 ここしばらくはさすがに緊張が隠せなかった彼女の、久しぶりの満面の笑み。


「ああ、ただいま。やったな、真理愛。おめでとう!」

「うん。『合格確実だし大丈夫』って言われてても、やっぱり受験に絶対はないからさ。中学受験よりずっと不安だった」

 弾んだ声で告げる真理愛の上気した頬に愛しさが募る。


「圭亮、今日は真理愛ちゃんのお祝いでお肉なのよ~」

 キッチンで食事の支度をしている母も、全身から喜びが溢れているようだ。


「肉? 父さんも母さんも、もう肉はあんまりって言ってなかった?」

「祝いは肉に決まってるだろ! 箸で切れるような上等なのを買ったから大丈夫だ」

 七十を過ぎた両親を気遣ったつもりの問い掛けは、父に遠慮なく退けられた。


「あたしも『お刺身にしようよ』って言ったんだけど。おじいちゃんが『絶対肉なんだ!』って聞かないんだもん」

「おじいちゃんはまだまだ自分の歯だって残ってるんだからな。ばあさんも、なあ?」

「そうよ。こんな時でもないとお肉なんてわざわざ食べないもの」

 真理愛が笑いながら話すのに、両親が口々に答えている。


 もう幼くはない、けれど今までと同様に大切な可愛い娘。

 小柄で痩せた身体の、泣きも笑いもしなかった四歳の少女は、いつの間にか十八歳になっていた。

 初めて顔を合わせたときは二十九歳だった圭亮が、もう四十二なのだからそれも当然だ。


 娘がこの家に、──圭亮の目の届く範囲にいてくれるのはいつまでだろう。

 四月には大学に入学し、数年後には社会人になる。圭亮より、……家族より心を傾ける存在ができるかもしれない。

 いや、それが自然だ。


 結果として独身を貫いた圭亮に、「ずっとパパといてあげるよ」と口にした真理愛。即座に「要らない!」と返してしまった。

 あのときの娘の呆れた顔。

 言葉のチョイスが悪かったのは認めよう。それでも決して嘘偽りではなかった。

 ずっとこの掌にいて欲しいと願う自分もどこかにいる。いつまでも、子どものままで。

 しかしそれを望んではいけないのもまた、理解していた。


「ねえパパ。いろいろとありがとう」

 まるで父の心を読んだかのような、改まった娘の台詞。

 咄嗟に否定しようとした圭亮を制するように、真理愛がさらに言葉を被せる。


「でも、これからもまだまだ世話になるから! だってあたし、パパの子だもん。覚悟しててよ、パパ」

「ああ、任しとけ!」

 声が震えそうになるのを、圭亮はどうにか堪えて平静な振りをした。


 近い将来、この娘が巣立つ日が来ても。

 血の繋がりだけではない、二人が重ねて紡いできた日々は決して消え失せることはないのだ。

 互いに「育て合って」つちかった父と娘としての関係は、永遠に変わることはない。


 ──「こっちこそ『ありがとう』だよ」と心の中だけで呟く。言葉にしたら涙を堪えきれないだろうから。


 ~END~


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