「圭亮。お母さん買い物に行きたいんだけど、付き合ってもらえる? お米を買いたいのよ」
母の言葉に、圭亮は承諾を返した。
「いいよ、もちろん。重いもんな。そういうのは必ず言ってくれよ。……ああ、買い物なら真理愛も──」
「真理愛ちゃんまで行ったら、お父さんが寂しがるじゃない。真理愛ちゃん、おじいちゃんとお留守番しててくれる?」
「うん、わかった~」
「ありがとう、真理愛ちゃん。おじいちゃんとゲームしようか?」
年寄り扱いにも苦言を呈さない父に、多少の違和感を覚える。──その理由は、出先で判明した。
一通り買い物が済んだあと、母が切り出した。
「ねえ、お母さんちょっと休みたいわ。お茶飲んで行きましょう」
普段は外でお茶などしたがらない母の申し出を不思議には思ったのだが。
「いいけど」
二人で適当に目についたカフェに入る。
「圭亮。もし結婚するなら、真理愛ちゃんのことを最優先に考えてあげてね」
唐突な母の台詞に、圭亮はコーヒーにむせそうになった。
「な、何。何を急に、母さん──」
「お付き合いしてる方がいるんじゃないの? ああ、もちろんそれは構わないのよ。あなたもまだ三十四なんだし」
「……いや、俺まだ三十三だから」
「あら、そうだった? とにかく、お母さんもお父さんも結婚そのものに反対する気はないの。ただ、真理愛ちゃんがいることだけは忘れないで」
母の忠告に、圭亮は心外だという気持ちを隠さなかった。
「忘れるわけないだろ。その、彼女、にも真っ先に話してるよ。というか、職場でも俺が子持ちでシングルファーザーなのは知れ渡ってるし」
あくまでもプライベートであり、家庭の事情について正式に説明したことはない。
そのため、特に圭亮より若い社員の間には「学生結婚して離婚したあと、元奥さんが亡くなって娘さんを引き取った」という、真実と遠いのか近いのかわからない説が普通に広まっているらしかった。
別に実害もないし、放置しているのが現状だ。
説明に困るのは事実なので、勝手に思い込んでくれているならむしろ好都合なくらいだった。
実際に結婚歴はないので当然なのだが、「結婚したことを聞いた人が居ない」というのが何故か『学生結婚』に繋がったようだ。
真理愛の存在を知ってから、女性と交際したのは一度きりだ。
職場の後輩で、五歳年下の
彼女とのデートは、真理愛の手前もありすべて残業で通していた。しかし、どうやら両親には見抜かれていたらしい。
なんとなく気が合って、付き合い始めた。聡明で温和、自分を持ち圭亮に頼り切ってくることのない彼女といると落ち着いた。
年齢的にも、今が楽しければそれでいいわけではないのは承知の上だった。
結婚を視野に入れるなら、真理愛を蚊帳の外に置いておくことはできない。紹介して、二人を会わせてみないと。
とは言え、まだ二十代の彩佳に小学生の子がいる男と結婚する覚悟があるのか。……そういったことも、話し合う必要はあるのだろう。
母に釘を刺されたのは、まさにその頃だったのだ。
偶然のタイミングというよりは、圭亮の態度からそういう空気を読み取っていたと考えた方がよさそうだ。
「圭亮さんは、やっぱり真理愛ちゃんが一番なんですよね。結局、どうやっても私は真理愛ちゃんには勝てない気がします」
二人で過ごしているとき彩佳がぽつりと零した言葉に、圭亮は反射的に返していた。
「それはその通りだよ。俺は父親だから。……娘がこの世で一番大事だ」
あの時の、彼女の絶望したような表情。ほんの一瞬で消えたけれど、確かに圭亮の目は捉えていた。
彩佳が否定して欲しくて口にしたことくらいは、圭亮も無論わかっていた。「そんなことないよ」のひとことで、とりあえず安心させられたということも。
けれど、たとえその場限りでも、圭亮には真理愛を後回しにするとは言えなかったのだ。
彼女との関係は、それからすぐに終わりを迎えた。
お前はどこまで行っても二の次だとはっきり突き付けられて、何も感じない女性など居る筈がない。壊れるのも必然だった。
別れたあとも彩佳は、決して仕事の場では態度を変えなかった。おそらくは希望して、次の異動で圭亮の部署を去るまで。
彼女の強さには敬服する。同時に、心から申し訳ないとも思っている。
圭亮は、彼女の時間を無駄にしてしまったことを、……傷つけてしまったことを忘れたことはなかった。
それ以来、圭亮は特別な存在を作る気には、もうなれない。
自分は結婚などしてはいけない。そんな資格はない。
妻となる女性を、誰よりも愛して大切にすることは、圭亮にはできないのだから。
少なくとも、真理愛が無事に巣立つまでは。
◇ ◇ ◇
「パパ、最近早いね。お仕事、もう忙しくないの?」
彩佳と別れた直後のこと。
定時で職場を後にして帰宅した圭亮に、真理愛が嬉しそうに抱きついて来る。
「あー、うん。一段落ついたんだ。しばらくはあんまり遅くならないよ。今日みたいに早いのは、いつもじゃないと思うけど」
「圭亮、真理愛ちゃん待ってたのよ。早く手を洗って着替えて来なさい」
「あ、わかった。ごめん」
食卓に料理の皿を並べながら叱る母に詫びて、圭亮は真理愛と身を離した。真理愛はダイニングキッチンへ駆けて行く。
「おばあちゃん、手伝う!」
「ありがとう。じゃ、お碗とお箸出してね」
祖母と孫娘の会話を背中で聞きながら、圭亮は洗面所に向かった。
これが、圭亮の家庭。
己で選び取った、何にも代えがたい大切なものだ。
~END~