目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

『Dinner~天城家のカレー~』

「おかえり、パパ! ばんごはんはカレーだよ」

 圭亮が仕事から帰るなり、出迎えた娘の真理愛が嬉しそうに報告する。玄関を開けた途端に漂う香りで、即気づきはしたのだが。


「カレーか、いいな。パパ、カレー大好きだ」

「しってる! まりあもお手伝いしたの。にんじんとじゃがいもの皮むいた」

「そっか、えらいな」

 娘と会話しながら歩く。


「圭亮、おかえりなさい。すぐ食べるでしょ?」

 とりあえずダイニングキッチンに顔を出した圭亮に、母が声を掛けて来た。


「うん。いま着替えて来るから」

「今日はカレーね。お父さんと圭亮はこっちで、この小さいお鍋はお母さんと真理愛ちゃんの」

 二つの手鍋を指して母が説明するのに、圭亮は反射的に言葉を返す。


「また二つ作ったの? 一緒でいいって言ってるじゃん。真理愛に合わせて甘口で、俺たちは適当に唐辛子でも足すよ」

「大した手間じゃないもの。ルー入れる時に分けるだけだから。量は増えるけど、また明日も食べるでしょ?」

「いや、食べるけどさぁ」

 すっきりしない圭亮に、母は素早く周囲を窺った。真理愛が父と洗面所で手を洗っているらしい水音を確かめて、そっと囁くように告げて来る。


「……実は、甘口だけにするつもりだったのよ。正直、お母さんもカレーのお鍋二つ洗うの面倒だと思っちゃって。でも真理愛ちゃんが、『パパはカレー好きだから、パパの好きな味で作ってあげよう』って。なんか反省したわ」

「鍋は、空になったら明日俺が洗う! それで解決、だよな?」

 圭亮が「一件落着」とばかりに宣言するのに、母が笑って手を振った。


「それはいいわ。別に本気で嫌なわけじゃないから」

「いや、洗う! 母さんが全部作ってくれてるんだから、皿洗いくらい俺がやらなきゃいけないんだよな。……ホント、いつも任せきりでごめん」

 譲らない圭亮に、母がさらに口を開こうとしたところに父と真理愛がやって来る。


「もー、パパ! 早くきがえて、お手々あらって来てよ」

「あ、そうだよな。ごめん、真理愛」

 娘に叱られてあたふたと自室に向かう圭亮の背後で、両親と真理愛が何やら笑いながら話している気配を感じながら。


 こんな他愛のない日常も、きっと振り返れば幸せな記憶の一ページになるのだろう。


「母さんのカレー、美味いよなぁ。別に特別なもの何も入ってないのに。カツカレーのときの肉なしカレーでも美味いもんな」

「大袈裟よ。普通のルーで普通に作ってるだけ。誰が作っても同じ」

 圭亮の誉め言葉に、母が謙遜でさえなく素っ気なく返して来る。


「いや、俺大学時代一人暮らしだったじゃん? 自炊っていったらカレーかおでんか炒飯くらいだったけどさ、うちと同じルーで箱の裏見て作っても味違うんだよ。なんでだろ」

 一人頭を捻る圭亮に、横から真理愛も便乗するように声を上げた。


「まりあ、おばあちゃんのカレーだいすき! 給食のカレーもおいしいけど、おばあちゃんのがいちばんおいしい」

「ありがとう、真理愛ちゃん」

 孫娘の称賛は素直に嬉しいのだろう。母が満面の笑みで答える。


「ねー、おばあちゃん。まりあにもカレーおしえて。パパに作ってあげるの」

 カレーは圭亮の大好物だ。もちろん真理愛もよく知っている。……可愛い娘。


「そうね、もう少しだけ大きくなったらね」

 やはり火を使うので、母も安請け合いはできないらしい。真理愛も常日頃聞かされているのか、反論することもなく頷いた。


「母さん。鍋、俺があとで洗うから絶対置いといて!」

 食べ終えて、シンクに運んだ食器を置きながら母に念を押す。


「はいはい。……お母さん、圭亮は結婚向いてないと思ってたの。たとえば奥さんが体調悪くてご飯作れない時、『俺の飯は!』はさすがにないだろうけど、『食べて帰るから気にしないで』くらい平気で言いそうだったし」

 軽く返事した母が、続けて唐突に切り出した。


「……」

 母の厳しい言葉を否定できないのが辛い。

 それどころか、当時なら「それの何が問題?」と理解できなかったかもしれないとすら思う。おそらくは「奥さんの食事はどうするの?」と訊かれなければ、思考が及ばなかった。


 真理愛が初めて熱を出したとき。

 これから帰る、と母に電話した際に聞かされて、パニック状態でドラッグストアに駆け込んだ。額に貼る冷却ジェル、イオン飲料のペットボトル、桃と蜜柑の缶詰まで買って、大慌てで帰宅した。

 ダイニングテーブルに並べた品を見た母に、呆れたように「全部うちにある」と言われて脱力したのを思い出す。


「真理愛ちゃんに声掛けてあげて。パパが帰るの待ってたから」

 母の声に、ようやく娘が己に求めているものを知った。

 それでも。たとえ的外れな行動だったとしても、真理愛のために身体が勝手に動いたのだ。


 今まで、他人に何かしてやりたいと心から思ったことがあっただろうか。

 恋人の誕生日にも、相手が欲しがるものを予算と引き比べつつ買って贈り、そこそこの店で食事する。それで十分だと信じていた。

 けれど、そこに気持ちはあったのか?


「パパにカレー作ってあげたい」

 幼い子どもでさえ自然に抱く感情が、自分には欠落していたのかもしれない。


「でもね、昨夜気づいたのよ。お母さんの方も、圭亮をいつまでも子ども扱いしてたのかもしれないって」

 過去を思い返して沈んでいた圭亮は、母の声に現実に引き戻される。

 鍋を洗うと言い出したことか。その程度のことで。……いや、逆だ。さえも、自分はできていなかったのだ。

 真理愛の親になったと自負していた。自分は精一杯努力しているとどこかで考えていた。

 しかし、両親に対してはまだまだ息子気分の甘えが抜けていなかったと感じる。息子であること自体は生涯変わらないとしても。


「俺、まだ『父親年齢二歳』だから。これからも名実ともに親になれるように頑張るよ。母さんたちにも面倒掛けると思うけど」

「それは面倒とは言わないのよ」

 そう微笑む母には、きっとまだまだ敵わない。


  ~END~



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?