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Girl⑤

 洗面台の鏡に映る自分と見つめ合う。


 祖母に似た目元。母に似た、らしい栗色の髪。

 夕食も済ませて、祖父母はテレビを観ている。父はまだ帰宅していない。


 母は服薬自殺だったようだ。真理愛を同じ部屋に残して。

 母が飲んだ、たくさんの小さな白い粒。いまならわかる、あれは、錠剤だ。危険な薬、だったのだろう。

 両親が結婚していなかったことも、おそらく母が父に黙って真理愛を産んだことも具体的に聞かされたことはない。

 むしろさり気なくはぐらかされてきたのだが、真理愛はそう確信していた。

 五歳になる少し前にこの家に来て、それからもう七年以上共に過ごした。

 もし知っていたら会いにも来ないような父では、──祖父母でもないことはよくわかっている。


 真理愛は、母のことはあまり覚えていない。思い出せない。

 ……記憶を探ろうとしても、見つけることはできない。


 思い返せば、いつもお腹を空かせていた。

 キッチンのシンク下に置かれた踏み台に乗って、水道のレバーを押してコップに汲んだ水を飲む。

 母が置いて行く菓子パンを食べ尽くしたとき、……何も置いて行ってもらえなかったとき。

 一人で留守番をしている真理愛にとって、それは唯一の空腹を満たす手段だった。

 殴られたことも、怒鳴られたこともなかった。出掛けていなければ、一緒に食事することもあった。

 しかし、必要とされ愛されている実感もまた、なかったのだと真理愛は思う。


 ──なぜ、母は自分を産んだのか。真理愛は、母にとっては不要だったのか。枷でしかなかったのか。


 考えるたびに行き詰る。胸が締め付けられる気がする。

 辛いことも、苦しいことも、たくさんあった、筈。

 けれど、詳細はどこまでも曖昧なのだ。きっと自分を守るために、心に蓋をしてしまったのだろう。

 

 死を選んだときに真理愛を連れて行かなかったのは、母の愛情なのか。それとも、単に興味がなかったからなのだろうか。

 母は、くわだての前に父を呼んでいたらしい。

 殺風景な四角いマンションの一室で、母の遺体と共に起き上がる体力も気力もない真理愛を見つけてくれたのは父だった。

 確実なのは、父が来ていなければ真理愛は今ここに居ないということだけだ。

 普段から誰ひとり訪ねる人もいなかったあの部屋で、真理愛もまたひっそりと息絶えていただろう。


「ママは真理愛が好きだったから。大事だったから、パパに『迎えに来て』って頼んだんだよ」

 いつか父に聞かされた言葉。

 それが真実ほんとうだったらいいのに。……ただ無心に信じられたらいいのに。

 この家にも、新しい家族にもすっかり馴染んだ小学生の頃。

 父にも祖父母にも、心から大切にされいつくしまれているという自信のようなものが、真理愛の心と身体の隅々まで行き渡ったからだろうか。

 ふと、何の脈絡もなく母の姿が浮かぶことがあった。

 顔立ちも服装も周りの光景もすべてしゃが掛かったようなのに、笑みをたたえた母の口元だけが鮮明クリアな、不思議な感覚。


「まりあはクリスマスに生まれたから、聖母マリア様と同じ名前なの。『真理ほんとうの愛』って意味なのよ。……まだ、わかんないね」

 ぎゅっと抱き締めてくれた母の、優しい声。他は全部忘れてもいい。


 ──忘れてしまいたい、と願っていたから、その通りになったのかもしれない。


「……ママ」

 吐息だけで呟く。

 誰にも聞こえないように。真理愛を愛し、心砕いてくれる家族に心配を掛けないように。

 今はまだ、彼女に対する己の感情が何なのか、……愛なのか、憎しみなのか、あるいは無関心なのか。

 答えは、出せないのだけれど。


 こんな風に悩めるのも、生きているからだと。──真理愛がいま幸せだからだと、心のどこかで誰かが囁く。

 生まれて来てよかったと思っている。少なくとも現在いまは。

 これからもっと成長して、大人になって。

 父や祖父母が愛してくれたように、己が家族以外の他人を愛せる日が来るのかもしれない。

 誰かを愛して、いつの日にか真理愛自身が母になったら。遠く微かな記憶の中に居る彼女の気持ちも、少しは理解できる、のだろうか。


 ──理解していいことなのかも、今の真理愛には判断できない。


 母を許してあげられたら、というのも紛れもなく本心だった。

 同時に、幼心に与えられた苦痛もまた、真理愛にとっては消えないなのも事実なのだ。

 見ない振りをしても、どんなに押さえつけて隠しても、確かに存在する傷痕。

 まだ中学生の真理愛には、簡単に答えを出せる問題ではなかった。だから今はただ、彼女の笑みだけ抱いていよう。

 望んで産んでくれたのだと信じたい。ほんの僅かな可能性にでも縋りたい。

 ──いま、だけでも。


    ◇  ◇  ◇

「パパ、おかえり」

「ああ、ただいま。もう晩ご飯は食べたのか?」

「うん、とっくにね。パパも食べる?」

「あら、おかえり圭亮。今、温めるから──」

 リビングルームで祖父とテレビを観ていた祖母が、父と真理愛のやり取りに気づいて腰を上げようとする。


「電子レンジに入れるだけだもん。あたしがやるから、パパ手洗って来てよ」

 祖母を制する真理愛に軽く礼を言い、父は洗面所に向かった。

 食事中の父の正面に座り、真理愛はホットミルクを飲みながら話す。


「夏休みの旅行、楽しみだな。小ちゃくても一応『天文台』があるんでしょ? パパ、ホントに絶対行けるんだよね!?」

 二年以上前の約束が、ようやく叶うのだ。中学受験の合格祝いの、天体観測旅行。

 本命だった今の学校に合格した際、父が満を持して、という感じで温めていたらしい計画を話し出した。


 父は最初、当然のように真理愛の小学校卒業から中学校入学までの間に行くつもりだったようだ。

 しかし、真理愛と祖母に異口同音に「そんな時間はない」と却下され、早々に諦めた経緯があるのだ。

 入学準備や新入生登校日もある。入学までの課題も出されていた。


 その後、家族で話し合った結果、夏休みに決行することになった。

 真理愛が入学する学校の夏季休暇の実態を調べ、『星を見る』という目的に合わせてまずは場所と日程を決めた。

 そして、父が仕事の休みを取れることを確認して予約を入れたのだ。

 真理愛はもう、今から待ち遠しくて仕方がない。


「行ける! 万難を排してでも行くぞ! 大丈夫、そのために普段から一生懸命働いてるんだからな」

 大袈裟な父の台詞に、真理愛は笑みを浮かべた。


「ねぇ、こっちとは空そのものが全然違うんだよね? あたし、『満天の星空』って言葉でしか知らないんだ。一回でいいから見てみたかったの」


 あの、懐かしい絵本の中にあるきらめきを。


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