「
パソコンのディスプレイを指しながらの圭亮の言葉に、新入社員の彼はさっと緊張した面持ちになった。
研修を終えて、昨日正式に配属されたばかりの若林
「は、はい! なんでしょうか!」
「いやいや、そんな身構えなくていいから」
身体中に力が入っているのがわかる彼の少し上擦った声に、圭亮は苦笑しながら答える。
「とりあえず全体の流れはこれで掴めると思うから。ただいくつか注意して欲しいとこがあるから説明するね」
「はい! あ、あのちょっと、──すみません、お願いします!」
あたふたと取り出したメモ帳とペンを手に、真剣な眼差しを向けて来る達大。
真面目で前向きな後輩には、指導する圭亮も力が入るというものだ。
「天城さん、まだ残られてて大丈夫なんですか?」
勤務終了の定時は一時間ほど前に過ぎている。
切りの良いところまで進めておこう、と圭亮がディスプレイ上のファイルをクリックしたときだった。
隣の席から、恐る恐るという感じで達大が声を掛けて来たのだ。
「ん? なんで?」
「お子さんが小さい人は、なるべく早く帰ってもらえるようにしてるって聞いてます」
彼の返答に、圭亮は少し驚く。
「え!? よく知ってるね。俺が子持ちだって」
「はい、課長に、……あ! あの、すみません、僕。プライベートのことに口出すのはダメですよね、あの──」
「そんなの気にする必要ないよ。家庭のことで融通利かせてもらう立場で、ある程度オープンにするの当然だから。配慮はしろ、でも一切触れるなって勝手過ぎるだろ」
大慌てで取り繕おうと焦っているらしい達大に、圭亮は敢えて軽い口調で返した。
「……すみません、ありがとうございます」
恐縮している彼に、かえって申し訳ない気分になる。
「俺は両親と同居だしなぁ。娘もやっと小学校入ったし、保育園の送り迎えある人たちとは全然違うからさ。……
「そうなんですね。僕、よくわかってなくて」
まだ他の課員の状況も把握していない筈だ。
そうでなくとも子どもどころか結婚もしていない、それ以前に社会に出たばかりの達大には知らないことの方が多くて当然だろう。
「ああ、でも今日は帰らせてもらおうかな。悪いけど」
正直いったん集中力が途切れてしまったこともあり、圭亮は今日はもう切り上げることにする。
「いえ、そんな! お疲れさまでした! また明日もよろしくお願いします」
「うん、じゃあ若林くんも今日はもう終わりにしようか?」
きっちり頭を下げる彼に笑顔でそう告げてから、圭亮は片付けに掛かった。
◇ ◇ ◇
電車を降りて、駅の改札を出る。
人の流れの邪魔にならないよう一歩外れて立ち止まり、圭亮はスマートフォンを取り出して電話を掛けた。
「あ、母さん? 俺、今駅着いた」
端的にそれだけ告げると、母の返事を確かめて通話をオフにする。会社を出た時と最寄り駅に着いた時の連絡は、圭亮の日々の習慣なのだ。
家までは一キロ弱、徒歩十分程度だ。今更急いだところで数分も変わらない。頭ではよくわかっているのに、何故だか自然早足になってしまう。
──いつものことだ。
自宅の玄関ドアの前で、大きく息を吸って背筋を伸ばす。圭亮にとってこれは、帰宅時のルーティンのような行動だった。
改めて、気持ちを入れ替えるための。
インターホンを押すと、待つほどもなくドアが中から開かれる。
「パパ! おかえり!」
娘の弾んだ声に迎えられて、圭亮は一瞬緩みかけた表情を慌てて引き締めた。
「ただいま。……真理愛、ドア開けるのは誰だか確かめてから! いつも言ってるだろ?」
つい先ほど連絡も入れているし、圭亮ではない可能性はほとんどないだろう。何より両親も在宅している。
この時点に限っては、実質危険があるとは思わない。
それでもこれは習慣として、娘には身につけさせなければならないことなのだ。だから圭亮は、口うるさいのは承知の上で注意するのをやめるつもりはなかった。
「……ごめんなさい。おばあちゃんから、パパもうかえってくるって聞いたから。ピンポン鳴ってぜったいパパだと思って」
しょんぼりした真理愛が可哀想にはなるものの、親として厳しくすべき義務はあると考えている。「母親がいないから」とだけは誰にも言わせたくなかった。
無論自分の立場や恥などの問題ではなく、ただ娘のために。
それが圭亮の矜持だ。
職場を出てから、自宅に着くまで。
その間の約一時間で、圭亮は『
場合によっては、玄関前に立つギリギリまで仕事を引き摺っていることもなくはない。しかし、家に入った、──正確には娘の顔を見た瞬間、
自分でも驚くほど鮮やかに。
「うん、それはわかってる。パパが帰って来るの喜んでくれるのは、すごく嬉しいよ」
圭亮のフォローの言葉に真理愛は安心したように笑い、……ふと何か思いついたようにぱっと顔を輝かせた。
「あ、そうだ! パパえっと、おつ、おつかれさま、でした!」
娘がぎこちなく口にする労りの台詞。
おそらく普段母が言うのを聞き覚えて、自分でも使ってみたかったのだろう。
小学校に入学したばかりの彼女は、日々新たな知識を吸収して行く時期だ。
「おかえりなさい、圭亮。お疲れ様、もうお母さんたちは先食べたから。今温めるわね」
「おう、圭亮。おかえり」
二人連れ立ってリビングルームのドアを開けると、両親が迎えてくれる。
「おばあちゃん、まりあも牛乳のむ! ひとりでごはんじゃ、パパさびしいからいっしょに」
「はいはい。じゃあ牛乳も温めましょうね」
圭亮は、己がまったく完璧でも何でもないただの凡人だと自覚していた。そんな父親でも、全身で肯定してくれる真理愛。
ほんの少しでも、この娘の期待に応えられるように。
格好いい
──けれど、理想の自分、理想の父親を目指して努力することならできるのだから。
~END~